5:深きところの大迷宮(7)
「魔神と同じ呪文による魔法。人間離れした動き。お嬢さん、君は何者かな?」
「何者でもねえ。こいつはミラで、オレの友人だ」
脚の震えは治まっていた。ミラの前へ、すっと出られたのはそのせいだ。
ベアルに立ち塞がることが出来たのも、その理由も、どちらもミラだ。決して相手が聖職者だから反抗したわけでない。
「うむ。クレフの言う通り、今の儂はただのミラ。こやつが危険なようじゃったのでな、助けに来た」
――オレを助けに。
ああそうか、と気付く。自分は助けてほしかったのだと。
そんなことを願って良いと知らなかった。
そんなことを願って叶うと知らなかった。
「それはそれは、ご苦労なことだ。しかし私が聞きたいのは、そういうことではない。そも君は、その姿が真実なのか。人間なのかと聞いているのだよ?」
「儂はうぬらと――」
「見ての通りだ。このクソ生意気な子どもが、化け物にでも見えるのか? 美人なだけが取り柄の、鼻っ柱が強いこのガキが?」
ミラは、正直に言おうとしたのだろう。それは魔神王だったのか、また別の言葉だったのか未来は知れないが。
「そうじゃ。儂はただのクソガキじゃ」
穏やかな口調で、尻を殴られた。せっかく美人だと褒めたのに。
「しかし――」
ベアルは構わず、もう一度問おうとした。当然だ。人間か否か、そこのところに答えていないのだから。
だがそれを遮るように、ミラが言う。「良いのか?」と。
クレフと並ぶように前へ出て。一方の足でクレフの足を踏みつけて。
「儂が気に入らんと言うなら、このまま帰る。ただしそれには、クレフとシャルを連れる。それも気に入らんと言うなら、うぬらを潰すぞ」
両手を腰に、ミラは胸を張る。顎をクッと上げて、睨みつける。
対してベアルは長身から見下ろし、優しさを演出した笑みがわざとらしい。
「私たちを潰す? そんなことが出来るとお思いか、お嬢さん」
「仮に。うぬの思い上がり通り、儂が負けたとしよう。だとしてうぬは、結果の想像できぬほど
少女は上位魔神よりも強い力を持っているように見えた。
聖職者たちは下位魔神と集団になったものを、毎度倒しているようだ。
その両者が全力でぶつかったなら、どちらが勝つのか。それは分からないが、どちらも手酷い痛みを伴うだろう。
「ふむ……」
張り付いていた笑みが収められた。ただしそれも、真面目に考えている振りにしか見えず嘘くさい。
ベアルの視線は最初、ミラに。それがクレフに移り、シャルへも動く。一人に十を数えて、三周ほどもされた。
「シリンガ司祭。君もこのお嬢さんを知っているのかな?」
熟考の後の、質問はシャルにだ。彼女は「はい」と頷いて、若干の沈黙を挟み答える。
「ミラさんとは、トロフで出会いました。奔放な方で、着いてくると仰いました。途中ではぐれましたが、無事で何よりです」
「人を襲う魔神や魔物。君はそれらを、とても嫌う。宿敵――いや、仇敵であるように」
それは問いでなかったが、シャルはまた頷いた。恨みや仇などおよそ似合わない彼女が、たしかにそうだと。
「それがなぜか、君は頑なに語らない。私もそれには踏み込むまい。だが今、その想いに反しないのかだけは聞かせてもらいたい」
「反しません」
即答だった。食い込み気味でさえあったかもしれない。
この利発で可愛らしい少女が、と。シャルはミラの後ろから、両肩をつかむ。優しく、小さな獣を愛でるように。
「ミラさんは人間ですか、なんて。問うたことはありません。そんな必要はありませんでした。どんなときも味方で、わたしはそれを疑いません」
はっきりと、ひと言ずつ誤りのない発音で彼女は宣言した。微笑んでこそいなかったが、優しさと強さの揃った、とてもいい顔だとクレフは思う。
ミラは見上げる先を、シャルに変更した。こちらは少し、にやと笑っているが。驚きも隠せていない。
「……なるほど。そうまで言うなら、信じた振りくらいはしておこうか。その場合、力を貸してくれるのだろうね」
「さて、どうかの。儂のようなクソガキに何が出来るか知れんが、少なくとも邪魔はせんよ。うぬらが妙な真似をせん限りはな」
突き出していたメイスを、ベアルはさらにぐっと押し出した。だがそれだけで、彼は背中を向ける。
「いよいよ最下層だ。全員、不調はないかな」
そう言うと、武闘神官たちは隊列を戻し始めた。最前に三人。ベアルの直衛。クレフの護衛。後尾に三人と、遊撃の要員。
その間、一人の神官がベアルに耳打ちをした。先の戦闘で、クレフの護衛をしていた男だ。
気にはなるが、何かと尋ねたところで答えはあるまい。
「では出発」
各自が水分を摂る程度の間が与えられて、一行は進み始めた。後から現れた上位魔神の上ってきた階段を下る。
それは途轍もなく長い。しかもいくら歩いたとて、折り返しさえない。手作りという風に多少の捻れはあるが、概ねまっすぐに続いた。
世界を飲み込む蛇が居ると、神話だかおとぎ話に聞いたことがある。もしかすると、その腹に迷い込んだか。などと妄想さえ浮かぶのは、やはり長さと広さが人智の及ぶものでないからだろう。
「そうじゃ、うぬ」
しばらく歩いて、二歩先を行くミラが振り向いた。何かを手に突き出すので、「なんだ?」と受け取った。
少女の小さな手にもすっぽり収まっていたそれは、硬い石の感触がする。
「こいつは――」
「うぬの村で見つけたのでな、返しておこう。うぬの父親が持っていたのじゃろ?」
松明の光を微かにはね返して、それは黒く光る。炎を
言われてみれば、あのあと誰も拾わなかった。クレフにも忌まわしい記憶となって、持っておきたいとは思わなかった。
だが。いざこの手にあると、何やら温かい。それは単に少女の体温かもしれないが、クレフには父の体温に思えた。
「みつけてもらって悪いな」
「なに。儂にかかればそんなもの、呼べば出てくる」
「お前が呼べば?」
魔神王ともなると、そんなことも出来るのか。さもありなん。それは大した問題でなく、やはり届けてやろうという気持ちが嬉しい。
大切に
それでようやく階段は終わり、果ての見えない空間に出た。
「よく来てくれたね。ここが祭壇だよ」
祭壇と聞いて、何か台のような物でもあるのだと思っていた。しかしベアルの言う方向に、それは見えない。
先行する武闘神官の松明にやがて浮かび上がったのは、直立した壁から突き出る、二本の腕。
その腕は地面に置かれた小さな壺に触れて、持ち上げるところに見えた。
誰に言われることなく、シャルは黙ってそこへ向かう。腰に括った布を外し、彼女の持参した壺を取り出すと、思い詰めた表情でこちらを見る。
双子のような二つの壺から、液体の揺れる音が微かに聞こえた。
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