4:魔神王と聖職者(2)
シャルの背中が見えなくなって、ふうっと細く息が吐かれた。燃えるような瞳が、ぎろっと睨みつけてくる。
「良いのか、追わんで」
魔神王と名乗った美しい少女。
単に役目としてやっているのかと思えば、何か強烈な感情で魔神と戦っていた聖職者。
降って湧いた事実を理解する前に、彼女は行ってしまった。置いてけぼりにされたのであって、ここへ突っ立っているのに意図はない。
行きがかり上、傷心の女性を気遣うのが常道だろう。
それにミラは人間を滅ぼそうとした邪悪の権化で、こんなにも近くで普通に話している事実がおかしい。
だが――シャルは聖職者なのだ。
聖職者や聖騎士といった教会に連なる者たちをこそ、クレフは憎んでいる。邪悪というなら、奴らのことだ。
ここまで来たのにしても、わけも分からず脅迫めいた手段によってだった。
そういった一つひとつを吟味していくと、彼女を追う理由が思いつかない。
「……オレが?」
答えると、視線が切られた。
それからミラは、すうっと剣を前に向ける。と、すぐに鋭い踏み込みを見せ、縦に空気を裂く。
「追わんならどうする。気ままに儂とうろつくか? うぬの復讐とやらを実行に移しても良い」
それはいい。とても魅力的な提案だ。
何をしても子どものように楽しむこの少女は、狩りをさせればクレフも到底敵わない。食うに困ることはないだろうし、飽きてしまうまであちこちを見物して回るのだ。
それに今は力を失っているようだが、また復活するのであれば聖職者への復讐も可能だ。
何せ教会には聖騎士だけでなく、武闘神官も居る。それに何より、動員できる人数が多い。
クレフが仲間を募ったとして、ちょっとやそっとでどうにかなる相手ではない。それこそクレフ自身が、新たな宗教を興すなどという話になる。
そんなものよりも、よほど現実的だ。
「一つ聞いていいか。お前と初めて会ったとき、どうしていいようにやられてた」
少女の剣が、今度は水平に動く。切る動作は、目で追いきれない。音と残像で、それがあったと知れる。
「魔神王を討つと集まった奴らは、大勢居ったな。それに何やら、こちらの物でない武器なども持っておった。人間とは皆、数さえ集めればそれほど強いのじゃと儂は思った」
「いや――」
「ああ、今は知っておる。仕事を終え、人間というものを見てみようと思ってな。どこか集まっておらんかと探したのじゃ」
くるり。振りきった剣が回り、正面に突かれる。そこに何を見ているのか、クレフにもおぼろげに分かる気がした。
「トロフまでには、野盗なんかも大勢居るな」
「そうじゃ。おかげでどれほど手加減すれば良いか、知れたがの」
シャルが重いメイスを打ち付けても、傷ひとつ付かない魔神。それをミラは、一刀両断にした。
そんな腕前で人数だけを頼みにした野盗など相手にすれば、どれだけの挽き肉が出来上がったことか。
「仕事って。前にもそんなこと言ってたな」
「リプルルの決めごとじゃ。もう儂の番は終わった。帰るも良し、このまま遊び呆けるも良し」
血のりでも払うように、剣が振るわれた。またすぐさま持ち上げられて、地面と平行に止まる。
何かと思えば、シャルの去った方向だ。切っ先がそちらを指していた。
「オレは、神だの聖職者だのを憎んでる。だから何でだろうって、よく分かんねぇんだ。オレはいったい、何をしたいのか」
本当はどうしたいのか、決まっていた。
だがそれは、これまでの自分や大切なものを裏切る気がして、明確に思い浮かべることさえ抵抗がある。
「討つべきを……なんじゃったかな。欲しいものを食い、ただ寝ておれ。か?」
「全然違え、なんだそのやりたい放題は。汝、討つべきを討て。欲するを求めよ。ただ横臥する者に果実は落ちぬ。だよ」
アマルティアの教義。いつかシャルも言っていた。己のやるべきことをやるなら、女神は救いの手を差し伸べる。そういう意味だ。
しかしクレフのような者の行動を促すのに、どうも相応しい持ち出しとは思えない。
「おお、それじゃそれじゃ。欲するものとは明らかでなければならんのか? 明らかにするため走るのも、欲することではないのか?」
――ミラのくせに、うまいこと言いやがる。
そう考えたのも本当は、ミラのくせにではない。だがそれも、明らかにせずとも良かろうと思う。
まずは目先の、走るべき方向へだ。
「どうも女としては見られねえんだがな。でも放っといたら、いけねえ気がする」
「うむ。儂もそう思う」
ゆっくりと切っ先が下がっていく。自然体で少女は目を閉じ、大きく息を吸った。
「お前はどうする?」
「儂か。さてどうするかな」
しばらく付き添ってくれると言っていたが、それをここで求めるのも酷だ。
そう思って、ふと気付く。相手は魔神王だというのに、大それたことだと。
――でも何だか、ちっとも怖くねえんだよな。
「もし。もしも良ければだが」
「うん?」
「オレの友だちになっちゃくれねえか」
友という言葉が、どうして浮かんだのか。そんなものは、焼けた孤児院の中へ置き去りにされたままなのに。
外見で言えば全くの子どもに、何を言い出すのか。ミラが驚きを表情にしたのも合わせて、急に恥ずかしくなった。
「友だち? 儂のような童子を友にしたいと、そう言ったか」
「いや、今すぐどうこうとかじゃなくてな。いつかまた、一緒に飯でも食うかなとか。旅をするのも面白そうだし――」
ごまかしながらも、否定をする気にはなれない。この機会を逃しては、もう二度と会えないようにさえ思えた。
「良いぞ」
「オレももうおっさんになりかけだし、それがまずいって言うなら……え?」
「構わん。なろう、うぬの友に。儂にそんなことを願ったのは、うぬが初めてじゃ」
少女は不敵に笑う。
裏腹に。いや添っているのか、手首が素早く返って剣を投げつけた。それはあのまま動かずに居た、魔神に突き刺さる。
一瞥も与えず、ミラはひと言呟いた。
「
神聖語にも似た何か。クレフには意味の分からない言葉を合図に、魔神と剣は炎となった。燃えているのではなく、ただひとかたまりの炎にだ。
ミラはその中に、小さな自分の手を突っ込む。同じ距離に居るクレフには、ただそこにあるだけで猛烈な熱を感じる炎に。
「これをやろう」
少女の手が引き抜かれると、炎も消える。燃え尽きたというより、握った拳の中に吸い込まれたようだった。
突き出された手には、一本の矢が握られている。鏃から矢羽まで、全て真っ黒な矢だ。
「あ、ああ。ありがとう」
「忘れるな、儂はうぬの友となった。いつかまた会おうぞ」
礼を言い、受け取った矢に視線を落とした。とりあえずの別れを告げたミラに、返事をしようと顔を上げる。
「ミラ……?」
しかし世にも美しき少女の姿は、既にどこにも見えはしない。
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