5:深きところの大迷宮(6)
神官たちは戦っている。だから絶えず、動き続けている。その間を、矢はすり抜けた。
胸を圧し潰すような苦しさ。それが急に解放されて、溜めていた息を一気に吐き出す。もう半日も動いていたような疲れが押し寄せて、大きく肩を上下させた。
「おい、あんた」
それでも目は閉じなかった。放った矢がどこへ行くのか、決して見逃すな。父親にそう教えられていたから。
「はい……」
「あの矢が何か特別だって言ったよな」
黒い矢は武闘神官に中たらなかった。外したのでなく、外れた。
それはいい。百本を射て百本が命中する筈もないし、そもそも中ってほしくはなかったのだ。
その後、矢は上位魔神に触れた。しかし突き刺さるでなく、あっけなく地面に落ちてしまった。
魔神も、向き合っている神官たちも、気付かなかったに違いない。
「あれは、そうです。あれには何か、強い力が感じられました。何だか懐かしいような」
「強い力ったって――」
鋼を打ち、岩と人を炎が焦がし、奇跡を願う声が紡がれ続ける。そんな中で、一本の矢はあまりに希薄な存在だった。
誰がくれたのでも、矢は矢に過ぎない。現実としてのその様が、大きかった期待を薄れさせる。
あの不思議な少女が、楽しくなるまじないでもかけてくれたのではと。そうあってほしいと願ったのに。
だがシャルは、祈っていた。握った左手を右手で包み、それを鼻先にして何ごとか呟き続ける。
アリシア会の祈りの姿勢ではない。その口から漏れる言葉はとても小さかったが、いくつか聞き取れたうちのひとつが気になった。
「
この窮地に母を想うとは。死を覚悟したのかとも考えたが、彼女の顔に諦めは見えない。
「集中! 一点突破!」
遊撃に回った神官が、十人となった。そこでベアルは、上位魔神への集中攻撃を命ずる。
五人ずつふた手に分かれ、一方が攻撃を受ける間に、もう一方が攻めるつもりらしい。相変わらず、彼の膨大な法力を当てにした戦法だ。
けれどもそれは、強制的に保留された。
「なんだ、この光は!?」
上位魔神の足元に、小さな炎が生まれた。矢が一本分の、この場にある他の炎と比べれば、とても弱々しいものだ。
しかしとても美しい。透き通った、濁りのない赤。
それに気付いたのは、クレフとシャルの二人だけだったろう。ベアルや武闘神官たちが目にしたのは、その炎が弾けた光だ。
「これは、魔神の術なのか?」
戸惑う声を総大司教は漏らす。初めて見る光景だと、指示をためらった。
光は膨れたが、さほど大きくもない。ちょうど子どもが屈んだくらい。その光源が、目を眩ませるほどの明るさを撒き散らした。
「母さ――ま?」
「違う。あれは」
男物の
すらりと伸びた手足。そのひとつが背中の剣を抜き放ち。その奥に灼熱の溶岩に似た眼光が、にやと笑った。
「
少女は空いた左手を上位魔神に向け、聞いたような短い言葉を放つ。それは直ちに、魔神を炎に包み込む。
先に魔神が呼んだ炎よりも、立ち上がる勢いが強い。なおも前進しようとする上位魔神が、二歩を踏む前に崩れ落ちた。
「あれは、オレの友だちだ」
「ミラさんが、どうして」
「あの矢は、あいつがくれたもんだからな」
だからと言って、どうしてそこから少女が出現するのか。理屈は分からない。しかし窮地を脱することが出来るのならば、文句はなかった。
「小僧!」
下位魔神に切りつけつつ、ミラはクレフに指を向けた。小さな身体で距離もあって、戦闘のさなか。いまひとつ分かりにくいが。
「呼ぶのが遅いわ! ここは見通しが良いからの。ずっと入り口で待っておったというに!」
「知らねえよ。お前が現れるのも、着いてきてるってのも聞いてねえ」
「穴に入る前、うぬにだけ知らせたではないか!」
殴りつけてくる下位魔神の拳を躱し、押し潰そうとする腕を切って、ミラは苦情を続けた。
だが知らせたというのに、心当たりがない。ここまでのことを思い浮かべて、ようやくそれらしき記憶に至る。
「まさか、あのときか」
峡谷の狭間。『深きところ』に入る直前に、何かの気配を感じた。気のせいだか際どいところで、鳴ったかどうかの僅かな音。
それを聞くと、肯定が返る。
「それじゃ! 分かっておるではないか!」
「知るかそんなもん! あんなので分かるわけねぇだろ!」
察しの悪い奴だ。と、少女は舌打ちした。しかしすぐに、また元の不敵な笑みへと戻る。
「じゃが何ごともなくて良かったの」
すぐそこに、もう一体の上位魔神が迫っていた。ミラはそちらへも、「
先に居たほうも起き上がろうとしたが、いつまでも呆けている神官たちではない。
倒れた上位魔神と、残りの下位魔神。もう危うさを感じることなく、一体ずつ消えていった。
「
二体目の上位魔神も、程なく倒された。ミラの呼ぶ稲妻に、高速の剣。全員で総掛かりとなった、武闘神官の拳。
それらに耐えきることは叶わなかった。
「クレフ。怪我はないかの?」
「ああ、助かった」
駆け寄ったクレフに、ミラは笑う。戦っているときの大人びたそれとは違い、子どもらしい満面の笑みで。
後ろを着いてきたシャルは、何か問いたげながら黙っている。
魔神王と一緒になど居られない。そう言って避けた相手では致し方ないが。
「やあ助かった。強力な助っ人、痛み入る」
先ほどまで強ばっていた笑みを元に戻し、ベアルもやって来る。そのまま抱擁か、少なくとも握手くらいは求めそうだ。
しかし引き連れた武闘神官たちは、そうでない。素早くミラとクレフ、それにシャルを中心に取り囲む。
「歓迎したいところだが、何者か聞かずには居れないね」
微笑んだまま、ベアルのメイスはミラへと向けられた。
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