1:向かうは魔神の爪痕(3)
黒に近い濃い色の、重厚なデスク。その上に金と銀で拵えたペン立てや文鎮、それに香炉が焚かれていた。
壁と床には色鮮やかな織物が敷かれ、そこに居る神官たちは誰もが青白い。
――法服を剥げば青くさい瓜の臭いで、香も台無しになるだろうぜ。
聖職者の着る法服は、生成りのローブと相場が決まっている。そこへ役職によって、襟や肩掛けの刺繍が違った。
デスクに着く大司教は、このトロフ大聖堂の責任者だ。それだけに肩掛けは贅沢に、黒で塗り潰すような刺繍がされている。朱の糸による蔓と葉も、何枚あるのか数えるのが面倒なほど。
その脇に立つ二人は司教。こちらは一気に質素となり、葉が三枚。
「シリンガ。君はなぜこの部屋へ入るのにも、その格好なのか。前回も注意した筈だが」
司教の一人が、いかにも機嫌を損ねた表情を作る。その視線が向いているのは、シャルであるらしい。
彼女の顔は琥珀色に焼け、そこに輝く黄金色の瞳が大司教から外れることはない。
「申しわけありません。洗濯はしているのですが、落ちないもので」
「そういうことを言っているのではない」
たしかにその服装は、他の神官を基準とするなら偏っていた。
長い袖は肘まで捲って留められている。代わりに肘から先を覆う革の
床に着くほどである筈の裾も、膝で折り返して腰のベルトへ差し込んであった。同じく代わりに、膝まである革のブーツ。
そのベルトへ、鋼の柄に滑り止めの布が巻かれたメイスが提げられている。先端の鉄球にはごつごつと突起があって、無骨な姿は明らかに儀礼用でない。
「いつ、いかなる時も、邪なる者への備えは怠れません」
戦っているのだろう、邪なる者と。
言う通りに、彼女のローブは洗ってあるようだ。だがところどころ、どす黒い色が染み付いて落ちていない。
――魔物の血か。
言葉の上では申しわけないと言うものの、シャルの態度に改めるつもりは見えない。
これまでに何度も同じやりとりがあったに違いない。司教はますます表情を硬くして、言葉を失った。
「まあ、そう厳しく言うものでない。それより、その男は何かね?」
沈黙から先を促したのは大司教だ。年齢は五十、もしかすると六十を超えている。禿げた頭と顔に刻まれた皺が、平坦でなかった人生の労苦を物語った。
――ように見えるが、本当はどうだか知れたもんじゃねぇ。
などとクレフは、この部屋の人物になんとなく値付けをしてしまう。
「市壁の外に囚われた騎士を殺めた男です」
「……ああ、誰か言っておったな」
「例の件に、この男を同行させます。罰を与えるにも、手間が省けるでしょう」
感情も抑揚も薄く、ただしはっきりと淀みなくシャルは言う。
対して大司教は、本当に聞いているのかと疑いたくなる曖昧な口調だった。
「例の、な。構わぬが問題ないのかな。騎士を殺めるほどとは」
「問題ありません、わたしが御します」
「ふむ。君、名前は? 何をしている?」
大司教の目が、ちらとクレフの腕を見た。騎士を殺めたと聞いて、屈強の戦士とでも思ったのか。やはり何も分かっていないらしいと、呆れた。
「名はクレフ。猟で飯を食ってるんでさぁ」
わざと下卑た発音をすると、司教が顔をしかめた。大司教もぴくっと、怒りだか苛つきだかの色が目の端に映る。
「……よろしい、二人で向かいたまえ」
息を吐いた大司教が顔を向けると、司教の一人が部屋の隅にあるチェストに手を伸ばした。すぐに何かを取り出し、そのままクレフの前にやってくる。
司教は小さなトレーを両手で持ち、こぶし大の布包みを載せていた。どうするのかと思えば、それを取れと突き出す。
「オレが?」
「路銀だよ。無事に戻って、もしも余っていたら君の物にしていい」
同行させるとか、どこかへ向かうとか、どうも町を出ていずこかへ行かせたいらしい。
聖職者の指示を聞くなど、虫唾が走る思いではあった。だがそれはクレフにも好都合だ。しかも小遣いまでくれるなどと。
遠慮して「本当にオレでいいんですかい?」と演技をしつつ、包みを取った。手に伝わった重みで、三十枚ほどの大銀貨だと知れる。
一枚あれば、家族四人で一日好きに遊べるものが三十枚。どれほど遠くに行かされるのかと、不安ではあった。
だがくれると言うならありがたい。厳重に腰へ結んだ。
と、シャルがこちらを向いていたように思う。見るともう先ほどまでと同じに、大司教を見ていたが。
なんだか鋭い視線だったと感じたが、もうたしかめようがない。目の前の銭に浮かれすぎだと自戒する。
――馬鹿正直にその通り従う必要もねぇしな。適当な所で逃げるって手もある。
「ではこのまま出立します」
「うむ。気を付けてな」
結局、行き先も分からないまま大聖堂を出ることになった。空はすっかり暗くなり、他に人の見えない参道を篝火が虚しく照らす。
牢から来るときよりも、シャルはさらに早足で敷地の外へと進んだ。
「なあ、町を出るんだろ? それなら荷物を取りに帰りたいんだが」
「構いませんよ。自前の弓があるのでしょう? それは持ってきてくださいね」
「ああ、分かった」
落ち合う場所を決めて、シャルと別れた。あちらは何をする気なのか、あっさりどこかへ行ってしまう。
このまま大銀貨を持ち逃げされたら、どうする気なのか。
――まあ、そういうわけにもいかねぇんだがな。
見透かされているのか。と気色の悪さを感じながら、クレフは自身のねぐらへと足を向けた。
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