第20話 悪い子

 病院での「カウンセリング」で動揺しまくってたというのに、ホルツバウアー邸に戻った私は不思議なほど冷静だった。揃って待っていた雇い主夫妻が、私の笑顔を見てあからさまに安堵した表情を浮かべたくらい。


「お疲れ様。結果は――」

「何もないそうです。ドクターとお話しして、気分転換にもなりましたし」

「そう、良かった」

「顔色も大分良くなったね。さすが、君は精神が安定している」


 旦那さんのアロイス氏からはお褒めの言葉があって、奥様のイーファ女史はほっとしたように微笑んだ。絵画が彫刻さながらの美女の慈愛に満ちた微笑みは、まるで白百合を携えた告知の天使ガブリエル様さながらってとこ。私には何も告知してくれなかった訳だけど――って、そんなこと考えたら私が本当にマリア様みたいじゃない。そんな痛い考えはナシ、止め止めだ。


「ええ、貴女なら大丈夫だと思っていたわ」


 天使のように美しい微笑み。ふたつ並んだそれは、一体どういう意味なんだろう。さすがって、大丈夫、って。単純に心身共に健康な若い女だから、とはもう思えない。処女を売り物にするような強かな女だからこそ、お腹から聞こえる神の声なんかを気に病まないだろうってこと?

 ええ確かに、私は一生懸命ドクター・ニシャールも、胎児の声も、無視しようとしていたんだけど。契約通り、元気な赤ちゃんを産むことを第一に考えていたんだけど。今は──どうかしら。お金も信用も人脈コネクションも、喉から手が出るほど欲しいのは変わっていない。でも、私は約束しちゃった。私の子宮に居座ってる自称「神の子」と、お話をするって。


 病院であった色々を隠して、何でもないように笑うことができるのは、私が心を閉ざしてしまったからかもしれない。雇い主に対して、言えない秘密を持ってしまっている。でも、この人たちの方が先に隠し事をしていたんだもの、当然の用心じゃないかしら?


「ありがとうございます」

「元気な赤ちゃんに会うのが楽しみだよ」

「それまでもう少しの間、よろしくね、マリア?」


 ほら、また、私には分からないんだもの。ホルツバウアー夫妻が待ち望むのは、自分自身の子供なのか、人類を導く「神」なのか、それとも研究の成果なのか。分からないから、綺麗な笑顔が怖い。でも、私は何も知っているはずがない、ということになっている。私は外付けの子宮、それ以上でも以下でもない。自殺した子のことだって、私以外の代理母たちは知らないそうだし。難しい研究の内容──お腹にいる子が何者なのか。ただの道具、ただの臓器には教えたりしないのは当然のこと。そういう契約をしたんだから、文句は言えない、のかな。今まではそう思ってきたけど、本当に、そう?


「ええ、こちらこそ」


 頭の中がぐるぐると混乱している。どうしたら良いか、何ができるのか分からなくて。とりあえず、迂闊に騒いでも良いことがないのだけは分かる。だから、私はバカっぽく笑って見せることしかできなかった。




 ――マリア、良い……?


 で、自室に戻ると早速コレだよ。良いか悪いかで言ったら、全然良くない。でも、こうなったら自衛のためにも胎児こいつの話を聞いた方が良いんだろう。誰を信じれば良いのかも分からないけど──判断材料は、多いに越したことがないんだろう、多分。


 溜息をつきつつ、私はベッドにごろりと横たわった。ふかふかのベッドに寝転がるのが、そんなに嬉しくなくなる時が来るなんて思ってもみなかった。まあ、気分はともかく、この子と話すのは気力を使うから、身体は楽にしてなくちゃね。さあ、良いよ、あんたの知ってることを教えて。


 ――ありがと。……前に、イーファはママじゃないって言ったでしょ?


 ええ、つまりあんたは違う人の卵子を弄って造られたってこと? 精子もそうなの?


 ――ううん。アロイスもイーファも自分たちの遺伝子から神を造りたかったみたい。私が言ってるのは、魂のこと。


 魂、ねえ。ただでさえ胡散臭い話だってのに、ますますオカルトな単語を持ち出されると聞く気が――


 ――マリア。


 ごめんごめん、とりあえず一通りは聞いてあげるから。


 抗議するようにお腹の内側が蹴られたから、私は宥めてあげた。蹴る力も、前よりは弱かったしね。少しは成長して加減を覚えたのか……それとも、私が聞く気を見せてるから甘えてるとか? 私の疲れやストレスを、慮ってくれてるの? この子の《声》も、音の響きとして「聞こえる」訳じゃないんだけど、落ち着いて向き合ってみれば、子供っぽさもちゃんとあるかもしれない。ママに、自分のことを伝えようとする一生懸命さ。姿の見えない怪しい存在じゃなくて、例の天使みたいな美少年の姿を思い浮かべてみれば、可愛くも思える、かしら?


 ――そんなこと良いから。マリア、前に私の思考がはっきりしすぎてるって言ってたよね、子供らしくないって。


 あれ? ちょっと早口になってない? まさか照れてるの? 神の子サマともあろう方が?


 ――事実、子供ではないんだと思う。君の子宮に宿っている、アロイスとイーファの胎児の魂は、脳の片隅に眠っているような感じがする。マリアが言ってた通り、赤ちゃんはまだまだ人格なんてないはずだもの。私は、人間の身体にとり憑いた悪霊みたいなものなんだ。


 今度は悪霊かあ。

 またひとつ溜息をつきつつ、私は胎児が蹴ったあたりを撫でた。この感触は、教科書で習った通りのいわゆる胎動そのものでしかなくて、悪霊だなんて言われてもピンと来ないけど。だって、落ち着いて話してみれば、この子はちゃんと会話ができるもの。下手をしたら、コリンズさんとかドクターとかよりも。神だとか悪魔だとか言われてビビってたけど、やっぱり人間の子供じゃないかしら。

 ……でも、賢すぎるのも間違いないしなあ。「神の子」だから、って危うく納得するとこだったけど。人類の知識の集積を魂にプリインストール済って話だったけど、データの方にも人格が生まれてしまったってこと?


 ――そう。そういう例えなら、私はメモリを圧迫する大容量のウィルスってとこだね。


 随分と自分を卑下するのね。ウィルスと違って、あんたは論理的に考えてるし、悪い子じゃなさそうなのに。あ、私にとっては面倒には違いないんだけどね? それとこれとは別だからね?


 ――…………。


 あ、黙っちゃった。……本当に照れてる訳じゃないよね、神の子サマが! 何か、いきなり殊勝な態度を取られると困るんですけど!?


――悪い子、だよ。


 え?


 ――私の存在が胎児の「魂」を圧迫している。このままだと胎児の意識は生まれる前に消えちゃうんだ。

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