1:向かうは魔神の爪痕(2)
女からは汗の臭いがした。酒場ですれ違う豚のような男どもとは違う、清廉な臭いではある。
昨今、神官だからと朱の一つも引かないほうが珍しい。即ち化粧気のないその女は、クレフよりもやや小柄だ。だのに全く身動きが出来ない。
どころか鎖骨の上辺りと、腰の辺り。そこに当てられているのは、本当に彼女の四肢なのかと疑いたくなる。その感触も重みも、岩が載っているとしか思えなかった。
「司祭さま、引き受けましょう」
「よろしくお願いします」
他の兵に声をかけられて、女は離れる。襟の刺繍を見れば、たしかに司祭らしい。
クレフは倒れたままの格好で、後ろ手に縛られた。乱暴に引っ張られて、立ち上がらされる。
「お前はあの騎士の殉教を妨げ、アマルティアの教えにも背いた。沙汰あるまで拘束する」
同士の血を流すべからず。故意に味方を傷付けてはならないと、慈母神の教えにはある。この国にそれ以外の宗教は認められておらず、クレフも知識としては知っている。
だからあの騎士のとどめを刺せば、こうなることは分かっていた。
だがあの騎士ははっきりと、殺してくれと言ったではないか。ああしていなければ、その後どれだけの苦痛に耐えることになったか。
――どっちが正しいのか、本当にてめぇらには分かんねぇのか。
狭い足場を前と後ろからロープに引かれて、危ういバランスで歩かされた。いっそ転落して死ねば、兵士たちの手間が省けたのだろう。
だがそういう方面を、クレフは得意とした。何度か、おそらくわざとよろめかされたが、すぐに立ち直った。
地面に足がつくと、傍に先ほどの女司祭が居た。感情の読めない顔で、しかしまっすぐに目を合わせてくる。
「不敬者!」
「冒涜者め、恥を知れ!」
罵倒の言葉が激しく降り注ぐ。何が起こったのか、騎士や兵士たちは知っているらしい。
――この女が居なけりゃ、十分逃げられたのに。
負け惜しみには違いない。しかしあれほど早く接近する者が居るのは予想外だった。身軽なクレフを一動作で捕まえる技術も。
彼女の前を通り過ぎざま、そんな恨みをこめて「反吐が出るぜ」と、唾を吐きかけた。
そのままクレフは、大聖堂へと連れられた。この町に城はなく、そこが行政府であり、領主の在所でもあるからだ。
与えられた客室は、地下にあった。直線の通路が奥の闇に消えて、その左右には檻付きの部屋が等間隔に並んでいる。
ロープの持ち手は、牢番らしい兵士に代わった。厚手のチュニックに
手前から二つ目の檻が開けられ、そこに蹴りこまれる。腕が縛られたままで、顔から石畳に着地した。
「痛ってぇ……」
文句のひとつも言おうと身体を起こした時には、もう牢番の姿は見えなくなっていた。
――あいつ、逃げ足だけは一流だな。
クレフが野次馬に混ざっていたのは、一緒に居た男に誘われたからだ。仕事をするから、獲物の受け取り役になってほしいと。
その頼みも忘れて、勝手なことをしたのはクレフだ。取り押さえられたのと同時に逃げ出したのにも、文句は言えまい。
それはともかく、どうしたものか。沙汰があるまでと言っていたが、それはいつなのか。
過去に捕まったことはなく、今回だけで死罪とはさすがにならないだろう。だが強制労働や多額の罰金となったら、死んだほうがマシだったという可能性もある。
身の処し方を、あれこれと想像した。不安に駆られてというのではなく、予想できる未来への対策として。
――まあ何の準備もなしに出られるほど甘い場所じゃねぇや。
ひと通り思案を巡らせて、やることがなくなった。ならばと腹を決め、クレフは浅い眠りに自らを投じた。
それから、どれだけ経ったか。
「……きて」
誰かに呼ばれて目が覚めた。床の冷え具合と、眠った感覚からすれば夕刻だ。
体勢は変えず薄く目を開けて見ると、あの女が居た。檻の向こうに立って、小声で呼んでいる。
「起きて、早く」
「あぁ、もう呼び出しかい」
声の調子が強くなって、寝た振りは露見していると知れた。駆け引きをする目的も材料もないのだから、あっさりと返事をする。
「着替えてください」
「着替え?」
錠を開けた女司祭は、言葉通りに畳まれた衣服を差し出した。広げてみると、新品のチュニックに揃いの下衣も付いている。
まだ罰を決められていないとは言え、囚人に着替えとはどういうことか。しかもボロならばともかく、クレフがいま着ているよりもかなり上等の物だ。
それらを纏めて聞いたつもりだったが、答えはない。諦めて言う通りにすることとした。
「こいつはどうすれば?」
脱いだほうはどうするのか、袖を摘んで聞いた。
するとこれには、彼女の空いているほうの手が突き出された。どうやら目の前で下着姿になり、服を渡す趣向らしい。
――やれやれ、なんだか想定外の面倒ごとだ。
服を脱いだが最後、新しい服も与えられずに裸でいることになった、などと幼稚な嫌がらせはなかった。
誰も袖を通したことのない服など、いつ以来か。思わず新品の布の臭いをあちこち嗅いでしまう。
「早く。こっちです」
「へいへい」
女司祭は、クレフの返事も待たずに歩き始める。向かうのは、入ってきたときとは違う通路。方向で言うと聖堂の中枢側だ。
途中、廃棄物置き場があった。女司祭はクレフが脱いだチュニックを、そこへ投げ捨てる。
なんだか妙な具合だ。この建物の住人からすれば、クレフなど下賤の存在だ。その持ち物がぞんざいに扱われるのも、おかしくはない。
だが何かがおかしい。はっきりと正体の掴めない予感に、クレフは居心地の悪さが我慢出来なくなりつつあった。
「なあ、名前を聞いてもいいか?」
せめてこの女が、正体不明でなくなれば。あとになって、目の前のこの女が何者だったかと、誰に聞くのでも名前も分からないでは収まりが悪い。
それで解決することは何一つなかったが、聞いてみた。どうせ答えはないだろうがと、手詰まりに嫌気を感じながら。
「シャル。と、お呼びください」
「シャル? シャル、ね。いい名前だ、魔物の名前っぽくなくていい」
早足で歩くシャルは、振り返る僅かな素振りもなく答えた。
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