7:それは遠い炎の行方(5)
一体の上位魔神が、近付いてくる。その手には、見た覚えの紅玉が握られていた。
「ご苦労」
ミラが右手を向けると、魔神は全身を炎に変えた。紅玉もろともだ。
それから周囲に畏まる魔神たちも、順に炎へと変える。上位魔神も下位魔神も、同じような赤い炎に。
「赤目は儂の作ったものじゃが、彼奴ら儂のまねごとをしたらしい」
人間が上位だ下位だと言っているのも、勝手に付けられた分別だと。主を失った赤い炎を瞳に持つ魔神たちが、数の不足を補ったのだろうとミラは言った。全ての命を屠るという命令を全うする為に。
ただ皮肉にも、それが彼らの力を削ぎ、命令そのものを忘れさせた。だから滅びた人里や、この空間にたむろしていたようだ。
「忘れていたわけではない。ここへ来るだけの余力がなかったのじゃ、許せ」
ミラは炎を食い、魔神にも存在するらしい意思を自身に束ねていった。やがて見る限りの魔神は居なくなる。
――おつかれさん。
姿を消す魔神たちに、クレフは知らずそう念じた。
「うぬらはどうする? 邪魔だてするならするで構わんが」
数体の魔神にも、決死の覚悟で臨む武闘神官たち。それをミラは何十体も食ったあげく「全く足らんな。力が戻らん」などとのたまう。少なくない怖れを抱いて当然だ。
問われて最初の沈黙は、きっと実際にそうだった。だが互いに顔を合わせること数拍。リーダー格の一人が口を開く。
「邪魔はしない。我々だけでは、お前に勝ち目がないからだ。しかし猊下によって集められた我ら。このあと御身に害を為すならば、あらためて拳を向けるとしよう」
ベアルを直接に守る為でもなく、ムダに死ぬことは出来ない。彼らが述べたのは、そういうことだ。
けれども着いていって、状況次第ではそれも辞さないと。
「良かろう。うぬらがそうしたいのなら、儂が止める理由はない。それに信じるか知らんが、儂から傷付けるつもりもない」
ミラと神官たちと、互いに頷く。すると手の平を顔の前に、ミラはそっと息を吹きかけた。
こぶし大に炎が弾け、手に何かが転がった。悪戯っぽく見せたそれは、先の紅玉と同じに思える。
「さて。ない物をいつまでも探させては、甲斐もなかろう。返してやるとするかの」
当人以外の誰もが、その紅玉に何をしたと目で問う。クレフは「おい」と呼びかけもした。
しかし「まあ見ておれ」と。そこは先刻までの少女のごとく、無邪気に笑ってごまかす。
「――捜し物は見つかったかの?」
人ひとりを引き摺っている割りに、ベアルは結構な距離を移動していた。シャルに法力の明かりを灯させているのが、最初は見えなかったくらいに。
「貴様、何をしに来た!」
彼我の距離は遠い。三、四十歩ほどもあろうか。警戒に満ちた応答が、広い空洞へ虚しく響く。
「うん? 追うなとも言われなんだでな。しかしこんな物を見つけたのじゃが、そうか要らんか」
わざとらしいほど。いやそれこそ故意にそうしているに違いないが、皮肉げに紅玉を見せつける。
シャルの首に、もうナイフは向けられていない。代わりに筋肉質の腕が巻き付いている。それは現役の武闘神官と遜色ない、ひと息で首を圧し折れる武器だ。
その体勢で引き摺られ、ずっと明かりも点けさせられていた。シャルは苦しそうに息を乱し、やっと用の済んだ光を消す。
「うぬ」
「ん」
「奴の脚を射よ」
クレフだけに届く囁き。
傷付けないのではなかったのか。いやそれよりも、シャルを盾にしたベアルを射よと。
とんでもない無茶を言われたことに、クレフは怯む。
「元の力があれば良いのじゃが。今の儂では、二人を諸共に死なせてしまう」
「いや、でもオレは――」
「無理は承知じゃ。しかし、うぬにしか出来ん。忘れたか、どうしてライラとやらが姿を消したのか」
シャルが今の名を名乗る前は、ライラと呼ばれていた。なぜかベアルの悪事を手伝う羽目になっていたようだが、最後には暗殺された。
そのライラがまだ生きていたと知り、人質にしている。するとその結末には、シャルの死しかない。
「そりゃあ……」
「考える間はない。おおよそ十を数えた後、大きな音がする。それでどうにかせい」
ミラは反論を許さなかった。それでシャルが死んだらクレフのせいだと、突き放されたようにも思う。
――結局オレは、何もかもてめえでやれってことかよ。
それで当たり前なのだ。誰もがそうだ。分かっている。異論はない。
だがそれでは、悲しいとクレフは思う。
「何の狙いか知らないが、こちらへ放ってもらおうかな」
「その娘を離せばな」
どんな策略か、思案を巡らせていたのだろう。ベアルはようやく要求を告げる。
それで予告のあった、おおよそ十を数える時間が経った。ミラは剣を振りかぶり、あさっての方向に切りつける。
それは竜巻だった。高く細い炎の渦が、風の速さで空を裂く。やがて遥か遠くで何かに衝突したらしい。岩の崩れる轟音が、長く続く。それこそ山の一つでも崩したように。
「刃を使うな。戒律だったかの? それは昔、儂が使わんかったからじゃろうな。儂が剣を振れば、大地が崩れる。その為じゃったが」
ベアルも武闘神官たちも、人間の力など及ぶべくもない光景に息を呑む。
その間にクレフは、闇に潜んだ。松明の光が届かない位置へ。
居なくなったことは、すぐに気付かれる。弓の張りを見て、矢を番える。距離は五十歩分もあろうか。目標はシャルの身体に見え隠れする、成人した男の脚。
いつか猪を仕留めたあとよりは、よほど狙いやすい。
だが指が震えて、弦を張れない。腕が震えて、弓を支えられない。身体が震えて、吐き気が止まらない。
――あいつ、よりによってどうしてオレに。
恨むような想いとは裏腹に、クレフは祈った。少年のころと同じに。
「助けてくれよ、ミラ!」
思いきり息を吸って、一瞬の狙いだけで放つ。女神への祈りを乗せた矢が、闇を貫いた。
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