たなか農場の面々は現実世界で死んでいる
「アレーア!」
声をかける。アレーアははっとした顔で僕を見て、それからわっと泣き出した。さぶろうの手綱をひっぱり岸壁を回り込み、アレーアの横に立つ。
「稔さん。ごめんなさい……」
「謝るなら僕でなく、父さんや母さんや祖父ちゃん、ノクシにも謝って。アレーアが逃げ出したせいで、きょうの営業はできなくなった。わかるね?」
アレーアは泣いている。涙を作業着の袖で拭きつつ、
「だって。あの仔牛だっていつか肉になるって聞いてびっくりして」
「いつか、って言ったって何年も先だよ。あの牛はまだ乳が出なくなるどころか出てすらいないんだから。帰ろう。それとびっくりさせるようなこと言って悪かった」
「はい。ごめんなさい」
さぶろうに乗り、アレーアを鞍の上に引き上げる。アレーアは目を真っ赤に泣き腫らしていて、えっくえっく言っている。
「娼館に雇ってもらおうとしたんだって? たくさんのアレーアさんに、話を聞いたよ」
「アレーアなんて、ありふれた名前だから」
「どんな花なの、アレーアの花って。花の名前なんでしょ?」
アレーアは岸壁にへばりついて咲く、カラスウリに少し似た花を指さした。その花は、淡い桃色で、レースのように繊細な形をしている。
「きれいだ。あんなきれいな花の名前を付けてもらったんだ」
「……稔さんの国でも、女の子には花の名前が付くのけ?」
「そうだね――桜、とか、葵、とか、百合、とか、蘭、とか……」
「それも、ありふれた名前なのけ?」
「ありふれた、っていうか、よくいる名前ではあるな。でも、ありふれた名前っていうのをコンプレックスにしてるひとより、変な名前をコンプレックスにしてる人のほうが多い」
「変な名前」
「まあそんなことはどうでもいい。よく一人でよしみに乗れたね」
「稔さんや茂さんが乗るの見て覚えた。よしみ、農場に帰った?」
「ああ。うちの馬は賢いから」
他愛もないことを話しながら、ノイの街を出た。からりと晴れている。この土地は雨がすごく少ない。家の蛇口から出ているのはなんの水なんだろう。
「なにか歌を歌おう」
僕は唐突にそう思いついた。口から出てきたのは、アレーアに教わったギテトだった。
二人で、「農場に帰る 馬に乗って帰る」と、即興の歌詞でギテトを歌った。アレーア、喋るとだみ声なのに歌うときれいな声だ。
背中にしがみついてくるアレーアの、働き者の手を見る。あかぎれやひび割れがあり、爪はつぶれていて、どう見たって娼婦の手じゃない。
「アレーア、もう家出なんてしないで。すっごく探し回ったんだぞ。ポリボックスはなんの役にも立たないし……むしろ娼館の人たちのほうがアレーアを探すのを手伝ってくれた」
「……ごめんなさい」
「謝るなら僕にじゃなく農場のみんなに。だいぶ近くまできたな」
ゆっくり山道を登っていく。もうすっかり昼だ。腹がぐうーっと鳴る。農場の、例の顔出しパネルをちらりと見て、僕は「帰ってきた」とつぶやいた。
さぶろうから降りる。アレーアも降りる。
「ただいま」
門をくぐってそう言うと、母さんがものすごい勢いで走ってきて、アレーアを一発ビンタした。アレーアは特にショックを受けるでもなく、ただ母さんを見ている。
「何を考えているのっ!」
「ごめん、なさい……」
「人に心配かけちゃいけないって思わないの! なんでそんなに簡単に家出するの! すごく心配したんだから! アレーアちゃん、自分の仕事を投げ出したらほかの人にしわ寄せがいくのよ!」
母さんは顔を真っ赤にして、支離滅裂気味に説教をした。
父さんと祖父ちゃんは、責めるでもなく、アレーアに「心配した」、と伝えた。
ノクシは、
「どこにいったんです? アレーアさんが働ける場所って言ったら西の飲み屋街か東の公娼通りですよね」
と聞かんでもいいことを聞く。
「どっちもだめだったぁ。あだすには農業しかないんだねえ。なんつうんだっけ、百種類の仕事をするから……」
「百姓。あんまりいい言葉じゃないよ?」
僕がそういうと、アレーアはにまっと笑って、
「でも百種類の仕事をするってことだもの。すごいよ。素敵な名前だよ」
と答えた。
昼ご飯の時間と相成った。ルサルカと、カッテージチーズ。ほかに何か食べるものはないんだろうか。まあこの世界ではカッテージチーズがついた食事なんて贅沢なんだろうし。
コロがまずそうにルサルカを食べる様子を見ながら、まずいルサルカを食べる。
「ルサルカってこれしか食べ方ないの?」
「そうだねえ。干物にする以外の食べ方したことないねえ」
「自分もです。でも、ここで食べてるルサルカはわりに質のいいやつです。赤虎党の組長が食べてたやつとあんまり変わりませんよ、若」
「だからその若っていうのやめてよ。僕はそういうの嫌いなんだ」
じいちゃんがテレビデオをつける。ちょうどニュースの時間だ。相変わらずテレビデオは、ニュースしか映してくれない。
「新たに身元の分かった犠牲者の方の情報です。秋田県内陸部です。近藤正平さんとその妻の光江さん、」
「やだっ。隣のペンションの近藤さん亡くなってる」
「近藤さんのペンション、土砂で埋まっちまってるじゃんか」
田中家の面々はざわっとなった。近藤さんのペンションが土砂で埋まっているということは、その奥にあるたなか農場も、もしや――
「田中豊さん、豊さんの長男の茂さん、茂さんの妻の恵さん、茂さんの長男の稔さん……」
がしゃんと、僕は手に持っていた食器を落とした。死んでる。僕ら、死んでるぞ。
映像は容赦なく、いま近くにそびえているサイロがボロボロに崩れ落ち、家もつぶれ、牛舎も土砂に埋まっている様子を映している。
日本にはすでにたなか農場はない。
田中家の人々は、完全に凍り付いて、その映像を眺めた。
「どういう、ことです?」
ノクシが言葉を絞り出す。アレーアも、口をポカンと開けて、テレビデオを見ている。
どう説明すればいいか、僕は震える手で割った食器を片付けながら、考えた。
「僕らは、もとの世界では――死んでるんだ」
「死んでる。でも稔さんはこうしてここにいるし、触れば確かにあるし、」
「よしてよアレーア……僕、死んでたのか」
人というのはこういう非常時になると全く無関係なことを考えがちである。僕はふと、小学校の同級生でクリスチャンホーム育ちのやつのことを思い出していた。あいつが仮に死んでいたとして、いちいち葬式をするったって面倒だからエライヒトが来て合同葬儀になるのだろうけれど、そしたら何式でやるんだろ。仏式だったらあいつは天のみ国に凱旋できないのではあるまいか。いやあいつが死んでるか知らないけどな。
「死んでるっても、いまこうしてここにいるべしゃ。それに俺だば死んだってしょうがねえ歳だしよ」
祖父ちゃんは愉快そうにケラケラ笑った。笑ってる場合じゃない。そりゃ祖父ちゃんはお迎えがきてもおかしくない歳だけど、僕は二十代前半の童貞だぞ。
あぁ、やっぱり大学にいるうちにもっと合コンとか行けばよかった。ヤリサーみたいなのに入っておくんだった。ウェーイ連中とも仲よくしておくんだった……。
「なんか変なこと後悔してるでしょ、稔」
母さんにそう言われ、いやいやと否定するも、確かに変なことを後悔しているのであった。
「ってことはここはあの世なのか? 花畑も三途の川もなかったけど」
「だったら麦子にも会えるべか」
「あの世ではないと思いますよ。自分は間違いなくこの国に生まれて、間違いなく何人か殺して、何回かしくじって指が何本かないわけですから」
「そうだよお。あの世で死んだらどこにいくのさ。あだすのおっとうはどこにいったのさ」
ノクシとアレーアの言う通りなのであった。
そう、このハバトの地が一般的なあの世だとしたら、アレーアの父が海に投げ出されて死んだというのはどういうことなのか。それにおそらくノクシだって命のやりとりをしたろうし、ここはあの世ではない。奪衣婆も三途の川もなければ、川の向こうで祖母ちゃんが手を振っているなんてこともない。
やっぱり異世界転生なのだ。小説投稿サイトなんかを見ているとだいたいトラックにはねられて異世界に行くことになっているようだが、僕らは土砂崩れに埋められて死んだのだ。
ニュースは、見つかって身元のわかった人たちの名前を読み上げている。
小中の同級生も何人か死んでいる……。
「こんなの見てても気が滅入るだけだし、やめましょ」
母さんがテレビを停めた。
死んでいる。
たなか農場の面々は、明らかにショックをうけていて、昼の食事のあとそれぞれ自分の部屋に戻ってしまった。僕も部屋の布団に転がり、天井をぼーっと見る。なんだろう、ショックというか悲しいというか、そういう感情より「いま自分は生きていない」という感覚のほうが、内臓にずっしりくる。
内臓は「いま自分は生きていない」という感覚で沈み、心は「いま自分は生きていない」という感覚でフワフワしている。
わけがわからないよ(アニメのセリフを日常的に使う僕はわりとオタク気質である)。
もう、ここで生きていくほかないのか。魔王を倒してももとの世界には戻れないのか。いや魔王なんていないということが分かっている。無駄なことを考えている場合ではない。
もっと強力なチートスキル欲しかったなあ。女の子に向かって微笑むだけで惚れられるとか。
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