第4話

「あれ、渚くん? どうしたの?」

「殺される! 姉さんに!」

 鬼気迫る表情であった。渚が演技をしているようには、とても見えなかった。怯えた目をして幸次の腕にすがりつく渚を見れば、とんでもないことが起こっているのは容易に察せられる。

「待て!」

 渚が来たのと同じ方角から、女性の声がした。そちらの方を見ると、そこにははたして、渚の姉、由利がいた。

 その手には、包丁が握られていた。

 どうしてこのような状況になったのか、幸次には全く理解できない。一つだけ分かるのは、これは只事ではない、ということのみである。警察に電話しなければ……幸次はすぐに思った。スマホを取り出そうとしたが、ポケットには入っていない。幸次の後頭部から、冷えた汗が流れ始めた。吹き寄せる冷たい北風がその汗をさらに冷やし、幸次は身震いした。

 取り敢えず、渚に何かのことがあっては大変だ、と、幸次は渚を後ろに隠し、由利と正面から向かい合う形で立った。

「芦田さん、どうしてここに……」

「由利さんこそ、そんなもの向けないで」

 幸次の声は震えていた。これが甚だ危険な状況であることは、痛い程に理解できる。自分が殺される可能性だって、当然考えられる。それでも、渚を捨てて逃げ出すことだけは、今の幸次にはできなかった。

「早くどいて。でないと、貴方だって許さない」

「それはできない。渚くんを傷つけるつもりなら、それは許さない」

「何だ、あいつともうナカヨシなのか。だったら一緒に死ね!」

 由利は包丁を固く握りしめたまま突進してきた。やはり、話が通じないようであった。もうすっかり、理性というものは消し飛んでしまっているらしい。

 幸次はどうすればよいのか分からず慌てふためいていた。ければ、渚が殺される。避けなければ、自分が刺される。

 考える暇もなく、包丁を構えた由利は目前まで迫ってきている。

「このっ!」

 幸次は咄嗟に、背負っていたリュックのショルダーストラップの部分を掴んで、まるで武器を振るうように大きく横に振った。ぼす、と、軽い音がして、リュックが由利の体に当たり、体勢が大きく崩れる。ファスナーが半開きだったのか、その衝撃でリュックの中身がアスファルトの上にぶちまけられた。その中には、幸次が先程探していたスマホもあった。

 とにかく、体勢を崩している間に包丁を取り上げなければ。そう思って咄嗟に接近した幸次の目前に、その凶刃は煌めいた。

「あ……」

 肉を裂き、血管を断つ感触が、幸次を襲った。幸いだったのは、反射的に防御姿勢を取ったために、胸や腹、首などではなく左の二の腕の肘に近い部分に刃が刺さったことだ。

 あまりの激痛に耐えかねて、幸次はその場に倒れ込んだ。痛みとパニックで、周囲の状況がまともに把握できないが、遠くからパトカーが接近してきていることは、その耳目がはっきりと捉えていた。

 騒ぎを聞きつけた第三者が通報したことで、警察が駆けつけてきたのだった。由利はその警官に現行犯逮捕され連行された。

 幸次はすぐに病院に運ばれた。幸いにも、怪我の程度はそれほどでもなかった。だが、肉体以上に、精神面に大きな裂傷を負うこととなった。


「はぁ……」

 退院後、幸次は部屋で一人、溜息をついた。勇んで婚活などに精を出した結果、待っていたのがこれであった。これは、婚活などという合わないものには手を出さず、大人しく独り寝をしていろという天啓なのではないか、と考える。良かったことと言えば、渚と出会うことができたという、ただ一点のみである。

 そのようなことを思考していると、スマホが鳴り出した。見ると、それは渚からの連絡であった。

「明日、もしお暇でしたら会いたいです」

 その一行であった。幸次はすぐさま、快諾する旨の返信をした。明日は何の予定もないし、そろそろまた、彼と会いたいと思い始めていた所でもあった。休日はろくに話す相手もいない幸次が交誼こうぎを交わした、貴重なオタク友達であった。

 翌日の昼、二人はいつもの駅前で会った。

「久しぶりです」

「こちらこそ、お久しぶり」

「あの……その……怪我の方は大丈夫ですか?」

「うん。まぁね」

 傷こそもう塞がってはいたが、幸次の左腕には、生々しい縫合の跡が残っていた。それを見た渚の表情が、負い目を感じてか、俄かに暗いものになった。

「ごめんなさい……本当に……謝って済むことではないですけど……」

「いや、君が病むことじゃないよ。姉さんは姉さんで君は君じゃないか」

「そうでしょうか……」

 渚の顔は、まだ暗いままだった。曇った顔でさえ尚、どんな美女よりも綺麗に見えてしまうほどに彼は美少年であったが、それでも、やはり、彼には笑顔でいてほしい、と、幸次は強く感じた。

「取り敢えず、ご飯食べに行こう」

 幸次は、渚を中華料理屋に連れていった。

「好きなもの頼んでいいよ」

「いいんですか? それじゃあ……」

 渚がメニューを眺めている間、幸次はその顔をまじまじ眺めていた。本当に、惚れ惚れする程の美少年だ。彼に愛されるであろう女性が、羨ましく思えてしまうぐらいに。

 彼に愛される女性……そのことを思うと、途端に、幸次は、得も知れぬ、胸を騒がせるような、妙な感情に襲われた。そしてそれは、決して前向きな感情ではないということだけが、幸次には理解出来た。

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