第15話 カウンセリング

 ドクター・ニシャールに会うのは先日の一件以来だったから、会うまではほんのちょっと身構えていた。でも、診察室でふたりきりになると、彼は何事もなかったかのように接してくれた。まあ、大人ならそうすべきところではあるんだけど、ありがたいはありがたい。


「──大変なところに居合わせてしまったそうだね。ショックだっただろうに」

「そうですね……赤ちゃんに影響がなければ良いんですけど」


 ドクターの眼差しも口調も、優しさに満ちたものだったから、居合わせたんじゃなくてわざわざこっちから向かっていったんだとは言いづらかった。そんな居心地の悪さを押し殺して、私はドクターの褐色の肌や黒い目をこっそり見てた。最下層ゲヘナ出身のこの人が、一体どうやってここまで辿り着いたんだろう、なんて考えながら。


「お腹が張ったり、出血は?」

「昨日は……その、後はちょっとお腹が痛かったんですけど、今は大丈夫です。出血もありません」


 昨日の、亡くなってしまった代理母やその雇い主を見て、改めて思ったんだ。第七天アラボトに住む人も色々だってこと。つまりは、ここも天国じゃなくて、住人も天使じゃなくて、それなりに弱かったりバカだったりする人間なんだってこと。でも、そんな中でも、自分自身の能力で這い上がったこの人は、かなり天使に近いところにいるんじゃないのかなあ。恐らくは生まれつきの美貌も併せ持った、ホルツバウアー夫妻みたいな人たちの次くらいには位置しているはず。

 第七天行きの奨学生の枠がどれだけかは知らないけど、少なくとも、代理母なんか話にならない狭き門に違いない。そこをくぐり抜けるのにどれだけの才能と努力が必要なことか――その道のりは、考えただけで気が遠くなる。そこまでの人が、さらに高潔さも兼ね備えてるなんて、どういうこと? 普通、ここまで来るまでの間にもうちょっと薄汚れるものじゃない?

 神を作るつもりかもしれないホルツバウアー夫妻、訳の分からない熱意に突き動かされていたコリンズさん。……余所様のお子様ごと自分を殺してしまえた昨日のあの子も、このドクターも。私の常識では測れない、信念みたいなものをある人は、ちょっと怖い。


「赤ちゃんは大丈夫そうだね。じゃあ、次は君のカウンセリングだ」


 もちろんドクターは私の考えてることなんて知らないから、穏やかな口調で続けて──そして、少し苦笑した。


「実は、朝から忙しくてね。君はまあ当事者だが当然なんだが、女の子たちをカウンセリングに寄越すご夫婦が殺到していてね」


 女の子たち、と言った時の声の響きで分かる。私たち、代理母のことだ。まあ、代理母が自殺、ってなったらどこのご家庭も心配よね。うちは大丈夫かしら、って気分になるのも当然だろう。第七天のエリート様たちだって、親になれば根拠なく心配性になるものなのは、ホルツバウアー夫妻を見ていても分かる。ただ──ドクターが私に言っちゃうのは、守秘義務的にどうかとは思うけどね。せっかく安心したとこだったのに、もう。


「先生たちは大変でしょうけど、皆は喜ぶんじゃないですかね。きっと、不安になってるでしょうから」


 情報漏洩じゃないんですか、とか言ったらまた面倒な言い合いになりそうだから、無難なことを言ってみる。お腹を撫でると、胎児は身動きもしないで大人しくしていた。あの《声》も聞こえない。昨日のことが堪えているってだけなら良いんだけど。ドクターの診察によると、赤ちゃんは大丈夫ってことなんだけど。

 他所の家の代理母たちは……まあ、友達とは全く思ってないけど、だからって怖い思いをすれば良いとも思わない。昨日のあの子の、青白い顔を見てしまった後ではなお更ね。白衣を着た先生に話を聞いてもらえるってだけでも、大分落ち着くんじゃないかと思ったんだけど──当のドクターは意味深な笑みを浮かべて軽く首を振った。


「それが、君以外の代理母は、何が起きたか知らないんだ。情報統制が入っていてね。……だから、ロビーとかで会っても、他の女性には昨日のことは言わないで欲しい」

「……なんで、そんなことが? そりゃ、不安になるのは分かりますけど。何も言われない方が怖いじゃないですか」


 情報統制、という単語がやけに耳に残った。だって、今まで見た限りの第七天アラボトは、綺麗で明るくて開放的で──そんな、後ろ暗いイメージは全く感じられなかったからだ。それも、単に事件が公にならないってだけじゃない。代理母をカウンセリングに行かせるってことは、雇い主たちはどうやってか昨日のことを知らされてるんだ。その上で、自分たちの子供を委ねた子たちには言わないで、揃って口を噤んでいるんだ。

 あの人たちと私たちは、別の種族みたいなものだとは思ってた。どうしようもない能力の差があって、バカにされるっていうか子供扱いされても仕方ない、って。あの人たちから見たら、私たちはできの悪い子供みたいなものでしかないんだろうから。ホルツバウアー夫妻が、神の創造の実験とやらを、私には何も言わなかった理由もちょっと分かっちゃう。言っても理解できないって思われたに違いないから。

 でも──訳も分からないまま病院に行かせるって、犬猫にすることと一緒じゃない。貴方たちのためなのよ、って顔でいきなり注射とかさせるのよ。それって、さすがにあんまりじゃないの?


「君の言う通り。酷い話だ。だが、私の一存ではどうにもできなくてね」


 眉を顰めた私に、ドクター・ニシャールは軽く肩を竦めた。同時に、視線を軽くさまよわせる。彼の黒い目は、診察室の白い壁やモニターや観葉植物を舐めるだけじゃなく、第七天全体を見渡そうとしているようにも見えた。だから、私は何も言えず、ドクターの言葉に聞き入るばかり。


「社会問題になりつつあるんだ。借金のカタや、もっと悪くすると誘拐して、若い女性に代理母業を強いるような業者がいたと……知っていて目を瞑っていた病院も当然あるから、ここも一応調査が入っていて、それでも騒がしい」

「昨日のあの人は……無理矢理やらされてたってことですか……?」

「そう。君のように──身だったから。そういうをする者もいるんだそうだ」


 ドクターが告げた言葉の意味を理解すると、私の肌がぞわりと粟立った。処女と新品の子宮を売り物にしてやろうと、私はずっと思っていた。でも、そうね。よく考えてみれば、売り手は私自身じゃなくても良かったんだ。言っちゃなんだけど、私みたいに冷静に自分の売値を計算できる若い女の方が貴重なはずだ。じゃあ──コリンズさんは、そういう事態を懸念していたのかしら。処女が勧んで代理母を務めるはずがないって、そういう意味だったんだ。


 それなら、あのおばさんはとんだ失敗をしたことになる。私になんか構ってる暇はなかったんじゃない! クビになって、今、どこで何をしてるかは分からないけど! 忍び込むならあの子の家にしてれば良かったじゃない!


 お腹の中で、訳の分からない感情が渦巻いている。赤ちゃんが居心地が悪いんじゃないかって、心配になっちゃうくらい。でも、表に出しようがないことだから、私は無理矢理に微笑みっぽいものを浮かべようとした。いかにも私っぽい、冷静で小賢しいことを捻りだしながら。


「じゃあ……そういうことなら、賠償金が発生したりってこともないんですかね。そもそもちゃんとした契約じゃなかったんだから……」

「そこが気になるのか。君は現実的だな」


 ドクター・ニシャールは呆れたように呟いた。やっぱり冷たい女だって思われた? でも、だって、お金だって大事なことよ。お腹の子に万が一のことがあったら、なんて考えるだけで冷や汗が滲むほど怖いじゃない。私がどう頑張っても、全身の臓器を差し出したって取り返しがつくようなことじゃないもの。たとえ他人の話だとしてもぞっとする。だから、そこを確かめようとするのは自然じゃないの?


 それに……深く考えたくない。コリンズさんが、ただの面倒くさいおばさんじゃなかったのかもしれない、なんて。あの、ぐったりしていた子の気持ちなんて。私は覚悟してやってるから良い。病院で見かける、分かってるかどうか怪しい子たちだって、少なくとも自分の意思でここまで来たはず。でも、たとえ第七天の設備があっても、妊娠ってそれなりに大変なことだ。覚悟なしに身体を変化させられるって、どんな気持ちか──それに比べれば、賠償金の額を考えて震える方がまだマシじゃない?


「……僕にとってより気になるのは、亡くなった女性の内面だ。たとえ望まなかったとしても、絶望して追い詰められたとしても、胎児ごと自らの命を絶つ覚悟は、できるものだろうか」


 ああ、やっぱり。あの赤ちゃんも死んでしまったのね。私は、あの子の断末魔を聞いてしまったんだ。何がカウンセリングよ。私は嫌なことから目を背けようとしているってのに。ドクターは、私の心の扉をこじ開けようとしているみたいだった。

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