第4話 声
「うふふ……えへへっ」
私の笑い声を、柔らかいマットとシーツが受け止めてくれる。まるで雲の上に寝転がってるみたい。
「ああ、天国って感じ……!」
ほんと、このベッドの寝心地ってば最高! 昔の友達、シェリーにも見せてやりたいわね。あの
例の豪邸の一室を使わせてもらってかれこれ半年くらい。この間の衣食住は、もちろん全て夫妻負担! 寝ているだけでお給料が発生するなんて、人類の夢だよね。
ベッドは大きくてふかふかだし、本物の、化学繊維じゃないリネンの感触もすべっすべで気持ち良い。浄化できた貴重な土地は農業とか畜産とか、食料生産に使われるものだと思ってたけど、わずかながらそれ以外も作ってるのね。考えるまでもなく、下層には絶対回ってこない高級品だ。それを日常使いできるなんて。手間暇と費用を考えると目が回りそう。気絶する時間ももったいないから我慢して満喫するけどね!
着せてもらってる服も同じく天然素材だし、食事も原材料が何だか分からない合成モノじゃないし。夫妻も優しいし、ほんと最高の職場だと思う。
「あなたのお陰よ、ホルツバウアー・ジュニア」
調子に乗りすぎないためにも、私は膨らみ始めたお腹をそっと撫でた。そう、豪邸に住まわせてもらってるからって、私の価値が上がったって訳じゃない。私の価値はこの子宮だけ、その中でお育ちあそばしてるお子様だけ。それを忘れないためにも、お子様の健全な成長のためにも、頻繁に話しかけてあげることにしてる。
読み聞かせは研修でも推奨されたし、ここにはそのための絵本や童話も沢山用意されてることだし。最近では珍しくて高価な紙の本が、山のように。こういうところも、この仕事の美味しいところだ。本だけじゃなくて、古典音楽とか美術とかだって。お子様に便乗して私も教養を磨けるんだ。それは、多分私の将来のためにもなる。学ぶことができるということ、それ自体がとてつもない贅沢なんだから。この機会を、余すことなくしゃぶりつくさなきゃいけない。
もちろん、私の勉強なんてきちんと仕事を務めた上で、そのついでに、でしかないんだけど。
「今日はどれにしようか、ジュニア?」
預かっている胎児に勝手に名前をつけてはいけない、っていうのも研修でしつこく言われたことのひとつだった。だって子供に名前をつけるのも、生まれて初めて呼んであげるのも、本当の両親だけの権利だから。子宮に過ぎない私たちがその権利を侵害しちゃいけないんだって。
まあ至極もっともだなって思うので、私はお腹の子をホルツバウアー・ジュニアと呼ぶことにしている。男の子だって聞いたから、何となくだけど蝶ネクタイに半ズボンの天使みたいな美少年を思い浮かべながら。ちょっと長ったらしく仰々しいけど、遺伝子操作によって優れた能力を与えられているであろうこの子は、きっと偉い人になる。それなら相応の敬意を払わなきゃって思うんだ。
もちろん胎児に聞いたところで返事が帰ってくるはずもない。だから、適当な一冊を取ろうと本棚に手を伸ばした時だった。
――本はいらない。それよりもっとお話して、マリア。外の話を、もっと……。
頭の中に、声が響いた。
「え?」
空耳にしてははっきりと、それも意味があるような言葉だった気がして。私は思わず辺りを見渡した。でも、目に入るのはもはや見慣れた部屋だけ。他に誰かいる訳でもないし――
誰も?
「やだ、疲れてるのかな」
思いついたのがあまりにも突拍子ないことだったので、私はわざわざ口に出して笑い飛ばしてみた。疲れているとでも思わなきゃやってられない。あんまりバカバカしすぎるもの。
まるで、お腹の子が話しかけてきたみたい、だなんて。いくら完全無欠のエリート様って言っても、羊水に浸かった胎児なのよ? そんなこと、ある訳ない……わよね?
「マリア? 入っても良いかしら」
「ひゃ、
首を傾げたところに唐突にノックの音がして、私は文字通り飛び跳ねた。もちろん、おなかを庇いながら、だけどね。ドアの外から聞こえる声は、家政婦のコリンズさんのものだ。いかにも優しそうな外見のおばさんだ。私のことを名前で呼ぶのはちょっと馴れ馴れしい感じもするけど、倍以上年が離れてるっぽいから仕方ないだろう。親戚の娘、くらいの感覚なのかもね。
「お茶とおやつの時間よ。食べられそうかしら」
「はい! いただきます!」
このお屋敷の食事もおやつも、例によって下層じゃ手に入らない高級品だ。一回でも逃して堪るものかと、私は慌てて答えた。お腹から聞こえた──ような気がしないでもない──声のことなんか忘れて。
「悪阻はすっかり終わったみたいね。良かったわ」
「はい、本当に……!」
ノンカフェインのコーヒーと、脂質控えめのクッキーを置きながら、コリンズさんは微笑んだ。
「若いからかしら。
「あはは、でも、検査はパスしてますしねえ」
私が処女だっていうこと、最初はホルツバウアー夫妻以外にバラす気はなかった。一応はルール違反ってことになるし、私のプライベートのことでもあるから。でも、経験者の目は誤魔化せなくて、すぐに白状することになっちゃった。
「でも、妊娠って何があるか分からないものよ? 何かあったら相談してね」
「ありがとうございまぁす」
正直言って、多少、ウザくはあるんだけどね。私の体調管理はコリンズさんの仕事じゃない。不調や異常があれば、かかりつけの病院に行けば良い。料理やお菓子を作るシェフはまた別にいるし、メニューだってカロリーも栄養もきっちり調整されてる。メンタルケアって意味では、こういうおばさんがいるのは良いかもしれないけど──少なくとも、私には必要ない。
──必要ない? 本当に?
「……え?」
「どうしたの、マリア。無理しなくても、良いのよ?」
「いえ、全然……本当に、何もないですから」
やだ、また空耳がした。身体が強張ったのを、コリンズさんにも気付かれちゃったじゃない。私の出番、とでも言いたげに、張り切られちゃったじゃない。
用が済んだら、さっさとひとりにして欲しいんだけど。まさか、口に出して言えるはずもない。胎児の入れ物である以上は、情操教育にも配慮して、雇い主以外にも朗らかに接しなきゃ。
──この人は、ただの家政婦じゃないみたい。話を聞いておいた方が良いと思う。
いや、ただの家政婦だよ、どう見ても。ずっとお屋敷にいて、ずっとお世話になってるし。この声、何なの? 幻聴にしてははっきりしてない? でも、コリンズさんには聞こえていない……私の、頭の中に直接響いているみたい。
「マリア。もしも逃げたいと思ったら、協力するわ」
「はい!?」
気付けばコリンズさんの顔が目の前に迫っていて、思わず変な声を上げてしまう。ていうか、いつの間にか手もしっかり握られている。コリンズさんの目は妙に熱が篭っているようで……圧が、怖い。
「ど、どういうことですか……?」
逃げるって言っても、私のお腹には赤ちゃんがいて、置き去りになんてできない──一蓮托生ってやつなんですけど? というかそもそも、逃げたいなんて欠片も思ってないんですけど? なんでこんな、天国みたいな生活を手放さなきゃいけないの?
頭の中をぐるぐる回る言葉は、ひとつたりとも口にできない。第七天ではちょっと露骨に下品かなって思うのと、頭に響く「声」に混乱してるのと、それに何より、コリンズさんが何を考えているか分からないから。この人、何だかひどい誤解をしているみたいじゃない? こんなに熱心に、私のことを見つめるなんて!
「もしも、無理矢理やらされていたり、ちゃんと納得していないなら、訴えることもできるのよ。そういう組織があるの」
「え、誰に何を、どうやって? そんなの、無理ですよね?」
「無理じゃないの、貴女はそう思わされているだけ。声を上げないと……私
組織って、私
この人何を言ってるんだろう、って。混乱に呆れが加わって。何も言えないでいるうちに、コリンズさんはふと微笑んだ。
「
「──大丈夫です。心配いりません」
ああ、この人は私を哀れんでいる。自分では何も決められないと思ってる。それか、まともに判断できない、と。そう気付いて、頭の奥で何かがぷつりとキレる音が聞こえた気がした。若いからって処女だからって、ずいぶんバカにされたものじゃない? 私はちゃんと考えた上で自分の身体を売り物にしてるのに!
「私は心から納得して、喜んでここにいます。この仕事に誇りを持っています。貴女の価値観で測らないでください」
「マリア」
──マリア。
コリンズさんの声と、頭の中の声が重なる。全く、何なのよ、これは!
「……私たちは《地の塩》を名乗っているの。貴女が思っているよりもどこにでもいるわ。気が変わったらいつでも──」
「ありがとうございます。でも、必要ないと思います」
睨み合うように見つめ合うこと、しばし。コリンズさんは悲しそうに目を逸らすと呟いた。返す私の言葉は、心の底からの「さっさと出てけ」がこもっていたけど。多分、コリンズさんにも十分伝わっただろう。
無事に、お盆を携えたコリンズさんが部屋を後にすると、私はやっと息を吐いてまたベッドに倒れ込んだ。ああ、怖かった! こっちは妊婦だってのに、あんなに近づいてくるなんて! まったく、非常識にもほどがあるんだから!
──マリア、ねえ。
何か聞こえる気がするのは、絶対に気のせい。不味くなっちゃったけど、おやつを食べて忘れなきゃ。
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