1:向かうは魔神の爪痕(4)
大通りを横切り、横丁を抜けて路地から路地へ、その裏路地へ。小路に折れて、また折れて。入り組んだ先に、平屋ばかりが並んだ付近がある。
町の中心にある大聖堂から最も遠く、町を囲む市壁に最も近い。
ここへ至るまでの裕福な市民の住む辺りは、汚水の臭いに満ちていた。餓死でもしたか、つまらぬ口論で刃傷沙汰にでもなったか、時に死臭も混じる。
聖騎士団が戦闘状態にある今、その処理は何日先になることか。
しかしそれでも、まだ良いほうだ。クレフが寝起きするこの一帯は、乾いている。
家、と呼ぶのもおこがましい。触れれば粉を落とす板を、どうにか貼り合わせた小屋と小屋。
それらがくっつき合い重なり合い、真ん中辺りを潰せば並びが全て連鎖して倒れそうな。枯れ果てた臭いをさせる家並み。
その中の一つ。トロフに滞在する間だけ、頼んで借りているのがクレフのねぐらだ。
ランタンは、かなり前に火を消した。そんな物を点けて歩けば、すぐに囲まれてしまう。
扉代わりに立てかけてあるだけの板を外し、中に入った。振り返ってまた閉めようとして、すぐ先の小屋の隙間へ目を向ける。
「――町を出る」
「そうか。強制労働かと思ったが、良かった」
朝の騒ぎで共に居た男が、闇から這いずり出てくる。月明かりしかなくとも、互いに視界には困らない。
「似たようなもんだ。ありがたくも司祭さまのお供で、遠出だとさ」
「司祭――クレフ、お前がか? 難儀なことだな、それこそ悪い因果ってもんだ」
因果。と男が口にした途端、クレフの顔に怒りが迸る。常であればぼんやりした印象の眼すらも吊り上がり、威嚇する狗のように鼻へ皺も寄った。
「うるせえ! 因果なんかじゃねぇ、こういうのは運が悪いってんだ」
「あん? 何が違うんだよ」
男は怯まない。常日ごろから無頼ばかりを相手にしているのだ、一時の感情ごときに動じてもいられまいが。
「原因があれば、必ず決まった結果がある。そんなつまらねぇ話があるか」
「えぇ? どういうことだよ」
「うるせえ。シノギは払ったんだ、もう構わねぇでくれ」
今朝そもそもこの男と会ったのは、仕事の上納金を払う為だ。そうしたら「会ったついでに手伝ってよ」と頼まれた。だから原因と言うなら、この男がまさにそうだ。
しかしそれは責任転嫁だとクレフは思う。やることもなく手伝ってやろうと決めたのは、紛れもなく自分自身なのだから。
「ああ、もちろんだ。また顔を出せよ」
「早く消えろ」
要望通り、男は消えた。後退ったわけでなく、跳んだのでもない。きっとどこかに、何かからくりがあるのだ。
男が去って、小屋の中の地面を掘った。膝の深さほどで、革の袋が出てくる。
それを振ったが、中は空だった。目くらましに銀貨を十枚ほども入れておいたのにだ。
「……油断も隙もあったもんじゃねぇ」
放り投げて、そこから細く斜めに掘る。ほどなく先よりも小さな革袋が見つかった。
指で確かめると、ごつごつした感触がある。どうやらこちらには気付かれていない。
――昨日は宝石。今日は大銀貨。大聖堂ってのは気前がいいぜ。
住人に気付かれぬよう、勝手に金品を拝借する。それがクレフの本業だ。世にこれを盗賊と呼ぶ。
他に荷物は、風化した板間の下へ隠した革のケースだけだ。腕の長さほどもあるそれを肩に掛けて小屋を出る。
都合ひと月ほども滞在しただろうか。使ってもいない火の気をもう一度確認すると、感慨もなく小屋を後にした。
シャルと待ち合わせた場所は、盛り場の外れにある店の前だ。ありとあらゆる通りを頭に入れたクレフは、さほどの時間を要すことなく辿り着く。
「あらクレフ。今日は獲物がなかったのかい?」
「無茶を言うなよ。市壁から出られねぇのに、どうやって狩るんだ」
「そりゃあそうだね。どうだい、代わりに銭を落としていきなよ」
猟師として馴染みの女店主が、声をかけてくる。「約束があるんだ」と断ると、先に待っていたらしいシャルがこちらへやってきた。
「顔が利くのですね」
「そうでもねぇ。これからどうする」
女店主とは、至って普通に話した。大して素養のない愛想も、ひとつやふたつは使った。
だがシャルを前にすると。聖職者である彼女を見ると、苛立ちを抑えるのに、一苦労だ。
「食事をしていないでしょう?」
「こんな時間から出かけようってのに、ゆっくりだな」
「ええ。そのことも話さなければいけないでしょうしね」
攻め手の居ない日ごろであっても、既に外門は閉められている頃合いだ。それは聖地と呼ばれる町であるから、聖職者は例外なのかもしれないが。
それを置いても、夜は魔物の数が増える。都合の良い出立時間とは言えなかった。
――仕事をするにはいいんだがな。
懐に隠した宝石袋を手の感触でたしかめて、ふとシャルの手を見た。宝石はおろか、指輪さえ嵌っていない。
「じゃあまあ、早速これを使うかね」
「それには及びません」
路銀の袋を示すと、シャルは首を横に振る。食事をする了解は取れたと判断したらしく、そのまま目の前の店に入っていく。
古びた木戸を押さえて、クレフも続いた。中は意外に広く、やはり古びているが丈夫そうなテーブルが六つも並んでいる。
「お腹に溜まる物を」
注文取りの少年へ何枚かの銀貨を渡して、シャルは奥のテーブルに腰を落ち着けた。どうも知った振る舞いであるし、他にも若い
――聖職者の隠れ家みたいなもんか。
そう思ってみれば、壁には聖印の染め抜かれた布なども目に入った。
金目の物はなさそうだと視線で物色し、ようやくクレフが座ったのと同時に、先ほどの少年が戻ってきた。
お待ちどうとでも言ったのか、もごもごと口を動かしてまた去っていく。置いていったのは、蒸かした芋が木皿に四つ。
「とりあえずこんなもんか」
敵に囲まれて補給が見えないのだから仕方がない。よく洗ってある芋に、そのまま齧りついた。
「行き先は、
「……なんて言った?」
聞こえていた。聞き違えてもいない筈だ。それでも聞き返さずにはおれない。
シャルの唐突な宣言に戸惑いを隠せないのは、クレフだけでなかった。隣のテーブルや後ろに居た青年が、腰を上げてこちらに顔を向けている。
「わたしたちが向かうのは、魔神の爪痕だと言いました」
その声が聞こえた他の客たちが、じりじりと足を滑らせてカウンター席へと逃げていく。
当たり前だ。二年前にようやく終結した、魔神戦争。その元凶たる魔神の本拠地へ、好き好んで行く者など居ない。
彼の地にはまだ、魔神の残党が生き残っているのだから。
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