悪夢遊

@Sureno

悪夢遊

悪夢と夢遊と


 お父さんが、何かを造る工場に駆り出された。

 僕は工場を覗きに行く。胃の中が揺るがされるような轟音の鳴り響き、黒い煙が立ち上る、不気味に巨大な工場へ。

 なんの音だろう。機械の音? 唸り声?

 小さな壁の穴から見える黒い何か。山のように果てしなく巨大な、黒い塊。ぬらぬらと黒光りしているのは、金属の光沢? 怪物の鱗? 忙しなく火花を散らし、地を震わせ、うねる、うねる。

 お父さんの姿は無い。お父さんはどこだろう。お父さん? お父さん? 暗い、怖いよ、助けてお父さん。しかし確かに近くにいる、感じる、お父さんの息遣い。

 不意に低い唸りの中に、お父さんの声を聞いた。いや、その唸り声の一部がお父さんの声だった。いや、お父さんではない。怪物の唸り声。怪物と化した、哮り。

 僕は耳を塞ぐ。目を瞑る。怖い、助けて、怖い。

 すると、瞑って暗くなった視界は突然、ぱっと明るくなった。まるで映画の上映が始まったように、コマ送りのような、しかしコマ送りにしてはあまりに滑らかな、どこか懐かしい映像が流れる。

 古臭い白の背景の中、赤い屋根の小さな家。その前で、赤い風船を持った男の子が笑顔で立っている。こちらを見つめている。いや、睨んでいる? しかし微笑んでいる。どちらにせよ、真っ黒な瞳の放つ視線が、真っ直ぐに僕を穿つのだ。

 負けじと見つめていると、その眼はどんどん黒くなる。どんどんどんどん、墨汁が垂らされたように、どろどろどろどろ、黒い穴のような眼がこちらを見つめて、黒い涙がどろどろどろどろ、ぼたぼたぼたぼた。その口元が吊り上がる。大きく露見した白い歯の隙間に黒い液体が入り込み、はっきりと格子目を見せる。

 男の子は口を開く。何かを言っている。何を言っている? 僕にはわからない。声が聞こえない。

 お父さん、怪物になったお父さん、心を消されて怪物の心に書き換えられたお父さん、他の誰やもわからぬ血肉と共に怪物に練り込まれたお父さん、滅茶苦茶に折れた骨と真っ赤に捻られた肉が静かに巨体に埋められたお父さん、痛い、でも気持ちいい? 幸せ? お父さんは、幸せ?

 速くもなく遅くもない、しかし決して心地よくはない速度で、大きくもなく小さくもない、しかし決して丁度良いとは言えぬ大きさの肉塊が、コンベアーに乗って絶え間なく流れてくる。その速度に心拍が微妙にずれてゆく不快感、それ解消しようと鼓動を早める、こんなものに心惑わされる屈辱、なんにしろ支配される。

「カントリーマアム買って来たよ」

 そう言って買い物から帰った母が、僕に渡した袋には土が入ってた。

「ポイフル買って来たよ」

 その袋には蛆虫が入ってた。

「オレオ買って来たよ」

 その袋には腎臓が入ってた。

「レバー肉買って来たよ」

 そのトレイには肝臓が入ってた。

 ……当たり前か。レバー肉のトレイに肝臓が入っているのは当たり前か。

 いや当たり前か? これが当たり前なら、他の全ても当たり前なのでは? それはあり得ないという自明の事実は、レバー肉のトレイに肝臓が入っていることが当たり前であるという命題を偽と説く背理的な証明に成り得ぬだろうか?

 あらゆる恐怖が意識から遠のく。しかしその残党は僕の身体を執拗に支配したまま。身体が動かない。いや動くのかもしれない。麻痺しているわけではない。ただ、動いたら殺されそうで、僕の死角に佇む何かに殺されそうで、呪われそうで、宇宙で最も大きな存在に見つかり削除されそうで、身体中に張り付いた蛆虫が蠢き出しそうで、動けない。やはり動けない。

 お父さんを探しに行かなくちゃ。頑張って動かなくちゃ。僕は勇気を振り絞り、ぎゅっと目を瞑って起き上がった。

 震える手でドアを開ける。窓から僅かに差し込む夜空の青白い光をフローリングが淡く反射している以外は真っ暗な、光の無い廊下を走り抜ける。パブロ・ピカソのゲルニカの逃げ惑う人のように、骨格が肉の中でぐちゃぐちゃにされたような姿のお母さんが廊下にいたけれど、気にせず走る。お父さんを探しに行くのだ、お父さん、お父さん!

 外に出て、アプローチを抜け、道に出て、走る、走る。

 鷹のような大きさのトンボ。水面に映ったように歪んだ月。光ではなく色が様々に混じり合い、混沌とした虹色に沈む大きなカーペットの上から、いくつも伸びる人間の手。田んぼの赤い水。空から雨のように降る大小様々な蛆虫。

 訳もわからず川に来た。河原に降りて高草を掻き分け、綺麗な水の流れる場所に辿り着いた。ここだけは綺麗だ、穢れがない。ここに入ればお父さんに会える? 流されていけば、お父さんのところへ行ける?

 川に入る。じゃぽんじゅぽん。

 なんだこれは。あまりに鮮明。肌足に伝わる水の流れのニュアンス、目覚ましい冷感、確実な物理熱交換の演算によって極めて整然と、またそれを受け取った僕の感覚神経は極めて冷静に、僕の脳に明快な「冷たい」という情報を送りつけてくる。

 これ即ち、「夢の目覚め」。いや、「夢の否定」?

 まぁとにかく、これは夢ではない。紛れもなく現実だ。きっと帰れば、お母さんの説教、お父さんの寝癖のついた頭が待っている。

 僕は心から笑顔になれた。

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