記憶の章

魔神戦争

 そこは周囲と何ら変わり映えしない岩山だった。ただ一つ異なるのは、その土地に古くから住む者たちに護られた、岩穴のあったこと。

 数多の勢力が所有権を主張するずっと前から、それは『深きところ』と呼ばれていた。その言語を解する者が、地上から消えてもなお。


「ここが――」


 鉄と血の臭いをさせた男が、岩穴に足を踏み入れた。二十歳を超えるくらいの、まだ若い男だ。外ではまだ争う音が、いくらか続いている。

 穴の差し渡しは、奥に四十歩ほど。左右にもおよそ同じ。歪ながら円形の空間があった。天井は高いところでも、背の高い者がようやく立てる程度だ。

 本当にここなのか? と疑いながらも、若い男は追ってきた者たちに作業を指示した。

 かねに飽かして集めた文献を読み漁り、現地の伝統も調べた。それで完成した図形を正確に、地面へ描かせる。

 出来上がった中央に、若い男は何かを置いた。それは小さな、片手にちょうどの壺に見えた。


「叶える者よ! 魔神の王よ! 願わくば、この世界を私だけのものとせよ!」


 召喚の言葉と、叶えるべき望み。拵えたばかりの生贄を使い、禍々しい儀式は執り行われた。

 一昼夜を越え、同じ言葉、同じ動作が何度繰り返されたことか。

 若い男が世界を支配したあかつきには、おこぼれに与ろうと付き従う者たち。それらの顔には、疲労と疑念が浮かび始める。

 素より憑かれていた、のかもしれない。若い男だけはより一層に熱を帯び、どこかを見て何も見ていない目がぎらぎらと光る。

 やがてその場所に変化があった。

 穴の外と内。空間と硬い岩の向こう。そんな境が消えた。

 夜の空に浮いているような、景色は見えてもそれが何か判別はつかない。水中でもあるような、不可思議な感覚。

 そこに女が居た。

 若い男にも周囲の者にも、目に映ったままを言えば、現れたのだ。

 だが正しくは、そこに居た。彼らが生まれるよりもずっと前から、女はそこに居た。


「この世界。この土に繋がる全て。それを、うぬだけのものとするのか?」

「そうだ! そこに君臨するのは私だ!」


 長い髪も、輝く瞳も。死後の世界を包むという、業火のようだと若い男は思う。


「うぬの熱は、儂に心地良い。その想い、遂げてやろう」


 女は、魔神の王は、願いを聞き届けた。

 細く白く長い指が広げられると、そこから黒い塊が零れ落ちていく。

 いくつも、いくつも、いくつも。

 硬い岩盤に落ちると、それは人の影にも似た巨大な異形として立ち上がる。


「フォフゥゥゥゥ!」


 産まれたことにか、歓喜の叫びがこだまする。岩盤に空いた、広大な隧道トンネルの中を。

 彼らは遠く伸びる階段を、列を為して上っていく。長い長い、果てのない列を。


「ここはどこだ……!?」


 若い男はいつしか迷宮の底に居る、自分に気付いた。


「ん、動けぬか。まあ案ずるな、うぬの願いはしかと叶えてやる。この世界にうぬの他、何者も残さぬよう。全てを滅すれば良いのじゃろう」


 女は姿を消した。大勢居た連れも見えない。


「違う! 私が望んだことは、私の望みは!」


 若い男は身動きのとれないまま、視覚の闇と絶望の闇とに包まれる。


   ◆◆◇◆◆


 周辺の多くの王が異変を知ったのは、二つか三つほども国が滅びてからだ。

 突然に、どこからともなく現れた真っ黒な異形の軍勢。一体ずつそれぞれが手練れの戦士を上回り、炎や雷を操る者も居る。

 どんな攻撃にも痛みを感じる様子はなく、ゆえに怯むこともなく。倒したところで間もなく死体は消える。

 百人を犠牲に五十体を倒したとしても、次にはまた倍する数が襲ってくる。


「地下道のネズミよりもタチが悪い」

「あいつらは追えば逃げるし、何より死ぬからな」


 応戦した指揮官は口を揃えて「悪夢のようだ」と、この敵を評した。

 昼も夜も、どんな場所に隠れても、彼らは追ってくる。貴族も兵士も、市民も農民も隔たりなく。

 村が燃え、街が瓦礫に埋まり、堅固な城も焼き尽くされた。悉くが炎に包まれ、人の土地から追い出され逃げ惑う。


「驕った人間への天罰ではないのか」

「魔王が人間を支配しようというのだ」


 誰が言い出したか、そんな話を皆が口にする。いつしかそれが、真実として語られるようになった。

 しかし魔神と呼ばれるようになったそれの正体が、神であれ悪魔であれ。現に支配している王たちには、受け入れられるものでない。


「互いのしがらみは一時的に忘れることとして、共通の敵に立ち向かおうではないか」


 そう言ったのは、周辺では未だ被害のない国だった。王よりもアリシア会の権力が強いその国の、総大司教が言ったのだ。


「彼の国の女神は慈母神でありながら、意思を通す為の戦いを賛美している」

「さすがは闘神の国だ」


 同じアマルティアを崇めるイセロス会も、周辺諸国の目があっては共闘に頷くしかない。

 それでも魔神を倒したとして、国力を弱めればその後どこかに征服される。否定出来ぬ疑念が、多くの国の意思決定を遅らせた。

 そこでアリシア会の総大司教は、集まった自国の兵士たち三万人に奇跡を与えた。その「女神の戦ベル・ヴィテ」という奇跡は、全員を勇者へと変える。

 それが襲い来る魔神を打ち負かし、進軍するうちに、ようやく二十万ほどの大軍勢となった。

 人間による大反抗だ。失敗などあってはならない。いずれの国も、王家の秘宝や神殿に伝わる神器などを持ち出した。

 それでも岩山と峡谷の連なる場所へ辿り着いたのは、半数に満たなかったという。

 そこから地下迷宮と呼んでいいのか迷うほどの広大な空間に攻め入り、魔神王と対面したのは一万人足らず。


「人という種が滅びるならば、己の力をいま使わずになんとする!」


 名のある騎士、徳の高い大司教、人知れず生きてきた魔術師。

 流浪の戦士、名も知れぬ弓手、義憤に燃えた武器職人。

 国も人種も性別も、その場に区別は存在しなかった。

 あるのはそこに在る皆が友ということ。死線を今またくぐる、戦友であること。

 刃が折れ、斧が砕け、矢が尽きても。

 光翳り、魂を焼き、血肉を塵とするまで戦い続ける。


「儂の身体を砕くとは。人と遭うのは久しぶりじゃが、やはり面白きものよ……」


 魔神王は最後まで、美しい女性の姿のままだった。けれどもその強大な力を疑う者は、誰一人居ない。

 業火のごとく光るその身が闇に溶け、昼間のようだった地下が暗く沈んだ。残った松明だけが岩盤を照らす、自然の姿に戻ったのだ。

 同時に「女神の戦」を与えた総大司教も倒れた。その奇跡の代償は、行使した者の命であるから。


「勝った、のか?」

「魔神王の脅威を感じない」

「魔神王は滅びた!」


 勝利を喜び、分かち合ったのは三人。息も絶え絶えの戦士と、気力の尽きた魔術師、法服をボロボロにした大司教。

 彼らは英雄と謳われたが、無事に帰り着いたのは大司教ただ一人だった。

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