最終話
一億年が経ってからは時間が光のように過ぎていった。
二億年経ち、十億年が経ち、そして四十六億年が経った。
黒い霧が世界を覆い尽くし、もはや二人の目に見えるものは何もなくなっていた。
それでも、永久の過客たる二人は、なおも寄り添って歩き続けていた。
ある日、《灰色之者》は言った。
「ひとつ、おもいだしたことが、あってさ」
「おう、なんだ。お兄ちゃんに言ってみな」
「タイマは、にせもののせかいからきた、にせもののにんげんなんだよね?」
「偽物? おまえ、何を言っているんだ。俺が偽物なわけないだろう」
「ちがうよ。タイマは、にせものだ。ほんとうはいないんだ。ものがたりのとうじょうじんぶつなんだから」
「俺が? 本の登場人物?」タイマは弟分の奇抜な発言に面食らって、気の抜けたような笑いを発した。「冗談じゃない。この通りここでちゃんと生きてるじゃないか。一体全体、どこのどんな物語に俺が出てくるっていうんだ」
弟分を安心させてやろうとして発した言葉だった。さっきまで陽気だった《灰色之者》の声が、心なしか震えているような気がしたので。
しかし、それを聞いた《灰色之者》は、押し殺したような声で泣きじゃくり始めた。
「ごめんね……タイマは、にせものだから、げんじつには……どうしても、つれていけないんだ」
《灰色之者》はべそをかきながらタイマに詫びた。それは冗談を言っている口調ではなかった。タイマは呆然としてその場に立ちすくんだ。
「……本当なのか? そんなことは……。いや、でも確かに……」
《灰色之者》の言葉が真実である可能性を考え始めると、足下の地面ががらがらと崩れていくような気がした。いや、無数にひしめく黒い板のせいで地面などとうの昔に見えなくなっているのだから、本当に足下に地面があるかどうかすら今となってはわからないのだけれど。
「本当、なのか……俺が、偽物……」
信じたくなかった。そう考えるとしっくりきてしまう自分が嫌だったから、否定する材料を探した。それでも、心の奥底でその通りだと信じている自分をどうしても否定できなかった。自分に関わる、何もかも全てが否定されたような気がして、タイマは声を上げたくなった。泣き叫びたくなった。
「……俺の、せいなんだな」
全てを悟ったタイマは、歯の根が合わないほど怯え切った声で、そう言った。
「偽物の俺がくっついていたせいで、いつまでたっても前に進めずにいたのか。そうなんだな」
そう口に出した途端、タイマの頬を温かい液体が二筋伝った。
「ごめん」タイマはその場に膝を屈して、声を殺してすすり泣いた。「ごめんな……」
返事はなかった。暗闇の中で、《灰色之者》がどんな表情を浮かべているのか、想像するのが怖かった。
これ以上弟に顔向けできなくて、タイマは元来た方向へ、四十六億年かけて歩いてきた道を逆に向かって、全速力で駆け出した。悲しくて、悔しくて、何もかもが嫌になって、涙がちぎれて、それでも黒い霧をかきわけていつまでも走り続けた。
そして、そのまま永遠に走った後で、タイマはようやく我に返った。そしてこれまでの出来事の全てを、突然何もかも理解した。
現実の側に立つ《灰色之者》の母親は、頭の中に生まれた幻想を元に、想像力を駆使して、架空の世界としてタイマが元いた世界を作り上げたのだ。そして《灰色之者》はそうして生まれた世界の全てを元の木阿弥に還すことによって、幻想に回帰しようとした。
そういえば《灰色之者》はその説明の際、エネルギー保存則を例示していた。甲を乙に加工しても、逆の手順を踏めば乙から甲を作り出せる、とそういう理屈だろう。
タイマはここで、はっとして目を見開いた。幻想から生まれた人間の一人である自分が、まだ生きている。それどころか、シャークの凶弾に倒れて水爆の到着を待つあの土壇場では、母親の元へ戻る元手として、全世界のデータ化はおろか、Pネットに蓄積してきたエネルギーを利用することすらできなかったことだろう。つまり、乙のほとんどが欠けた状態にあるのだ。このまま逆の手順を踏んだところで、甲を完全に復元することなどできるはずがない。せいぜい慰み物のミニチュアができるのがやっとなはずだ。
この世界に流れ着いたときからわかっていたことではないか、とタイマは自分の愚かさをなじる。人っ子一人おらず、その代わり黒い板が降るような世界が、《灰色之者》の望む《現実》であるわけがない。
例えタイマがそばを離れたことで《灰色之者》が前に進むことができるようになっていたとしても、その結果目的地まで到達することができたとしても、そこで母親と再会を交わすことなどできはしないのだ。
「待ってくれ」タイマは《灰色之者》の方へとがむしゃらに走り出して、声の限りに叫んだ。「行かないでくれ、俺の――俺の物語にとっての、大事な相棒」
そのとき、さあっと風が吹いた。風が黒い霧を吹き飛ばして、タイマの視界に光が指した。
そんな夢を見た。
目を開くと、その風と光は、PDAコーポレーション本社ビルの最上階の窓から差してくるのだった。タイマは、水爆の爆心地である社長室に立っていた。
それまで全速力で走っているつもりでいたために、その場で身体がよろけた。何とか体勢を立て直して、周りの状況を探る。
水爆の威力は想像を絶するほどで、窓もスーパーコンピュータも机も椅子も何もかもが跡形もなく消失しており、床も壁も柱も、ビルが倒壊していないのが不思議なほど、一様に黒く焼け焦げていた。
そこでようやくPDAのことを思い出し、タイマは左手の甲を確かめた。そこには確かにPDAが装着されていた。その小さなパネルに表示されていた現在時刻は、水爆の爆発からおよそ三時間後だった。タイマは邯鄲の夢を思い出した。さっきまで何十億年もひたすら歩き続けていたのは、いったい何だったのだろう。
アプリを呼び出そうとして、一瞬指が止まった。何となく、もう二度とPDAは使えないのではないか、という思いが頭の隅をかすめた。しかし、覚悟を決めてPDAの小さなパネルをタッチすると、あっけないほど簡単にディスプレイが現れた。安心するのもそこそこに、タイマは慌てて専用のアプリを起動し、付近の放射線量を測定したのだが、意外なことにいかなる人工の放射線も一切計測されなかった。爆発後の半減期がやたらと短い物質を使っていたのだろうか。前回の水爆ではかなり長い間、広範囲に亘って強力な放射線が残ったと聞いていたことを考えると、今回の水爆は何となく良心的であるような気もする。兵器に良心的などというのもおかしな話だが。
放射線の心配も杞憂に終わり、ようやく落ち着いたタイマは、社長室を隅々までくまなく探した。しかしこの部屋に、《灰色の者》の姿はもはやなかった。それで、《灰色之者》はこの世界から永久に去ってしまったことをタイマは悟った。
偽物の世界に、偽物の人間。
《灰色之者》の言葉を思い出す。それを踏まえて、窓の淵に立って外の世界を見下ろした。
空はからっと晴れていて、太陽の暖かさが心地良い。今朝まではたくさんの廃ビルが建ち並んでいたのに、今やそれらは、巨大なボールになぎ倒されたボウリングのピンのように、ひとつ残らず地面に崩れ落ち、無惨な瓦礫を晒していた。それでも遠くに視点を移すと、遮蔽物がなくなったおかげで遥か栃木や群馬の山々までくっきり見える。水爆が落ちた今もなお、それらの山々ひとつひとつにとてつもない数の生命がひしめいていることを思うと、妙に感慨深い。地平線上の山々の向こうの盆地には街があり、その向こうには別の山々があり、その向こうにもきっと別の街と山々があるはずだ。
これだけの現実を前にして、これが偽物の世界だなんて到底考えられなかった。勿論そう考えている自分とて、偽物などであるはずがない。《灰色之者》がどう言おうとも、この世界こそが紛れもなく、自分たちが神に挑戦し、そしてとうとう勝ち取った現実であるのだ。
「俺たちは、ここで生きているじゃねーか」
今はそれだけでいい。
その実感さえあれば、他に何もなくたって、人間はしっかりと地に足を付けて生きていけるのだ。
そう思い至ると、タイマは何だか清々しい気分になってきて、吹き寄せる風を浴びながら数回深呼吸をした。それからふと気になって、ここ数時間のうちにPDAに届いたメールをチェックした。なんと今回は一億通を越えるメールが届いており、メールボックスを埋め尽くすほどに溜まっていた。その中からアルカやデイタ、リューらからのメールを即座に探し出し、スワイプ操作によって一ヵ所に集めてから、内容を確認する。
「……早くみんなに会いたいな」
そう独り言を呟く。タイマは一度だけ名残惜しげに室内を見回してから、社長室を後にした。もう二度とここに来ることはないだろう。
仲間の元へ向かうタイマの胸中では、未来への期待が渦を巻き始めていた。世界のデータ化が頓挫し、Pネットとの往来が自由になった今、幾多もの「はじまり」がタイマを待っているのだろう。それを思うと、自然と足取りが軽くなる。
その期待に応えてのことだろうか。東京では、ちょうど今まさに、夏が始まりを迎えようとしていた……。
P.D.A. -Passing Dimension Assistant- ハイド @hyder
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