1:向かうは魔神の爪痕(5)
およそ三年に及ぶ戦争があった。最初の十日で国が一つ消え、ひと月が経つころにはまた二つ消えた。
相手は巨人の影が生命を持ったような、漆黒の身体を持つ者たち。正体不明のそれは、魔神と呼ばれた。
深い森や遺跡などに棲む魔物とは違う。あれらは異形と言っても、見る者に生き物という印象を与える。
対して魔神は、生きている者をただただ屠っていく。獲物を捕らえて高揚したり、挑発されて怒ったり、延々と戦っても疲れたりしない。
「あんなところへ何をしに行く気だ――
声は潜めても、語調が強くなるのは避けられない。
いま居るトロフから遥か北東に、魔神の爪痕はある。ただし正確な場所は知られていない。関わった国の王や教会が、情報を封鎖した為だ。
最も近い町でさえ、はぐれた魔神を見たという知らせが絶えず、並の人間が生きて戻れる場所ではないのだから。
「だから行くのですよ。その状況を、いつまでも放置してはおけないでしょう」
「二人で英雄の真似ごとか? 気は確かなのか。二十万の軍勢が、最後はたった三人になったんだぞ」
終結に三年もかかった理由は、個々の魔神が強く、その数も膨大だったこと。それに周辺の国々が、それぞれ争っていたからだ。
それでも調停が行われて、選りすぐられた精鋭一万を主力とする討伐軍が結成された。
「そうですね、我が
「端から一匹ずつ倒せばいけるとでも? その一匹だってやべぇんだろうが」
「一匹ずつなら何とかなります。わたしも、あなたの弓も」
シャルはメイスの頭を握って、これで殴り殺すのだと示した。それから視線を、クレフの革ケースに向ける。
どうも冗談の類ではないらしい。どんなに頑強な男も半日で音を上げるという、強制労働よりは楽だと思ったのに。
――そんな分の悪い博打を聖職者の命令でやるなんざ、まっぴらごめんだ。
「ええと――まあ待て。落ち着こう」
「落ち着いていないのは、あなたです」
「行くのは分かった。それで、目的はそれだけか? 行って、魔神どもを蹴散らすだけか」
魔神の数がどれほどか、予測もつかない。それを根こそぎにするなら、もっと大勢を用意する筈だ。
ならば他に目的がある。クレフはそう推理した。
「先ほどからずっと、それを話そうと思っていたのですよ」
「ああ、そりゃあ悪かったな」
話の腰を折って邪魔をしたのはクレフだと、シャルの目が言う。
それはそうかもしれないが、普通はこういう反応だろうと思う。だがクレフは頭を掻いて大きくため息を吐き、椅子に座り直す。
ちょうど店の少年が、黒鳥の炙り焼きを持ってきている。「ありがとよ」と奪い取って、肉厚の部分を齧り取った。
「魔神の爪痕にある祭壇に、これを置きます」
「なんだそりゃ」
シャルの腰に結わえられた布包みが、テーブルに置かれた。
手を伸ばしても咎められなかったので、布越しに触れる。と、滑らかな丸みを帯びた硬い感触があった。大きさはクレフの拳と同じくらいだ。
「壺か?」
「ええ。法術で封をしてありますから、解くと怪我をしますよ」
忠告されて、さっと手を放した。
尋常でない現象を起こす業には、魔法と法術がある。どちらも至極限られた者にしか使えないそうだが、法術は誰にでも見る機会があった。
聖職者が布施をした信者に、見返りとして治癒を与えるからだ。
「置いて、どうするんだ」
「詳しいことは説明しても分からないでしょう。封印に関することです」
「全滅させるんじゃなく、出てこられないようにするのか」
法術の理屈を言われても、理解するのは無理だろう。だが封印と言うなら、なんとなくイメージくらいは出来る。
物語にも、邪神とか悪魔とかを壺に封じる話はよくあるものだ。
「……ええ。そう出来ればいいですね」
その答えには、些かの間があった。どんなこともはっきり躊躇ない印象が、これにはなかった。
――自信がないのか? それとも嘘を吐いてるのか?
怪しく思い推測しても、答えに至る材料はない。となるとクレフの判断は決まってしまう。
「せっかく出してもらって悪いんだが、牢に戻してもらえるか。どうもその話は危なすぎる」
「牢へ? 死罪もあり得ますよ」
「魔神に喰い殺されるよりはマシだろ」
また同じ牢に入れられるなら、脱獄の方法はある。死ぬのとお尋ね者になるのでは、後者が勝った。
だがシャルが口利きをしてくれたことで出られたのは間違いない。それについては多少なりと悪く思う。
クレフにしては遠慮がちに言った。それにシャルは、全く表情を変えず答える。
「そうですか。こういう方法は使いたくなかったのですが」
「なんだ?」
「昨日の夜、大聖堂で盗みがありましてね」
血の気が引いた。
今このタイミングで出てくる話題ではない。それが出た理由は、一つしか考えられなかった。
しかしどうにか、表情には出さずにすんだ。クレフが犯人だと、どれほど確信を持っているのか。しらを切ることは可能かもしれない。
「へえ、そいつは悪かったな。たくさんやられちまったのか」
「さあ、私も詳しくは。少なくはないそうですけれどね」
――全部知ってるのか、勘か。どっちだ。
殊更にすましているのでもない。上にも下にも感情の振れていない平坦な表情。
その対極へ向かうような、自身の焦りがまた焦りを呼ぶ。
「クレフさん。今朝、同年代の男性と一緒に居ましたね」
「えぇ――?」
今朝。市壁から、哀れな騎士を救う寸前。互いに盗賊である男と居た。
けれどもシャルは、同年代の男と言っただけだ。二人連れで居るのは、何も咎められることでない。
――いや、これ以上に何かを知ってるとしたら? 弁解出来なくなっちまう。
「あの方は、集金を仕事にしていますよね」
「あ、あぁ……」
言いつつ、シャルはメイスを手に取った。傍目には座るのに邪魔だから外したと見えるだろう。
だがクレフには、最後通告だと理解出来た。捕らえられた時の動きからして、まともにやりあって勝てる相手ではない。
あの男は表向きに酒場の息子なのだ。店を手伝うこともせず、ふらふらしている
「これを食い終わったら出発、でいいのか」
「そうしましょう。慌てずに食べていただいて結構ですよ」
煮込みのスープを持ってきた少年に、シャルはエールを運ばせた。それはクレフの分で、ありがたく乾いた喉に流し込む。
途中から味の分からなくなった食事の間じゅう、メイスはテーブルの脚に立てかけられていた。
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