第5話 警報①
私の雇い主で、お腹のお子様の遺伝上の両親であるホルツバウアー夫妻は、その優秀さゆえに当然のように多忙らしい。イーファ女史も、奥様と同じく絶世の美形だった旦那様のアロイス氏も、早朝や深夜にお屋敷を出入りしている気配をよく感じる。もちろん、私はそういう時間には大人しくベッドにいなきゃいけないから、何となく、でしかないんだけど。
でも、夫妻のどちらかにでも時間がある時は、一緒に朝食や晩餐のテーブルを囲むのはよくあることだった。私という容れ物はともかくとして、お腹にいるのはふたりのお子様だものね、家族の団欒ってやつは大事だものね。ご両親の声も聞かせてあげなきゃ。私の体調の推移も、データでの報告だけでなく、私の口から伝える方が安心できるだろうしね。お仕事なんだから、報告や相談はマメにしなきゃ、ってことだ。
「おはよう、マリア」
「おはようございます」
今日も、食堂の綺麗な白い壁一面に映し出された深い森の映像を眺め、クラシックのBGMを聞きながら、私はイーファ女史と朝食を摂っている。夫妻ふたりでの朝食だったら、ニュースとか、もしかしたら研究に関する資料みたいなのを映したりするのかもしれないけど、これも胎教の一環だ。もうどこにもない、かつての地球の美しい自然の映像は、ある意味では巨額の費用を投じた最新のヒット映画よりも贅沢なものかもしれない。
「お嬢様、どうぞ」
「ありがとうございます」
メイドさんに給仕してもらうのは、最初は落ち着かなかったけどさすがに慣れた。これも他のことと同じ、私じゃなくて胎児を丁重に扱ってるってことだから、粛々と受け止めるほかにない。
「今日もよく食べてくれてるわね、マリア」
「はい、とても美味しいですし……この子が、欲しがってるんでしょうね」
イーファ女史の言い方は、子供が好き嫌いしないのを褒めてるみたい。私が成人してるのは、一目見れば分かるはずなんだけどね。最初はカトラリーがまともに使えることにさえちょっと驚いていたくらいだし、下層の人間に対するイメージは相当悪かったのかもしれない。文明が絶え果てた、原始時代みたいな状況を想像してたとか? 槍を振りかざして、獲った獲物を手掴みで食べるの。実際には、「下」に獲ってすぐ食べられるような鳥も獣も魚ももういないんだけどね。
「悪阻が軽くて安心したわ。点滴やサプリメントに頼らなくて済んで安心してるわ。栄養は、自然な食べ物で摂って欲しいでしょう?」
「そうですね。そう思います」
多分、そんな偏見を見せちゃったのはこの人にとっては失態だったんだろう。だからなのか、今だってバカみたいな相槌しか打たない私にも鷹揚に微笑んでくださっている。そもそも私に子供がいると信じて疑ってなかったことだって、下層の連中は適齢期になればネズミみたいに好き勝手盛って殖えるものだ、とか思ってても不思議じゃない。あれ、これは私の方の偏見かしら。
ま、下層だろうと上層だろうと人間って色々だからね。中には、イーファ女史のイメージに限りなく近い連中もいるんだろうけど。ジャンクフードばっかり手掴みで、とか、テーブルに足を乗せたりするような奴。シェリーなんかは、教会の不味い食事よりもそういうのに憧れてたっけ。
「礼儀正しいし健康だし、貴女にお願いして本当に良かったわ」
「ありがとうございます」
半熟の火の通し加減がとろけるようなスクランブルエッグを口に運びながら、私は謙遜するように微笑んでみせた。同時に、やっぱりずっと我慢してきて良かった、って思う。美味しい食事だけじゃなくて、文化的なっていうか、余裕がある清潔な暮らしをできる、ってことが。私という入れ物のためじゃないのは分かっていても、不安がない生活っていうのは何より大事みたい。
私だって、教会での暮らしに完全に満足してた訳じゃない。もっと美味しいものが食べたいとか、お洒落がしたいとか思わなかった訳じゃない。でも、下層で多少背伸びしたり羽目を外したりするよりも、今みたいにどうにかして
アニタとか、シェリーとはまた方向性が違うけどバカだったなあ、って思う。本を読むのが好きで頭も良くて、子供たちからもシスターたちからも好かれて信頼されてたけど。あの子は、どうしても私の夢というか目標を分かってくれなかったもの。代理母なんて倫理的にも道徳的にも許されない、とか言っちゃって、何度もお説教されたっけ。戦争も汚染も止められなかった神様なのに、アニタはずっと信じてたみたい。でも、人を生かすため――元気な赤ちゃんに、働くご両親、それに
……私たちは地の塩、世の光。アニタが言いそうなことでもあったなあ。聖書の一節だ。お説教で聞くことがあるのはもちろん、あの子は他の子を
脳裏に蘇りかけた優しそうなおばさんの顔を振り切って、私は満面の笑みを作る。
「この曲、モーツァルトですよね。私、気に入っちゃって。よく聞かせてあげてるんです」
「胎教に良いって言うものね。読み聞かせもいっぱいしてあげてちょうだい。……できれば、ずっと」
「はい、もちろん」
やった。これって内定って思って良いのかな。赤ちゃんが産まれた後も、ベビーシッターか何かとして雇ってくれる、ってこと? そういうの、あるとは聞いてたし正直期待もしてたんだけど! でも、こんなに早いうちから仄めかしてくれるなんて!
ああ、ご飯がますます美味しい。第七天に来てから、毎日のように私は正しかった、って思えるんだもん。シェリーみたいに道を踏み外さず、アニタみたいに道を守り過ぎず。現実と自分の器を冷静に見つめて行動できてると思うの。きっと、だから全て上手く行っていると思えるんだろうな。
ここでの暮らしは、本当に天国みたい。それはね、足の下にもより汚染された、より貧しい暮らしの人たちがいることも、私はよく知ってるんだけど。でも、私は悪いことをして這い上がった訳じゃないもの。身体を資本に、真っ当な雇用契約でここにいるんだもの。豊かさを享受したって、ちょっとくらい調子に乗ったって、別に良いよね?
濃厚で甘いトマトジュースを飲み干そうとした時――耳に刺さる金属音がして、私は手を止めた。少し跳ねたジュースが、真っ白なテーブルクロスに赤い染みを作ってしまう。やだ、こぼしたりとか粗相をしないよう、細心の注意を払っていたのに。
「嫌だわ、警報……
イーファ女史が、不安げな呟きをぽろりと零した。
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