壁の中

天上和音

第1話

ボクの自宅から最寄駅までの道すがら、一年前から工事現場の仮囲いの壁が景色を隠すようになった。その横を通り抜けるのに三分はかかる長大な壁だ。歩行者が退屈しないようにするためなのか、この壁には模様が描かれていて、時にそれが塗り替えられる。お花畑や空に浮かぶ雲のイラスト、海底に揺らぐ海藻の切り絵、絣柄の様に散りばめられた熱帯魚や渡り鳥のロゴマーク。

その日、壁はルイヴィトンのモノグラムに目玉が混ざっているような文様だった。この目玉が気になった。ちょうどボクの顔のあたりの高さに描かれていたからだ。ふと、眼の一つに壁の内部が覗けそうな孔が開いているのに気付いた。壁の中を覗きたいためだけに、ある朝いつもより早く家を出た。ちょうど日の出の時刻で、周囲はまだ薄暗い。でも覗くと、まだ薄暗いとはいえ壁の内部には日光が当たり始めていた。なんだこれは。ただの更地じゃないか。壁ができてもう一年は過ぎているはずだ。建物も何もないなんて一体これはどうなっているのだ。

翌日は、いつもの出勤時間だったので、壁の前にはそこそこ人通りがあった。すると通勤途中と思われる中年男がなりふり構わず覗き込んでいるではないか。恥かしげもなく覗き込むのはどんな人物なんだろう、という興味もあってボクは近づいた。すると壁から目を離した男はボクに気付き、照れくさそうに「いや~きれいに見えるね、富士山が。」と言うと、足早に駅に向かった。えっ、ここから富士山は見えないだろう。確かに地理的に富士山は北西に位置しているが、駅前のビルに邪魔されて歩道からは見えないはずだ。ボクは恥かしかったが、確かめたかったので壁を覗いた。この間と同じだ。やはり更地のままだ。向こう側の壁の上には駅前の消費者金融や雑居ビルの看板だけが見えていた。

覗き孔のことは次第に周囲に知られたようで、週末に壁の前を通る日には、たいがい家族連れが覗き込んでいた。どうやら、孔は全部で三つあるようだった。ボクは散歩を装って彼らに近づき、会話に耳を立てた。

「きれいなお花畑ねぇ、ミキちゃん」

二人で交互に覗き込んでいる母娘がいた。その向こうには大声ではしゃぐ家族が見えた。

「こんなところに猿山を作るなんて、行政がよく許可したものだな・・・」

走り回る子供達のそばで、若い父親が妻に疑問を語っていた。

「ボクも乗りたいよう!」

駄々をこねる息子をなだめている母親に、「ミニチュア鉄道を作っておいて眺めさせるだけなんて、いじわるなだけだな」とぼやく祖父と思われる老人。おかしいじゃないか。同じ景色のはずなのに見る人それぞれに違う事を言う。一体ここは何の工事をしてるんだ。

かなり朝早く家を出た日のことだった。壁覗きが目的ではなく、出勤途中で朝食を確保するつもりだった。前夜妻と大喧嘩をしたのでね。急いでいたのだが、壁の前に来ると周囲に誰もいないのでつい覗き込んでしまった。なんだ!妻が男たちに押し倒されようとしている。口に手を当てられて声も出せないみたいだ。混乱した。なぜだ。まだ家で寝ているはずなのに、こんな場所で。思い切り壁を叩くが、びくともしない。昔ボクはラグビーをやっていた。肩には自信がある。助走をつけて壁に突進した。ぶつかると激しい痛みと共に歩道に投げ出された。肩をさすりながら起き上ろうとすると、黒服を着た長身の老人が倒れているボクを覗き込んでいる。

「壊さないでくださいよ」

「ここで、妻が乱暴されてるんだ!」スーツについた砂を払うと、ボクはもう一度身構えた。

「落ち着いてください。中にはいってみましょう」黒服はボクを誘導した。彼が壁に手を当てるとその部分が扉の様に開き、ボクは壁の中に入り込んだ。覗き穴の内側には電話ボックスのような大きさの小部屋が壁に張り付いていた。土地の中央にはなにやら研究所めいた二階建ての建物があった。なんだが、頭がクラクラする。

「人は見たいものしか見ない、といいますね。あのボックスは、覗いた人の心の奥底の願望を実体化して見せるのです」

「ボクは、妻の暴行なんか見たくない」

「さあ、それはどうなんでしょうねぇ」

その後気を失ったのだろうか。気が付くと、ボクは壁の外の道路に転んでいた。

ある朝気付くと、壁がない。完璧にない。五階建ての古臭い昭和の廃ビルが建っている。そうだ、壁ができる前の景色はこれだった。あの壁は一体なんだったんだ。まあいい、今週でボクはこの通りともお別れだ。引っ越しするのだ。妻とは離婚したのでね。

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壁の中 天上和音 @amakami

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