人洞

安良巻祐介

 夜の裏道に出て、トボトボ歩いていたら、塀の下にうずくまっている人を見つけた。

 暗いので容姿もはっきりしないけれど、病人なら大変であろう。

 どこかお加減でも悪いのですか、と尋ねたところ、ふいに頭上の、笠の割れた電灯のひとつがぱちぱちと音を立てて薄く灯り、顔を上げたその人をぼんやりと照らし出した。

 橙色の光に浮かんだその顔は、目鼻口のない、ぺろりとしたのっぺらぼうで、子どもらしい小さな体に、時代がかった絣の着物を羽織っている。

「むお、ぉぉぉぉぉむ」

 牛の潰されるような声を上げて、顔の横に掲げた両の指先を、虫のようにうじゃうじゃ蠢かした。

 ぷん、と夾竹桃の薫りがした。

 人洞ひとほらであった。

 なあんだ……と私はため息をついて、踵をかえした。

 牛の断末魔のような声は、まだ背の方でしていたが、知ったことではない。

 心配しただけ、損をした。

 人の洞穴と書く通り、それはほとんど皮と毛だけで、ひどく虚ろなものである。船乗りに、戸板一枚下は地獄というような例えがあるが、さしずめ薄皮の一枚下は夜、それも、何もない、暗いだけの夜、といったところであろう。

 人の形をしているだけで、穢土の恐怖も、浄土の苦痛も知らぬ、無為そのもののようなそれは、建物の陰などに、理由もなく沸くという。

 病人でもなんでもよいから、誰かまともな人間と出会いたかったが、そんなうまい話はないらしい。

 ぱちんという音がして、電灯が力尽きたように消える。

 ひどい徒労感に苛まれながら、私は首から順番に身体を逆向きにして、暗い裏道をトボトボと遡りだした。

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人洞 安良巻祐介 @aramaki88

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