第四章:魔神王と聖職者
4:魔神王と聖職者(1)
強くもない風が、地面に落ちた葉を運ぶ微かな音。それさえも耳に煩い沈黙が三人を包む。
溌剌という言葉がよく似合う、ミラの視線。いつもと変わらないように見えるのに、それでいて翳って思える。
アマルティアの教義において、喩えば魔物は必ずしも敵でない。猪が畑を荒らすように、明らかな敵となるなら倒すのも止む方なし。と、そういう立場だ。その意味でシャルにとって、魔神は仇敵と言える。ただただ、生きる者全てを屠る為にあるような存在だからだ。
しかし彼女の目に怒りなどなく、戸惑いや疑念のようなものもない。
言葉の意味は分かるものの、その理解で果たして良かったのか。もしかすると想像外の意味が他にあるのか。そんなものを模索しているように見えた。
さしずめ、酒席で中年が放った駄洒落の意味を図りかねる若者。そんなところだ。
「マジか……?」
黙っていた長さが、ことの真実性を証明するような気がした。
何か言わねば。いつも突飛な少女の、いつものそれだと。冗談にしてしまう方法を探した。
だが終いに、口から飛び出たのはそのセリフだ。後悔しても遅い。ミラはもう一度、首肯して見せる。
最初に倒した魔神が、姿を消した。前触れもなく、靄が薄く溶けていくように。
その宙に赤い光が残った。光虫にも似た、至極小さなものだ。それはふわふわと、しかし素早くミラの方向に飛ぶ。そしてそのまま、少女の柔らかな頰に消えた。続いて残る二体も同じに。
「見ての通りじゃ。何なら新たに作るか? 今の儂では、小さなものになってしまうが」
そんな問いかけに、何と答えるのが正解なのだろう。
考える間もなく、ミラは己の腕に傷を付ける。そこから滴る血が雫となって、地に着くまでに姿を変えた。
むくむくとクレフと同じくらいまで膨れ、シャルが死闘を演じた魔神と同じ姿になる。前置き通りに体格は小さい。だがそこで動く気配は、まるきり同じだ。
いやもう一つ。眼窩に燃える炎は赤い。
「……どうして」
「うん?」
驚いて目を丸くする。それは慣用的な表現でしかないと思っていた。けれどもシャルは、まさにそうなっている。
口も呆けたように半開きのまま、完全には閉じない。そこから抑揚のない声が、ようやくという風に絞り出される。
「どうして人を。どうして殺めなければならなかったのですか」
「うむ。願いを叶えるよう頼まれてな。話せば長いが、それが儂の仕事じゃった」
「仕事――そんな、そんな馬鹿なことがありますか!」
急激に、シャルの声が怒りに染まった。
杖代わりにしていたメイスが持ち上げられ、撥条仕掛けのごとく直線的な動きで襲いかかる。
それを受けたのは、小さな魔神。人間ならばそれだけで致命傷の一撃を横腹に。だが、びくともしない。
立て続けて、脚に、顔面に、腕に。シャルのメイスが、嵐のように荒れ狂う。
だんだんとひしゃげていく魔神は、それでも反撃しなかった。姿は同じ、ただの人形でなく動いている。それなのにだ。
「まだ何も命じておらんからの、抵抗はせんよ」
殴り付けて憂さ晴らしにでもなるなら、好きなだけやれ。そういうことだろうか。
だとしたら。少女にそのつもりはなかろうが、馬鹿にしている。きっとシャルも、そう考えたに違いない。動きをぴたりと止め、上がった息に肩を上下させた。
「ずっと……たたかっ、戦ってきたのに」
すり潰された声が、喉の端に引っかかりながら落ちてくる。
最後に打ち付けた姿勢で、俯けた顔はよく見えない。それはクレフが視線を避けたからでもある。
だが一つ、煌めく水滴が落ちるのは見てしまった。それは見なかったことに。彼女の声が震えているのも、気のせいと思い込む。
「ずっと。ずっとずっとずっと。戦いを終わらせたいのに。終わらせる為に、わたしは戦ってきたのに!」
魔神戦争のさなか、彼女は討伐軍に参加していないと言った。しかし街を守ったり、どこかで戦っていたのかもしれない。
それからもシャルは、魔神を狩る為に戦い続けたのだろう。若い彼女にそれは、永遠にも近いかもしれない。
彼女が本当には何を言いたいのか、クレフには分からない。これまで聞いた話の端々から、そんな想像をすることしか出来なかった。
だがそれでさえ、同情するにも重い。生真面目なシャルが、自分さえ良ければ良いという教会内でどんな立場にあったのか。
聖職者を嫌うクレフには、なおさらそれが苦しいものと伝わる。
――よくも反吐が出ねえもんだ。
「みんなどうして戦うの? みんながやりたいことを、みんなが笑って出来ればいいって。母さまはそう言ったのに……」
「見てはおらんが、想像はつく。うぬに言いわけは出来んよ」
苦笑。ミラが浮かべたのは、きっとそうだ。後悔の色が、とても濃く見えた。
その頭を目がけ、シャルのメイスが振り上げられる。両手で振りかぶって、そこから落としただけでもただでは済まない。
「お、おい。あんた――」
見た目には、大人が子どもに武器を向けている。きっとそのせいだろう、クレフはシャルの前に割って入る。
「そこをどいてください」
「うぬ。構わんよ」
二人から言われて、格好がない。いや面子などはどうでも良いが、それでミラの顔が潰されては困る。
どうにか互いに納得する着地点を探し、上がったシャルの腕にそっと手をかけた。勢い余るようなら、すぐにでも止めると。その上で、身を躱す。
「魔神王、なのですね」
「そうじゃな。そう呼ばれた存在に間違いない」
「今後また、人間を敵とするのですか」
ミラが本当に魔神王で、言われる通りに邪悪な相手なら、そんな問いに意味はない。
「いや。そのつもりはない」
しかもその答えは、絶対にしないと誓うものでもなかった。
彼女が何かぶつぶつと呟いているのは、問いと答えを反芻しているようだ。真意を測っているのか、他に聞くことを探しているのか。それはしばらく続いた。
「……ミラさん。わたしはあなたが魔神王であるのか、確証を持てません。かと言って相当に怪しいことも確かです」
訥々と。見習い商人が、契約を慣れない風に読み上げるようだ。
少女はそれにいちいち頷き、問い返す。
「なるほどの。ならばどうする」
「取り逃がします。わたしはうっかり、あなたに撒かれてしまいます」
「そうか」
言い捨てて、シャルはメイスを納めた。さっと背中を向けると、自身が逃げるように歩いていく。悩ましいという素振りで、頭を振りつつ。
置き去りにされたクレフとミラを振り返ることは、遂になかった。
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