第19話 目と耳を開く

 診察室を出る私は、病院に来た時よりもよほど疲弊しきっていた。自殺死体を見てしまったショックが、犯罪に巻き込まれかけたショックで上書きされたらしい。良かったのか悪かったのか、自分ではさっぱり分からないけど。


 犯罪……ドクター・ニシャールに言われたのは、犯罪の誘いに他ならないわよね? 代理母による胎児の誘拐は、立派な犯罪よね? きっぱり断ることができた私は、偉かったはずよ。私のお腹にいるのが造られた『神の子』だなんて話は──今となっては、完全に否定することもできないんだけど。少なくとも、私がお預かりしてるのは、ただのお子様ではないのかもしれないんだけど。

 でも、本当の親でもない私がこの子の生き方を決めることなんてできないわ。たとえ、沢山の人が救えるのかもしれないと言われても。汚れ切った地球をどう救うか、その過程で命の取捨選択がどう行われるかは、私なんかが考えることじゃないもの。私は、法に触れない範囲で人に迷惑を掛けずに幸せになりたいだけ。

 第七天アラボトは思ったよりも危ないところなのかもしれないし、ホルツバウアー夫妻は、思ったより良い雇い主じゃないのかもしれない。でも、理想の職場になんてそうそう巡り合えないもの、皆、多少の不満は呑み込んで働くものでしょう? 夫妻が私に隠し事をしてるっていうなら、私もそれなりの態度と覚悟で臨めば良いだけ。例えば、ドクター・ニシャールのことは黙ってるとか。コリンズさんはお屋敷からいなくなってしまったけど、あの人からキャリアを奪うのはさすがに可哀想だもの。


 ──マリア。でも、私の意思は……? 助けて欲しいって言ってたでしょう?


 自称──それに、ドクターからのある意味でのお墨付きもついた訳だけど──「神の子」が、私の機嫌を窺うかのようにおずおずとした《声》で話しかけてくる。診察室にいる間は黙ってたのは、こいつなりに空気を読んでくれたのかしら。万が一にも《声》に反応していたりしたら、ドクターの目の前で、胎児が只者じゃないってバレてしまうものね。そうでなくても、耳から聞こえることと頭の中からことを聞き分けるのは、私にとって多大なストレスだ。「神の子」も、卑小な人間の女を慮ってくれるってことかしら。


 ──卑小なのは私の方だよ。マリアがいなければ、どこにも行けないし何もできないんだから。


 ええ、好都合なことに。つまり、私さえ無視していれば、あんたはいないのと同じことよね。普通の赤ちゃんと同じように、羊水に浮かんでたまに寝返りを打ったり踊ったりするくらいで。後三か月かそこらなんだから、もうちょっと我慢しててちょうだい。


 ──マリア……!


 神の子、なんて言うと大げさだけど、私にとってお腹の赤ちゃんはホルツバウアー・ジュニアと呼んでいた天使のような美少年のイメージのままだ。そんな子が、悲痛な声で訴えていると思うと、胸が痛まないではないんだけど。でも、仕方ないじゃない。聞いてしまったら、知らなかったことにはできないんだから。


 ──でも、後から知った方が辛いでしょう? コリンズさんみたいに……。


 あの人のことだって仕方ないでしょ。悪い人ではなかったかもしれないけど、ホルツバウアー夫妻が知ったら不安になるのも当然。私があの自殺しちゃった子と知り合いだったとしても、コリンズさんを紹介するなんてできなかった。


 だから、私は悪くない。そう、心の中で答えようとしてんだけど──


「マリア、随分長い『カウンセリング』だったみたいだね? 大丈夫だった?」


 鼓膜を揺さぶる声でも名前を呼ばれて、私は立ち止まった。病院の内部はもう慣れたものだから、《声》との会話に集中しながら歩いていたんだけど。我に返ってみれば、目の前で妊婦がひとり、微笑んでいる。忘れるはずもない、この前絡んできたヤツだ!


「……ええ。ちょっと落ち込んでるの。だから、ごめんね」


 何様なのよ、何の用なのよ。言いたいことは沢山あるけど、ぐっと呑み込む。私は代理母で、よそ様の大事な赤ちゃんをお預かりしてる身なんだから。下層にいた時と同じよ。厄介ごとには巻き込まれないように、適度に折れてやるのよ。

 身体を強張らせながら、の横を通り過ぎる。護衛アンドロイドが待ってるロビーにさえ着けば、安心なはず。


 生意気な代理母どうぎょうしゃは、ゆっくりと目を動かして私の動きを追って来た。でも、何もしない。……余計な心配だったかしら。あっちだって病院で騒ぎを起こしたくないだろうし。それでも、油断はしちゃいけないけど。

 ハリネズミにみたいに神経を尖らせて、かつできるだけ足早に、そいつを背後に置き去りにしようとした、その時だった。笑いを含んだ囁きが、耳元に届いた。


「死体を見ちゃったんだから当然だよね。怖かったでしょ」

「──っ!?」


 聞こえないフリをすべきだったと気付いたのは、振り向いてしまってから、相手の満足げな笑みを見てしまってからだった。でも、不意打ちされたんだから当然よ。この子、自殺騒ぎのことを知ってるんだ。代理母には知らされないはずなのに!

 私を驚かせたのを喜ぶかのように、相手はにんまりとチェシャ猫みたいに口を三日月の形にして笑った。


「ドクターも心配してたでしょ? 怖いなら身の振り方はよく考えた方が良いね」


 目を見開いて固まって──それでも、お腹を庇うのを忘れなかった私を褒めて欲しいと思う。震える声で、何とか言い返すできたのも。


「ええ……常に、考えてるわ。自分にとって一番良い道を、ね」

「そう。バカなりに、賢明な判断ができると良いね」


 でも、明らかに私の負けだった。相手は余裕たっぷりで手を振ってるのに、私は尻尾を巻いて逃げるように立ち去るしかできなかった。知らないはずのことを知ってる不審者だからとか、ドクターに言われたことにびびってるとかの問題じゃない。

 どれが一番良い道なのか、自分にそれが選べるのか──私はすっかり、自信がなくなっていたんだ。




 ――マリア。大丈夫?


 帰りの車の中、胎児がまた話しかけてくる。私の機嫌が悪いのは分かっているんだろう、おずおずとした胎動と同時に。ホルツバウアー邸に戻れれば安心と、信じることができれば良いのに、こいつからはどうしても逃げることができないのね。

 とりあえず、溜息と共に心で念じる。


 ええ。あんたが黙っていてさえくれれば。


 運転手のアンドロイドに記録されないように、頭の中で返事を返すのにもそろそろ慣れてしまった。人間って何にでも慣れるのね。ドクター・ニシャールだったら、差別や貧困にも、とでもいうのかしら。それに、搾取や欺瞞にも? 私は……やっぱり、仕方ないことだと思うけど。だって、優れた人がより多くを享受するのは当然のことよ。バカにいちいち説明しないのも、同じ。そう思わなきゃ、やってられないけど。それは、違うのかしら。いけないことなの?


 ――今なら、話を聞いてくれる? 私のこと、これからのこと……。


「…………」


 幻聴だと思っていたかった。バカバカしい妄想だと思っていたかった。でも、妄想は私の頭の中だけじゃなく、第七天や、その下の世界にも満ちているらしい。テロリストの標的? 人類の未来? さっきの子は、一体何者で、何を言おうとしていたの? 何もかもがふざけてるとしか思えない。冗談じゃない。冗談じゃないけど――でも、危険が迫っているなら。


 話を聞かない訳にはいかない。

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