第21話 命の価値

「何よ……!」


 あまりに唐突かつ衝撃的な内容に、私は思わずがばりと半身を起こしていた。その間にも、「神の子」の声は続いている。


 ――知識だけじゃなく、私には人類が培ってきた歴史や道徳も刻み込まれてる。人類のこれからを導くために。それにマリア、君が色んな人の生き方を教えてくれた。第七天アラボトの外の惨状も。それで、私は結論を出した。


 結論という言葉からは嫌な予感しか感じなかった。羊水に浮かんでるうちから結論だ何で、急ぎすぎってもんじゃないの? 私は気が楽になりたかっただけなのに、どうして重い話ばかりぶち込まれるのよ!? 聞きたくない――けど、ごくりと唾を呑み込む音は、もちろん頭に直接響く声を妨げはしない。


 ――人の命は何より尊い。まして生まれてもいない胎児の生命は何にも増して守られるべきだ。だから、マリア、私を生まれさせないで。子供を助けてあげて欲しい。


「ちょっと、待ってよ」


 声を出しちゃいけない。誰かに独り言を聞かれる訳にはいかない。ましてこんな上ずった、引きつった声なんて。そう思っても、口が勝手に動いていた。頭の中だけで会話するのも限界だった。


「私に何をさせようって言うの!? 生まれさせないって──どうやって!? まさか──」


 ホルツバウアー邸の空調は、常に適温に保たれていた。なのに今、私の二の腕はあり得ないはずの寒さに粟立っている。だって、こいつが言い出したのは、何もかもをひっくり返すようなことよ。私の子宮に居座っているのが神だろうと悪魔だろうと、私の仕事は、こいつを無事に産んであげることなんだもの。そして、それによって私にはお金と明るい未来が保障されるの。そのために、ずっと頑張って来たんじゃない。どうして当の赤ちゃんに邪魔されなきゃいけないのよ!


 昨日──つい、昨日のことだ! ──見てしまった、女の子の青白い顔を思い出すと一層寒気が増した。あの子は自殺だったってことで納得してたけど、もっともらしい背景バックグラウンドもあったけど。可哀想な胎児の《声》も、胸を引っ掻いていつまでも消えてくれないんだけど。

 こいつと同じ「神の子」なら、願うことも同じだったりしなかったの? 生まれたくないからって、敬虔な子に悪魔に取り憑かれたって信じさせて、それで──


 ──マリア、落ち着いて。私は胎児を生かしたいんだ。それに、君もひどい目に遭って欲しくない。彼女たちみたいなことは、絶対に起きて欲しくない。


 じゃあ、一体どういうことよ!? どうしてどいつもこいつも私を犯罪者にしようとするのよ。胎児の誘拐に、堕胎──殺人に。私に何をさせたいの!?


 ――彼女たちに何があったか、私にも分からない。代理母に何をどう話したのか。――でも、私は母体も胎児も道連れになんかしない!


 頭に響く《声》には、はっきりと憤りの感情が宿っていた。頭を揺さぶられるような強い感情が、私の恐怖を少し振り払ってくれる。少しだけ、冷静にさせてくれる。そう……こいつの主張によると、「神の子」と胎児は別の存在、別の魂ということだ。だから、は望んでいないと、信じて良いのかしら。


 ──そうだよ。私のきょうだい……みたいな存在も、可哀想だとは思うけど。でも、私たちはやっぱり不自然な存在だと思う。


 「自殺」の現場を思い出したのが、臍の緒を通じて伝わったんだろうか。《声》はひどく悲しそうに呟いた。ああ、あんたにとっては仲間が死んでしまったのと同じだものね。この世界にあと何人いるかもしれないきょうだいと、名乗り合う──名前はないんだろうけど──こともできなかったなんて。そうか、私は三人が死んだところに居合わせちゃったのね。代理母と、胎児と──それに、もうひとりの「神の子」と。


 ──うん。ごめんね、辛いところを見させちゃって……。


 段々分かってきたことだけど、精神感応テレパスでは感情を隠すことはできないみたい。だから、分かる。こいつは失われた三つの命を、どれも本当に惜しんでいるということ。胎児を気に懸けて心配してるってこと。それから、私に危害を加えるつもりはないってこと。だから、もっと話を聞いてあげようって気にもなってしまう。


 ……で、結局、私にどうしろって? あんたはどうするつもりなの? その……赤ちゃんを助けるために。


 お腹に向かって問い掛けを念じると、弾むような嬉しそうな胎動が帰って来た。


 ――胎児の――君が呼ぶところのホルツバウアー・ジュニアの身体から離れたい。私の「魂」を、別のデバイスにダウンロードするんだ。理論は考えてある。材料さえあれば――


 うわあ、急に活き活きしちゃって。この捲し立てる感じ、子供が名案を思いついた時のトーンみたい。やっぱり、どんなに賢くてもこいつはやっぱりお子様ってことなのね。詳しくは説明しなくて良いよ。どうせ私には分からないから。


 ――うん……。


 あ、すぐしゅんとするのも可愛いかも。うん、でも方法があるならまだ良い、のかな? 赤ちゃんが無事で済むなら私にとっても問題ないし。……でも、私に材料を用意することなんてできなさそうだけど。


 少しだけ気が緩んで、私はまたベッドに横になった。疲れてもいるし、大きなお腹を支えるのも大変なんだもの。頭は働き続けているんだから、体勢だけでも楽に──


 ――だからここから逃げて。胎児と、私の魂ごと。ドクターの誘いも考え方も悪くないと思ったから、私は彼に協力する。マリアは、子供をちゃんと育ててくれれば良い!


 楽に、寝っ転がり続けることはできなかった。とんでもない提案が天使のラッパみたいに頭の中に鳴り響いて、私は再び弾みをつけて身体を起こす。


 は? なんで私が他人様の子供を育てなきゃいけないの?


 ――え?


 いや、そんな驚いた声される方が分からない。ドクターにも言ったけど誘拐だからね、それ。何、さらっと犯罪勧めてくれてるの? 人が死なないなら良いってもんじゃないでしょ?

 子宮の中で、胎児がぐるりと回転する気配がした。それは多分、《声》の主の動揺を示したものだろう。顔を見ることはできないけど、声の調子と胎動で、どういう反応をしてるのかはっきり分かるのが不思議だった。


 ――で、でも……子供のためだよ? このままだと生まれることもできないんだよ? 呼吸して、空を見て、大地を踏みしめて――


 お尋ね者になった私に連れ回されて下層で這いずり回るくらいなら、生まれてこない方がマシだと思うけど。っていうか下層だと基本的には空は見えないよ? 私の記憶、本当にちゃんと見たんでしょうね?


 ──マリア、えっと……。


 ……どうも雲行きが怪しくなってきたなあ。せっかく話が通じそうだと思ったとこだけど、この前ドクターと話した時と同じ、このお子様も結構なお花畑みたい。ううん、ドクターは自力で這い上がっただけ良い。この子は、生まれてもないし下層を知ってる訳でもないのに、何を偉そうなことを言ってるんだろう?


 ――……子供を助けたいって、そんなに悪いこと?


 悪くない。立派なことよ。でも、私の人生は賭けられない。……そう、私は元気な赤ちゃんを産むって契約しかしてないもの。中身がただの赤ちゃんだろうとあんた――新しく造られた神の子だろうと関係ない。本来は知らないことのはずだし……。


 ――マリア。シェリーやアニタの時、何もできなくて悔しくて悲しかったんでしょ? 昨日のあの子たちだって。でも、今なら違う。君の決断で胎児を助けられるんだ!


 ……私の頭を覗いて友だちの名前を勝手に呼んだことは許してあげる。だからもう黙って。私は私にできることしかしないしできない。できるとしたらあんたの方でしょ。生まれてから、好きなだけ可哀想な人たちを助けてあげれば良いじゃない。そうしたら気が済むでしょうよ。


 ――マリア。信じてるから……。


「私は、何も知らない、何もできない……」


 言い聞かせるように呟いて。今度こそ寝てやろうと思って、横になって目を閉じると、驚いたことに頭の中の声は本当にそれきり止んだ。いや、私は驚いていない。あのガキ、私が迷ってることを分かってて様子を見てるんだ。精神感応は誤魔化せないから。どこかでもう一押し、とかタイミングを狙ってるのね。

 自分の人生か子供の命か、だって? 何でこんな選択を突きつけられなきゃいけないのよ。


 クソ!

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