異世界には魔法は存在しないらしい
まだわからないことがたくさんある。あの貧相な畑だけであの大きな町の人間を養えるのか。いや港だから魚がたくさん獲れるのかもしれない。とにかくこの世界では牛は懐かないものらしいので、うちの品質がそれなりにいい牛乳はよく売れるに違いない。
夕方のぶんから、牛たちは乳を出すようになった。家族総出で牛の世話をする。
僕が小さいころはもっとたくさん牛がいた。馬だって「ふゆみ」とか「いくぞう」とか、もっといっぱいいた。鶏舎だってもっと大きかった。人も雇っていた。
もしかしたら、この世界でなら、あの活気のあった「たなか農場」を取り戻せるかもしれない。そんな気がしてワクワクしていた。
ただそうなると四人だけの家族で農場を世話するには無理がある。誰かを雇う必要があるが、この世界では農業は囚人の仕事だ。すき好んでやってくれる人なんていないだろう。
そんなことを考えつつ、今日こそ寝るぞと早めに布団に入って、僕はふと「こんなことになるなら大学に行ってるうちに童貞捨てといたらよかった」というところに思い至った。
合コンとか行ってもっと酒飲んどけばよかった。いっそヤリサーとかに入ってパコパコしとけばよかった。そんなことを考えて悲しくなっていると、ふと「もしかしたら娼館とかそういうのがあって、合法的に、きれいなお姉さん相手に童貞を捨てられるかもしれない」というところに思い至った。わお。ワクワクするぞ。
……でもそーゆーの、なんか病気とか流行ってそうで怖いな。
そういうしょうもないことを考えつつ目を閉じた。
この世界に魔法というのはあるのだろうか?
あったらいいなあ。夢と魔法。そんなことを考えながら、とろりとろりと眠りに落ちた。夢も見ず、ぐっすりぐっすり、深い眠りの底を漂った。
コケコッコオオオオオ!
ニワトリの絶叫。時計を見る。朝四時半。仕事開始だ。
布団を出て作業着に着替える。なんかぼろくなってきたな。ワークマンで新しいのを買いたい。だがここは異世界である、ワークマンはない。発熱素材のインナーも、作業着も売られていない。
家族全員起きてきて、若干眠たい顔で牛の世話をする。うちみたいな零細農場でも、さすがに搾乳は機械だ。一頭あたり五分かそこらで搾り終え、次々乳を搾っていく。牛乳はバルククーラーで冷やされて貯蔵される。そろそろ売りに行かねばなるまい。
牛に餌をやり出たものを片付け敷き藁を足し、それからブラシをかけて、次はニワトリの世話だ。寒いので若干ふくら雀というかふくらニワトリになっている。いつも通り玉子を産んでくれていた。それを拾い、とりあえず産直センターに下すときに使っていたネットに入れる。
父さんがさぶろうとよしみに飼い葉を食べさせているのをちらりと見てから、物置でごそごそしている祖父ちゃんの様子を見に行く。何をしているかと思ったら、大昔たなか農場の中を走らせていた馬車のパーツを運び出して組み立てている。
「なにやってんの祖父ちゃん」
「見ればわかるべ。馬車作ってらんだ。軽トラもないんだべ、どうやって街サ牛乳売りに行くってや」
なるほど。馬車を改造して牛乳販売車にするのか。祖父ちゃんすげえ。僕もそれを手伝う。簡単なつくりの馬車なのであっという間に出来上がった。父さんがやってきて、
「それで牛乳売りに行くのか、ナイスアイディア」
と拍手した。
ノイの城門が開くのは十時だという。八時半くらいに出ればちょうどいいだろうか。やっぱり物置から、大昔牛乳を飲んでもらうときに使っていたロゴ入りの紙コップが出てきた。準備完了。
バルククーラーで冷やされた牛乳を、ミルクバケットに移し、馬車に積み込む。さぶろうとよしみを馬車につなぐ。僕が高校生くらいまで冬に馬そりをやっていたので、さぶろうもよしみもそれほど嫌がらない。
母さんの握ってくれたおにぎりをもぐもぐしながら、父さんと僕の乗った牛乳売りの馬車は農場を出た。
「牛乳って相場どんくらいなんだろうな」
「だいたい買う人いるのかわかんないよ。食文化だってきっと大規模に違うんだろうし」
「うーむ。エポックメイキングというやつだな」
父さんはどこまでも楽天的である。いや、たしかにうちの農場で採れた牛乳が、あのノイとかいう街の食文化を変えてしまったら面白いし誇らしいけれど。
きょうも囚人たちが、つらそうな顔をして畑仕事をしている。ノクシと呼ばれていた囚人が、馬車をぽーっと見ていて、鎧の男――おそらく監督官に蹴飛ばされていた。
監督官は僕らに気付くと、
「まさか本当に牛乳を売りに行くのか」
と驚いている。
「ええ。話はつけてくださったんですよね?」
父さんがそう言うと、監督官の男はしどろもどろになりながら、
「い、一応」
と答えた。一応ってどういうことだ。とにかく牛乳を売らねば生きていくのもままならないので、ノイの分厚い城門が開かれ跳ね橋がかかっているのを確認する。とりあえず番兵の類はいない。セキュリティがガバガバだ。それだけ平和な土地、ということなのだろうか。だとしたら、どうしてあれだけたくさんの囚人がいるのだろう。謎が深まる。
ノイの街は石畳とレンガの綺麗な街だ。人々の起きてくる時間はわりに遅いらしく、あちらこちらの煙突から朝食らしい魚の匂いがする。やっぱりここは魚が食生活の基本らしい。
父さんはあたりを見回した。具体的に牛乳ではないので物価はつかめないが、もう開店している屋台が何件かある。おいしくなさそうな、ニシンみたいな魚の料理を売っていて、鎧を着た人たちが買って食べている。看板をよく見ると、文字はアルファベットで、いま僕らのしゃべっている言語をローマ字で書いてあるようだ。
「お? 何屋だ?」
鎧姿の人たちが僕らに気付いた。父さんは笑顔で、
「牛乳飲みませんか」
と、その人たちに声をかけた。その人たちは渋い顔をして、
「牛乳ってえと一杯で金貨二枚が相場だろ。牛乳が体にいいなんて迷信、信じるかよ」
と、そう言った。この世界では牛乳が健康にいいというのは迷信だと思われているのだ。
父さんは少し考えて、「それなら飲み放題金貨一枚でどうですか」と、その人たちにスマイルしてみせた。鎧姿の人たちは目の色を変えて、たたたと寄ってきた。紙コップに牛乳を入れて渡す。金貨一枚が返ってくる。ずしりと重い。本物の金貨だ。
「う、うまぁっ」
「いやあ嬉しいなあ。お代わりどうぞ」
「なんだこれ、冷たいぞ。しかも水っぽくないし、うまい」
その人たちは一人三杯くらい飲んで、上機嫌で去っていった。その数分後には、牛乳を飲みたい人が列を作っていた。
小さな子供を連れた母親が、
「子供が牛乳を飲むと背が伸びるって本当かい」
と尋ねてきたので、
「牛乳を飲んで育つとこうなります」
と僕は胸を張った。僕の見た目の数少ない長所のひとつが、「背が高い」ことである。この世界のひとたちと比べると、僕は相当背が高いと言えるだろう。
小さい子供はうれしそうに牛乳をお代わりし、母親は金貨を一枚渡した。
さて、牛乳はだいぶ売れて、ミルクバケットの底のほうにすこし残るくらいになった。
「俺が牛乳売ってるから、稔は街の様子を見てきてくれないか? なにが主食か、とか、魔法はあるのか、とか、異種族がいるのか、とか。あと、なにかおいしそうなものがあったらこれで買って来てくれないか」
と、父さんが言うので、僕は金貨一枚を預かって馬車を降りた。
馬車が停まっているのは、門から大通りをまっすぐ進んだ大きな広場の噴水の前で、これなら道に迷うこともなかろう。僕はとりあえず、ひとつ路地に入ってみた。
RPGの武器屋やアイテム屋みたいな店はなく、食料品店と布屋があるくらいだ。食料品店ではニシンの干物に「RUSARUKA」とポップを書いて銅貨三枚で売っている。どうやら、このルサルカとかいうニシンの干物がこの土地の主食らしい。町の人たちは布を貫頭衣のようにして着ていて、布屋は服の材料というより貫頭衣にするための布を売っているようだ。
この世界の食べ物を食べてみるのも必要か。僕はそのルサルカというニシンの干物を買おうと、食料品店の入り口に立った。すぐに、商売っ気たっぷりのおじさんが出てきて、
「ルサルカ、うちのがここいらじゃいちばんうまいよ。銅貨三枚。買ってくかい? あんちゃん、異国人だろ。ノイじゃルサルカが三食欠かせないんだ」
「えっと、金貨一枚からおつりあります?」
「金貨。そうか、異国から来たから金貨しかないのか。ええっと、ノイだと金貨一枚は銀貨十枚、銀貨一枚は銅貨十枚だから、おつりは銀貨九枚と銅貨七枚だ。覚えときな」
ちゃりーん。すぐおつりが出てきた。そのルサルカとかいうニシンの干物を買ったついでに、
「この土地、魔法とか異種族とかってあるんですか?」
とそのおじさんに尋ねる。おじさんは難しい顔をして、
「魔法って、よっぽどの田舎から出てきたんだな、あんちゃん。いまはもう錬金術の時代だよ。それに異種族だっておとぎ話だって証明されてる。魔物はいるけれど、錬金術が発達してもう怖いもんじゃなくなった」
「そうなんですか」
「錬金術はすごいぞ、南の国でドラゴンを撃ち落とせる大砲が発明された」
要するに錬金術というのは科学のことらしい。魔物はいるのに魔法がないというのはさみしい。
買い物を終えてはたと気付いた。
……道に迷った。
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