墓石の向こうの幽霊

桑゙

墓石の向こうの幽霊

 まるで空気中の水分で煮られているのではないかという溽暑じょくしょで、まだ早朝だというのに汗が滲む。しかしそれでもまばらに鳴く蝉が、この程度はまだ序の口だと告げている。


 ここは住宅街から外れて、山の麓でひっそりと営まれている寺。二十もないが、つややかに研磨された墓石がずらりと並ぶ。


 それにしてもお盆だというのに閑散としていて少しだけ寂しい。


 ちょうどそう思っている頃、石柵の隙間から見慣れた人影が見えた。今日も来ましたか、と嬉しくなった私はいつもの場所に移動した。


 一人の男が門をくぐり、その姿が現れる。半袖半ズボンにキャップを被り、バケツや折りたたみ式の椅子などを持っている。


 男は毎週末、こうして墓を掃除しにくるのだそう。私が言うのも難だが、殊勝なことだ。




 一通り作業を終えた男は折りたたみ式の椅子を広げ、腰をかけた。そして軽く周りを見回した後、俯き、目を瞑ってこう言った。


「幽霊さん。いますか?」


 これは私たちが会話するための儀式だ。こうしなければ私は彼と話すことができない。


 墓石を挟んだ反対側で私は答える。


「はい。いますよ」


   *


 僕は大学を卒業して、この町に戻ってきた。親のことが心配というのもそうだが、なによりこの町が好きなのだ。


 都会の喧騒を四年間味わって、己にとって最も重要なのは住み心地だということに気が付いた僕は、この町にしては大きめの会社に就職した。そして一ヶ月、忙しいがそれなりに充実した日々を過ごしている。


「いってきます」


 朝の六時半頃、未だ寝静まっている我が家に僕の声が小さく反響する。


 玄関先に置いてある道具一式を拾い上げ、ある場所へ向かって歩き出した。今日は土曜日だから仕事は休み。そして土曜日の僕には日課がある。


 爛々と輝く太陽。五月半ばの天候はとても気持ちがよい。意気揚々と咲く花々を両脇に従え、剥がれかけのアスファルトが山の方へと伸びる。


 住宅街を抜けた先には上り勾配。我が家の屋根を探しながら進めば小さなトンネルがある。


 身の毛もよだつ、巷で有名な心霊スポット――というわけではなく、手入れはされていないようだが、全長も短く、よく日が差し込むトンネルでなんてものは聞いたことがない。


 十数メートルほどのそれを超えると、山へと続く小さな脇道がある。電灯もなく、木陰で薄暗く染まる、神隠しにでも遭いそうな気味の悪い道。トンネルよりもこちらの方がおどろおどろしい。


 しかしその薄気味悪さも入口付近だけのことで、少し進めば陽の光が注ぐ空間とそこに寺が静かに佇んでいる。ここが僕の目的地だ。


 墓の掃除――それが僕の土曜日の始め方。


 この時間はいつも誰もいない。静けさを求める僕にとっては気楽でいい。


 僕は墓石を縫って、自家の墓へ辿り着いた。


 我が家は特別裕福というわけではなかったが、たぶん誰かが墓だけは立派にしようと言ったのだろう。隣の墓石と比べるとやや大きい。


 僕はそんな先祖様が眠る墓を一頻り見つめたあと、「あぁ、そうだ」と我に返って水場へ向かった。


 墓地と寺の間にこじんまりと備え付けられている水道。僕はそこにバケツを敷き、蛇口を捻ると水がちょろちょろと流れ出した。とてつもなく勢いが弱いが、これがこいつの全力なのだ。風情があると納得したい。


 暇を持て余した僕は、背筋を伸ばして周りをゆっくり見渡した。


「本当に静かだよなあ。ここ」


 寺を縁取るようにぐるりと取り囲む新緑と、それらを飾る鳥のさえずりや森の声。


 ここで眠れて――もきっと幸せだろう。


 バケツから溢れた水が地面を打つ。


 僕は入れすぎた水を減らしてから墓の元へと持って行った。墓石を簡単に濡らしてからスポンジで擦る。角や隙間も余すことなく丁寧に磨く。


 ふと、なぜ自分の部屋が汚くても気にならないのに、そうでないものの汚れは気になるのだろう、と思った。


「ま、いっか」僕はなんとことのない疑問を汚れとともに水で流した。


 なんとなく綺麗になった気がした墓に対して、僕は目を瞑り、ゆっくり手を合わせた。


 こういうとき他の人はなにか願ったりするのだろうか。しかし仏になったとはいえ、ただのご先祖様に願いを聞いてもらうのも荷が重いよな。


 だから僕はこういうとき、ご先祖様に「おやすみなさい」とだけ頭の中で唱えるようにしている。


「朝、早いんですね」

「へっ?」


 今、人の声が聞こえた気が……。


 僕は辺りを見渡す。しかし人影はない。墓の向こうも見渡すが誰もいない。


 まさか、ね。


 寒気と一抹の期待を胸に、僕はもう一度目を閉じた。


「気のせいなんかじゃないですよ」

「……!」


 やっぱり聞こえた……っ!


 おそらく墓の向こう、女性の声。


「も、もしかして……幽霊……?」

「あはは、そうだったらどうします?」


 ごくり。喉が音を立てる。


「べ、別にどうするわけではありませんが……」

「へえ、それにしても私の声が聞こえるなんて私の方がびっくりしちゃいました」


 緊張していた。しかし恐ろしくはなかった。そう、あの時と同じように――


「幽霊さんはその……何をしているんですか」


 僕は目を閉じたまま訊ねる。


「何って、君を見ていましたよ」

「なんのために」

「暇だったから」


 トントンと進む会話と彼女の弾む声に、僕の緊張は少しだけ和らいだ。同時に僕の幽霊観も綻んでいた。


 春も後半戦。何も無い町の何も無い寺で、僕は声だけの幽霊と出会った。




「――ふーん、それでここに戻ってきたんですね」

「えぇ、やっぱり住み心地が大事です」


 あれから数十分。会話を重ねる度に、なし崩し的に幽霊と会話するという不思議な状況に慣れていった。


「ところで幽霊さんに名前はないんですか? なんだか幽霊さんだと申し訳なくて……」

「……ごめんなさい。私には記憶が無いの。だから、幽霊で構いませんよ」

「そう、ですか」


 デリケートなことを聞いてしまっただろうか。相手の顔が見えない会話というのはなかなかどうして難しい。思わず言葉がつかえてしまった。


「だから私もあなたのことを……そうね、人間さんとでも呼ばせてもらおうかな」

「幽霊さんも一応人間でしょう?」

「それはそうだけれども、別にいいでしょ?」

「は、はあ……」


 しかし幽霊さんは気にする素振り――ではなく口振りをすることなく快活に答えてくれた。


「それにしてもご先祖様に毎週会いに来るなんて殊勝なことね。もしかしてお爺ちゃんっ子とかお婆ちゃんっ子だったり……ってこんなこと聞くのは失礼か」

「いえいえ、祖父母はまだ元気ですよ。ただ、まあ……そうですね。母なんです」

「えっ」

「僕が小さい頃、母親が病気で亡くなりました。ここに来ているのは母に逢いたいという気持ちもあるんです」


 妙な空気が流れてしまった。


「はは、なんだかしんみりしちゃいましたね。すみません、暗い話をしてしまって。ただ幽霊さんに故人の話をするのもどうなのかって感じですけど」

「いえいえ、でもきっとお母さんは喜んでいると思いますよ」

「そうですかね」

「えぇ、きっと」


 彼女の言葉には魔力がある。初めて話すというのに不思議と納得させられる。それはきっと彼女が幽霊だからだろう。


「さて、僕はそろそろ帰りますね。……幽霊さん?」


 風が吹く。


 目を開けるとやはりそこには僕しかいなかった。夢現の僕。しかし耳に残る優しい余韻が本当にあったのだと教えてくれた。


   *


 翌週、彼女はいた。次の週、さらに次の週と彼女はそこにいた。それから毎週末は墓掃除がてら幽霊さんと話すのが普通になっていった。


 そして幽霊さんとの奇妙な関係が続くこと早三ヶ月。世間はいわゆるお盆の季節になった。とはいうものの、相も変わらずこの寺には人が見当たらない。


 あるのはぶっきらぼうな墓石と仰向けになった蝉。華々しく迎えてくれたのは鮮やかに咲く芙蓉くらいだ。


 日はまだ昇りきっていないのに墓石の表面が熱を帯びている。


 いつも通り準備をした僕は、墓に水をかけ、スポンジで磨いた。ご先祖様もこれで少しは涼しくなっただろうか。


 簡単に手を合わせた後、僕はこのためだけに買った折りたたみ式の椅子を開いてそこに腰をかける。そしてゆっくり目を閉じて俯き、いつもの呪文を唱えた。


「幽霊さん。いますか?」

「はい。いますよ」


 彼女は答えた。


「調子はどうですか」

「別に、変わらず墓と草木を眺める毎日ですよ」

「はは、それは退屈ですね」


 非現実的な幽霊さんと、なんてことのない言葉を交わす。これが今の僕の幸せだ。


 慣れ始めてきた仕事の話、腹の出てきた父親の話、昨夜見たテレビの話。


 この寺の外側の話をすることがなによりも楽しく、日に日に伸びる会話の時間。今日も炎天の下、いつまでも話し続けられそうな気分だった。




「そういえば幽霊さんにずっと聞きたかったことがあるんです」

「うん?」


 そこそこ話が盛り上がったあたりで僕は突如そう切り出した。


「僕がこうやって墓掃除をするきっかけになったことと関係するのですが……」

「人間さんがここに来る理由って、えっと……お母さんのことがあったからじゃないの?」

「はい。それも理由の一つなんですけど、実はもう一つ理由がありまして……」


 僕は一呼吸置いてから口を開いた。


「僕が幼稚園の年長だった頃――母が亡くなってすぐの……そう、ちょうどお盆の日のことでした」


 目を閉じながら空を仰ぎ、あの日を思い出す。


「僕は父と祖父母と一緒に、母とのお別れを兼ねてこのお寺でお墓参りをしに来ていました。その年は今年と比べると気温が低く、それに夜でしたので涼しかったのを覚えています」


 先祖を迎えるというお盆の本筋には反しているが、母を亡くして暗くなっていた僕と家族はそういうものが必要だった。


「それでも夏は夏でしたのでそれなりに気温もあったはずなのですが、僕が手を合わせているとき、急に辺りの空気が冷えたのを感じました。なんだろうと思って、遠くの方を見ると暗闇に紛れて白衣装を着た長い髪の女性がこちらを見ていたんです!」


 僕はふざけた風に、おどろおどろしく抑揚をつけて語ると反対側から笑い声が聞こえた。


「僕は直感的に『うわ、幽霊だ!』と思って、慌てて墓の方へと向き直ったんです。でも不思議と恐ろしくはなくて、むしろその女性に対して引き込まれるような感情を抱きました」


 つまり、と僕は言葉を続ける。


「僕がここに来るのは、母と、そしてその女性の幽霊と会うためなんです」


 話し切った僕は腰を落ち着けて「ふぅ」と小さく息を吐いた。誰にも話したことのない話をまさか幽霊に話すなんて思ってもみなかった。


「ひとつ質問してもいいですか?」

「はい、いくつでもどうぞ」

「人間さんは熟女好きなんでしょうか」

「ぶふっ」


 幽霊さんの突拍子もない言葉に僕は思わず吹き出してしまった。


「ち、違いますよ! ……まあ、年上好きなのは確かですが……」

「ふふっ、冗談ですよ。つまり、その女性が私なのではないか、と聞きたいのですね?」

「えぇ、まあ……」


 今思うと本人かもしれない相手にこんなことを話すなんて何を考えているんだ僕は。これじゃあまるで告白みたいじゃないか。


「うーん、申し訳ないのだけれどそんな昔のことは覚えていないんですよね」

「そうですか……」


 悲しいようなこれで良かったような……。


 僕はぎこちなく笑ってみせたあと、「さて」と一段落つける。


「結構話し込んじゃいましたね」


 気付けば汗もびちゃびちゃで喉も乾き切っている。


「そろそろ帰りますね」

「今日も楽しかったですよ。また来てくださいね」

「はい。それじゃあ僕はこのあたりで失礼しま――」


 そう言って僕が立ち上がろうとした瞬間、


「す?」


 景色が回り、体が崩れ落ちた。


 あれ? なんだこれ? 力が……。


「人―さん! 大丈―――か!?」


 誰かが僕を呼んでいる。幽霊さん? はは、やっと姿を見ることができた。


 相変わらず視界がぐるぐると回っているせいでその姿を捉えることはできなかったが、三ヶ月間声だけの関係だった友人が確かにそこにいた。


 幽霊さんの声が遠くなると同時に、どこからか流れてくる冷たい空気が僕を包んだ。


 涼しい……気持ちいいな……。


 僕はそのまま気を失った。


   *


「ここ……は……?」


 白塗りの天井。僕を乗せているベッドと、その左側には液体の入った袋が吊り下げられている。


 ここはどこだろう。


 左手の違和感でようやくあの袋が点滴のものであると気がついた。そうなればここは病室か。そうだ。幽霊さんとの会話が終わって、帰ろうと思ったら力が抜けて倒れたんだ。それでそのまま気を失って……


 状況を確認しようと、未だにだるい体を無理やり起こす。すると、ちょうどベッドの橋のあたり、そこに椅子に座った、見知らぬ小柄な女性がいた。


「誰……?」

「目を覚まされたんですか!?」


 女性は大きな声を上げたあと、はっとしたようで膝に置いていた鞄を顔に押し当て黙ってしまった。


 どこかで聞いたことのある声だ。なんとなく雰囲気は違うが穏やかで……そう、さっきまで聞いていたような――


「もしかして幽霊さん?」

「……は、はい……そうです」


 彼女はカバンを顔に押し当てたまま、片目だけこちらを覗いて肯定した。


 僕は体調不良も相まって、その内容に頭がついていかずに思考が停止した。


「ご、ごめんなさい! 別に騙すつもりはなくて! すぐにバレると思ってたんですけど、なかなかバレなくて……私、恥ずかしがり屋で言い出せなくて。でも、お話するの楽しかったです……」

「はあ……」

「えと、私、あの寺の娘で……たまにあなたのことを見ていて……って、別にこれは言わなくてもいいのか……。あ、あと今日仰っていた小さい時に見たっていう女性、たぶん私の母です……」

「う、うん。とりあえず落ち着いて話そうか」


 怒涛の情報量に頭が追いつかない。墓の裏で演じてた幽霊の落ち着きはどこへ行ったのやら。




「――えーと、あなたは幽霊ではなくあの寺の娘で、ずっとお墓の裏で話していたと。しかもまさかの年下。我ながら鈍感だなー、あはは」

「すみません……」


 彼女は申し訳なさそうに頭を下げる。


「いやいや! 熱中症で倒れた僕を助けてくれたのはあなたですから! 命の恩人ですよ!」

「いえ、私なんか救急車を呼んだくらいしか……!」

「そんなことありませんよ。だって迅速に対応してくれたじゃないですか。冷たくて気持ちよかったですよ」

「えっ、ああ、クーラーの効いた部屋に運びましたけど、そんな迅速ではなかったかと……」

「あれ? 僕が倒れてすぐに外で冷たい風を僕に当ててくれましたよね?」

「えっ」

「えっ」


 なぜだか話が噛み合わない。気を失う直前、確かに冷たい風が僕を……


 そういえばこういうことが前にもあったな。あの墓の前、彼女の母を幽霊と見間違えた……そう、あの日――


「あぁ、そういえば今日はお盆でしたね」


 引きつった笑いを浮かべながら、僕は母の顔を思い浮かべた。

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墓石の向こうの幽霊 桑゙ @kuwaty

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