7:それは遠い炎の行方(6)
風が唸る。それにはベアルも気が付いた。しかし対応は間に合わない。
「クソッ! やっぱりオレは!」
弦から指を離した瞬間に分かっていた。この矢はベアルに向かっていない。シャルの腹に中ってしまう。
だから頭を抱えて嘆いた。矢が届くまでの数瞬が永遠にも思えるほど。今なら空の流星に願いを百度も唱えられるというほど。
――オレには何も守れねえ!
「ぅぐっ――!」
矢が突き刺さり、呻きが聞こえる。
自分の射た矢から目を離すな、と。それは父から教えられた。
獲物のどこに中ったのか、それで次の行動も変わる。もちろんそれだけでなく、共に猟をする仲間に向かったかもしれない。思いも寄らぬ
腹を立てて岩を蹴っても、己の足を痛めるだけだ。
風を殴りつけても、阿呆と後ろ指をさされるだけだ。
全ては弓を掴み、そちらへ弦を引いた自分の責任だと。
「どうして……」
だから目を離さず、まばたきもしなかった。だから残らず、信じられない光景が瞳に映った。
まずミラの身体に、取り巻く
それがするすると、自在に折れ曲がる腕のように伸びた。言ってしまえば、その腕がしたのは大したことでない。
飛翔する矢の先を、ちょいとつついた。それで軌道は変わり、クレフの矢はベアルの脚に深く食い込んだ。
「猊下!」
顔をしかめ、耐えるベアル。武闘神官たちも色めき立つ。だがその隙を見逃さないつわものも、そこに居た。
シャルは僅か緩んだ腕の中で、頭突きをベアルの顔面に喰らわせる。そうして腕を払いのけると、すぐにその肘を取って肩を極め、小さく投げる。
そのままうつ伏せにした首もとに膝を突き、押さえ込んだ。
顎が地面に付いたあの体勢では、喋るのもなかなか難しい。その代弁ということか、武闘神官たちが文句を連ねる。
「貴様、傷を付けないと言ったではないか!」
「儂は、な」
しかし事実、形成は逆転したのだ。ベアルはただ、諦めの表情でため息を吐いた。
暴力で解決するなら、全員が総掛かりでもミラには敵うまい。その前にシャルが、首なり背骨なりを押し潰すことも出来る。
「さてベアル。一つ頼みごとを聞いてくれるなら、その
皮肉の効いた言葉に、ベアルは手で了解の意思を示した。察したシャルも、押さえている膝の力を少し抜く。
「――頼みとは」
「簡単なことじゃ。儂の娘と、儂の友人。ここに居る二人に、今後関わるなというだけ」
「請け負った」
本心はどうなのか。疑いはしても、推量の材さえ得る間のない即答だった。
ミラがアガーテと名を呼ぶと、彼女も警戒しながら身を離す。後ろ歩きにこちらへやってきて、ようやく安堵の息を吐く。
「さあ行け。儂はうぬと違うて、約束を違えることはせん」
「私は……」
何を言おうとしたのか。ベアルはミラの顔を、それから全身を眺めて首を横に振る。最後に舌打ちを残すと、メイスに紅玉を固定して発動させた。
「うぬらも送ってやる。信用ならんのなら、歩いて戻っても良いが?」
神官たちに一瞥もなく、ベアルは去った。彼らはそれにどう感じているのか、やはり判断の材料はない。
ただもう薄ら笑いをしている者は、一人も居ない。
歩いて戻る選択はされず、武闘神官たちも姿を消す。その場に落ちた松明が、不満げな音で弾けるのみとなった。
残った三人は少しの間、黙ってそれを見つめていた。クレフがそうであるように、誰も何から話すべきか迷っていたのだろう。
「あれ――」
最初に言ったのはシャルだ。ほぼ同時にクレフも、おそらく同じことを言おうとしていたが。
転がった松明が、ひとりでに浮いた。一つだけでなく、そこにある物すべてが次々と。
それらはふわふわと一箇所に集まり、焚き火のように地面へ置かれた。もうそれが誰の仕業か、クレフにもきっとシャルにも分かっている。
「
焚き火を中心に、その周りで踊る影が地面に長く伸びた。中には影として実体化し、楽しげにしている者も。
「あれはここの住人たちじゃ」
「ここの?」
「うむ。リプルルとワーレルの狭間にある通路と言いはしたが、それは儂から見てのこと。ここはここで奴らの世界じゃ」
因果喰いによる精神的な幻惑がとても強く、そんなこともお構いなしに魔神――人形たちを放ってしまった。
それが居なくなり、邪気を発するベアルも去り、喜んでいる。
ミラは半分嬉しそうに、半分は申しわけなさそうに語った。
「どうしてあんな真似をした」
「何のことじゃ」
「お前、自分でどうにでもシャルを助けられたよな。どうしてそれをオレにやらせた」
「不満か?」
「意味が分からねぇって言ってんだよ」
不満だった。
ただそれが、何の不満なのか呑み込めない。意味が分からないとは、本当はそちらなのだと思う。
「逆に聞くが。うぬ、ならば友とはなんじゃ」
「えぇ?」
「これまでうぬを助けてくれる者は居らんかった。それは悲しい事実じゃが、これからもそうでなくてはならんのか」
そんなことはない。理屈の上では。
クレフには、誰の力も借りずいつか復讐を果たす。そういう生き方しかないのだ。
ミラに友だちになってほしいと言ったのも、ただそれが楽しかったから。何かを手伝ってもらおうと、本気で考えてはいない。
そう、決めつけていた。
「いや、そうじゃねえけど……」
「後悔のある者は、誰かを頼ってはいかんのか? 誰かと道を共にしてはならんのか? その道が面白くあってはいかんのか?」
どれもそう思っている。自分がそんなことをする資格はないと、やはり決めつけている。
「儂にはそれで、自分を罰した気になっておるようにしか見えんがな。本当に悪いと思うなら、これだけやったから許してくれと、そやつらに頼め」
「だから――」
これだけやったから、と。そうして生きてきたつもりだ。
ただ何も成果がないだけだ、と。事実が自分への嘘を虚しくする。
「だから? だから拗ねて、教会へ盗みに入るのか。それならそれで良いがな。しかしやるなら、教会を潰すほど何もかも奪え」
「ああ……」
「本当に何かを為したいと思うなら、儂を頼れ。矢の向きを変えるくらい、うぬが矢を射るに比せばどうということもない」
もう一度、ああと生返事は出来なかった。
厳しい言葉だ。胸に痛すぎて、泣いてしまいそうだ。その想いが膨れすぎて、声が出せない。
「うぬは過去のことを、己の過ちと考えすぎじゃ。それを言うなら、儂やアガーテはどうなる。規模が違うぞ、舐めるでない」
「……なんだそりゃ」
誰にも過ちなどない。そう言ってくれた気がした。草を踏まずに道を歩くことは出来ないのだと。
「もう一度言う。儂はうぬの友となった。儂を頼れ」
「うるせえ、ミラのくせに」
小さく笑ったおかげで、涙は出なかった。
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