異世界でも牛のお産は緊張する

 夕方の乳搾りの前に、お土産にバター(牛乳を必死で振って作ったが、しんどいので二度と作らないことにした)とゆで玉子を買い、その家族は父さんが馬車でノイまで送っていった。


「やったぜ」

 僕はガッツポーズをする。母さんも祖父ちゃんもアレーアもノクシもうれしそうだ。アレーアは唐突に、普段のだみ声とは違う、透き通るような歌声で歌い始めた。


「めでたい日には めでたい歌を 祝いの日には 祝いの歌を」

 このメロディはギテトだ。それも、おそらく祝い事用のやつ。みんなで、祝い事用のギテトを歌った。ギテトの歌詞は決められている部分と即興で歌う部分があるようで、アレーアはその即興のところを、


「たなか農場に客が来た 新聞読んで客が来た」

 と、ウキウキするようなメロディで歌った。

 父さん抜きで夕方の乳搾りをする。


「……砂糖がもっと当たり前に買えたらなあ。そしたらアイスクリーム作れるのに……」

「稔さん、そんな無茶言ったらばちが当たるよ。ねえノクシさん」

「そうですね、砂糖は南方でしか作れないのでどうしても高価ですね」

「ノクシさん、砂糖大根って知ってます?」

「砂糖大根。……うーむ。詳しくは知らないのですが、ハバトの地からさらに北の、キリヤルの地というところに、砂糖をとることのできる植物が生えていると聞いたことがあります。ただ、種や苗の入手は不可能でしょうね。キリヤルの地はレオ帝陛下の権力が及ばないので」

「そっかあ……アイスクリームは諦めるしかないか。そうだ、イチゴ牛乳はどうだろう」

「い、イチゴ牛乳? なんだぁそれ」

「凍らせたイチゴと牛乳をいっぺんにミキサーにかけるんだよ。そうするとあら不思議、甘くてすっぱくてマイルドな飲み物の出来上がり。そうだ、イチゴ牛乳だ!」


 次にお客さんが来たらぜひ出そう。というわけで、イチゴハウスのいささか熟れすぎたイチゴを摘んで、冷凍庫にぶちこんでおいた。

 ――台所から作業場に戻ってふと農場の隅を見ると、祖父ちゃんが何か作っている。ノクシもそれを手伝っていて、なにか大きなものを組み立てているようだ。


「祖父ちゃん何やってんの」

「『ヤオン』直してらぁ」

 ヤオン? ピンと来なくてしばらく考える。ああ、『野外音楽堂』だ。農場の片隅に、ぼろぼろに壊れて放置されていたステージを直しているのだ。


 僕とアレーアも軍手を装備してそれを手伝った。母さんは台所の仕事をしている。

 それにしても、やけに太陽が沈まない。明るい。どういうことかアレーアに聞いてみると、


「紫の月八月二十七か二十八か二十九のどれか一日は、太陽神の日だよぉ。一日、陽が沈まないんだあ」

 要するに白夜みたいなものだろうか。この世界の暦の仕組みがいまだに理解できない。


「太陽神の日はどんな仕事もお休みだかんねえ。みんなで夜更かしするのさあ」

 なるほど。もしかして、だからお客が来たのかもしれない。もっとまじめに、この世界の暦を勉強しなければ。

 野外音楽堂をどうにか修繕して、色のとれていたところにペンキを塗った。


「でもじいちゃん、音楽堂なんか作っても音楽家はどこから呼ぶのさ」

「ノクシさんがよ、そういういんた人脈があるんだど。ありがてぇなや」


 この世界でも芸能界とやくざ屋さんは切っても切れない関係らしい。ノクシは照れながら、


「人脈なんてたいそうなものじゃないですよ。ただいくつか、芸能会社の社長の弱みを知っているだけです」

 と、そう答えた。社長の弱みって本格派のやくざ屋さんじゃないの。


 父さんが帰ってきて、夕飯と相成った。やっぱりルサルカである。最近はもう家族全員飽きてしまっているので、母さんがコショウだのカレー粉だのでごまかしてみるのだけれど、結局ルサルカの味しかしないので無駄な抵抗なのであった。


「いやあ今日はついにお客さんがきたぞ。めでたいめでたい」

 ルサルカをつっつきつつ、父さんは嬉しそうな顔をしている。僕はアレーアに、

「この世界って、夏ってくるの?」

 と尋ねた。アレーアはよくわからない顔で、

「なつ……?」

 と返した。

「季節だよ。何月は暑いとか、何月は寒いとか」

「一年中こうだよ?」

 衝撃のパワーワードが出た。一年中て。一年中この気候って、どこまで寒いの。でもこれ以上寒くなることはないと分かってちょっと安心する。


 じゃあ、もう夏を体験することはないかもしれないのか。そう思うとさみしかった。生ビールがおいしいとか、水着の美女とか、そういうのが見られないということだから。


 だんだんと、このハバトの地というのがどういうところか、分かってきた。

 魔物はいるけれど、知的で国盗りをしようなどと思うようなのはおらず、よぼよぼ老犬の吠え声一発で逃げていく。魔王とかそういうのはとりあえずいない。

 魔法はない。そのかわり、科学の芽が出ようとしている。その技術をこの世界の人は錬金術と呼ぶようだ。

 ジャガイモ、小麦、砂糖大根、そのへんの作物は伝来していない、ないし存在していない。果物はとんでもなく貴重で、砂糖も貴重なためお菓子も庶民の口に入ることはめったにない。

 野菜の品種改良は遅れている。そしてなにより、効率的な農業というものがない。


 こういう世界であれば、日本の農業技術はじゅうぶんチートスキルたり得る。

 夕飯のあとドラム缶風呂で体を温め、早めに部屋に戻った。農作業にかまけているうちに、部屋はひどく埃っぽくなってしまった。


 本棚の、漫画の背表紙を見る。日本語の、ひらがなカタカナ漢字でつづられた文字が読めない。もうきっと読めないのだろうし、燃料にしてしまおう。

 大好きだったゲームの資料集も、もはや開いたとて内容を読み取ることはできまい。


 現実世界に戻ることを、まるで就活を諦めたときみたいに諦めている僕がいて、なんだか悲しい思い出が次々思い出される。寮の隣の部屋のやつは、心を壊して――というか、そういうふんわりした言い方は正しくないと思う。精神科のお世話になっていたのだから脳を怪我したということなのだろう。そういう状態になり、一年留年し、結局実家に帰ってしまった。一緒に寮の廊下でバーベキューしたり一緒に秋葉原に繰り出したり、すごくいいやつだったのに、去っていく背中は小さく丸く、顔色は真っ青だった。


 あいつどうしてるのかな。地震で死んでないといいな。

 死んでしまったら、すべて終わりだ。だから人は生きねばならないのだ。

「生きてるって、最高ぉー!」

 そう小さく声に出し、布団にばふっと倒れる。冬の寝間着の上からどてらを着た、最高に暖かいスタイル。布団にもぞもぞ潜り込む。よし寝よう。


 そのとき、牛舎から、時ならぬ牛の声が聞こえた。

 もしや。

 むくりと起きる。作業着に着替える。もうすでに父さんも母さんも祖父ちゃんも準備完了で、アレーアとノクシを起こしている。


 牛のお産だ。

 緊張する。今回仔っこを産むのは初産の牛だ。

 みな緊張の面持ちで、牛舎に向かう。牛は陣痛で鳴いている。


「よし。アレーアとノクシはよく見ててな。牛のお産は牛飼いの宿命だ」

 父さんがそう言い、祖父ちゃんと母さんと、手際よく準備を始める。僕も、久々の牛のお産に緊張しながら、準備を手伝った。


 牛は怖がるようにぶもぉと鳴いて、祖父ちゃんが

「初産だったいにちょっと難産になるかもわからねど」

 とつぶやく。祖父ちゃんのカンはいつもよく当たるのでぞわっとする。あんまり難産になると、取り上げる人間の心臓にも悪い。


 牛がいきんだ。鼻先と足先がちょろっと出る。すかさず、父さんが仔牛の足首にロープをかける。

「うわあ……」

 アレーアが言葉を失っている。確かに初めて観たらグロテスクかもしれない。ノクシの姿がないのでちょっと牛舎の外に出てみると、外で過呼吸を起こして具合を悪くしていた。どんだけ繊細なのこの人。とりあえずそれを父さんに報告しようとしたらもうそれどころでなくなっていた。


 父さんとじいちゃんが、牛がいきむのに合わせてロープを引っ張る。

 ずるり、と仔牛の体が現れて、大量の羊水とともに、藁の上におちた。母さんが素早く仔牛を拭いてやり、自然に切れたへその緒を始末する。

「稔とアレーア、仔牛は任せた」

 父さんがそう言い、僕は仔牛をかかえる。アレーアはよくわからない顔で、

「なんで生まれたばっかしの仔牛をお母ちゃんから引き離すのけ。かわいそうだっぺ。お乳飲ましてやんなきゃなんねえでしょー」

 というので、


「母牛だって疲れてるし、乳は哺乳瓶で飲ませるんだ。仔牛は乾いて衛生的なところに連れていかなきゃいけない」

 と説明してやる。アレーアは分かっているのかいないのか、きょとん顔だ。


 仔牛をよく拭いて、寒いので仔牛用のブランケットを用意する。仔牛はあっという間に立ち上がった。元気そうだ。性別を確認するとメスだった。


「メスの仔っこだ!」

 そう声を上げると、牛舎から勝どきが上がった。


「かわいいねえ。お母ちゃんと同じ白黒のブチ模様だねえ。ここの牛はみーんな白黒のぶちだけど、そういう種類なのけ?」

「そうだよ。ホルスタインっていって、乳牛としてはふつうの種類だ」

「へえー。あだすの知ってる牛はみーんな茶色だよ」


 母さんが、母牛からとれた初乳を持ってきた。仔牛に飲ませてやる。仔牛は生きねば、という強い意志を感じる顔でそれを飲んだ。

 そうだ。ノクシが過呼吸起こしてるんだった。父さんにそう言うと、


「あの人野菜には詳しいけど牛のお産で具合悪くするのか。こまったなあ」

 とつぶやき、牛舎を出た。どうやらノクシはぜえはあ言っているらしく、母さんが紅茶――ティーバッグを牛乳で煮出したロイヤルミルクティー――を全員分用意して、休むことになった。

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