第33話 生と死 その3
「ああ……」
イリーナは兄が一度目以上に力を放出したのを、ただ呆然と見ている事しか出来なかった。
ソルウェインの生んだ風は突風となって異形なる者を駆け抜けていった。
その風が通り過ぎた後には、もともと満身創痍であったその体を更にズタズタに切り刻まれた異形なる者の姿があった。
異形なる者はゆったりと揺れ、崩れるように倒れていく。
その脇では、ソルウェインの風の直撃から逃れたドラゴが異形なる者の最期を静かに見届けている。
そして、異形なる者にとどめを刺したソルウェインも顕現を行使した姿勢のまま、身動き一つすることなく立ち尽くしていた。
ただ……、ソルウェインの目は眼前の異形なる者を見ているようで見ていない。
少々離れてはいても、そのことがイリーナにははっきりと分かった。
「兄……さん……兄さん!」
イリーナは諦めきれずに、兄に呼びかける。その言葉が彼に届くことを願って。
しかし、それが彼に届くことはなかった。
黒いモヤがじわりとソルウェインの体から立ち昇る。
先程まではソルウェインの額で力強く輝いていた風の紋章……その薄緑色の光りもくすみ始め、それが従来の光を侵食するようにどんどん色濃くなっていった。
「駄目……兄さんっ!」
イリーナはようやく体を動かした。
思考というものを失っていた頭がようやく体を動かせと彼女に命令した。彼女は動かなくなった化け物の亡骸の脇を駆け抜け、兄の元へと駆けつけようとする。
しかし、それはドラゴによって防がれた。
異形なる者の近くにいたドラゴが、前を走り抜けようとした彼女を横から抱きかかえるように捕まえて止めたのだ。
「駄目だ、イリーナ!」
「離して! 兄さんが、兄さんが!」
「落ち着け、イリーナ!」
「でも、兄さんが!」
イリーナはドラゴの手を振り払おうとしたが、ドラゴはその太い腕でがっしりと彼女の腰を抱えて離さなかった。
動転してしまっているイリーナと違い、彼にはもう駄目だと分かっていた。
彼とて認めたくはなかったが、これまで積み重ねてきた経験が変えられぬ答えを突きつけてきていた。
イリーナは今にも泣き出しそうな顔でドラゴを見上げる。
ドラゴは、神妙な顔つきのまま静かに首を横に振ることしか出来なかった。
そこで、イリーナはようやく落ち着いた。いや、力が抜けてしまった。がくりと項垂れ、地面に視線を落とす。
しかし、彼女はすぐにゆっくりと顔を上げた。ただ、その目からは生気が失われていた。
彼女の視線の先には、いまだ動かぬソルウェインがいた。
ただ、彼がもう生きてはいないことは、彼女にもはっきりと分かった。
荒く上下していた肩は静かなもので、その顔にはすでに表情というものがなくなっている。ただ、彼自身の静けさに反し、彼から吹き出し纏わり付くように渦巻く黒い気は先ほどよりも一層激しさを増していた。
そんな彼女の前でソルウェインが動く。本来の彼の動きからは程遠い仕草で、のったりと体を起こした。そして……。
彼は突如、目の前の異形なる者であった塊に切りかかった。
まだ触手が痙攣していたその場所に向かって斬りかかり、黒い
彼の周りに斬り飛ばされた何本もの触手が舞う。そして、彼はその勢いのままに異形なる者の亡骸を飛び越えて突き進んだ。
その先には、つい先程までの仲間たち――群狼の兵たちがいた。
ソルウェインから湧き出す黒い気を纏いながら、サル=イージャが煌めく。
常人の目には追えない速度で走った三筋の剣線が、その一瞬で片手に余る人数の命を奪い去った。
「兄さんっ!」
再びイリーナの悲鳴にも似た声が上がった。
兄の名を呼ぶ。
しかし、それにソルウェインが反応することはない。
一瞬の躊躇う仕草も見せずに、サル=イージャが再び閃いた。
そして、悲鳴も上げられずに噴き上がる赤い血柱だけが彼女の呼びかけに応えた。
イリーナは、見ていられないとばかりに顔を両手で覆い、小さく首を横に振る。その姿は、まるで小さな女の子がイヤイヤとむずかっているかのようだった。
ドラゴはそんなイリーナの姿を横目に入れながらも、群狼の兵たちに向かって、すぐさま怒鳴るかのように可能な限りに声を張り上げた。
「逃げろおぉぉお!」
ソルウェインの剣に狙われて、紋章を持たない者たちが逃げられる可能性などないと言って差し支えないだろう。
しかし、誰かが斬られているうちに誰かが逃げられるかもしれない。
そんな非情な判断の下に叫ばれた言葉だった。
そして、彼自身もすぐさまその惨劇の現場に向かって駆けだしていく。こちらは風の紋章を持つ者の本来の気の色を纏って。
一瞬の出来事に再び思考を失ってしまった群狼の兵たちも、そのドラゴの怒号に肩をビクリと振るわせた。そして、我先にと蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う。
その間も、ソルウェインによる殺戮は続いた。
ただ、ドラゴの判断も的を射ていた。結果として、その被害を最小限にとどめていた。
密集したままだったならば、兵たちのほぼすべてがサル=イージャの贄とされただろう。
それを回避できただけでも上々だった。
ソルウェインは目の前の獲物を斬ると次を求めて動き出す。そして、また斬る。
それを繰り返そうとする。
しかし、すぐにドラゴが追いつく。凶刃を振るい続けるソルウェインに彼は迷うことなく手にした斧で斬りかかった。
互いに風の紋章使い。二人の力量を比べると一撃の決定力はドラゴに分があり、得物を振る速さではソルウェインに軍配が上がる。そんな二人である。
火花を散らすような打ち合いではなく、どちらが先に得物を相手の体に当てるかという戦いになった。
そして、そういう戦いになったがゆえに、ソルウェインの方にやや分がある。
徐々に勝敗の趨勢はソルウェインの方に傾いていった。
ドラゴ自身にもそれが分かるがゆえに、表情は厳しいものとなっている。しかし、彼にもそれをどうにかするための方法など思いつかなかった。
ここまでか……。
ドラゴも覚悟を決めざるをえなかった。
しかし、彼がこの戦いで命を失うようなことにはならなかった。刃を交えていたソルウェインが、突如戦いをやめて、その場を駆け去ったからだ。
当然、その一瞬の隙をドラゴも見逃さない。本気で斧を振りソルウェインを倒しに行った。しかし、その一撃は躱され、ソルウェインは駆け去ったのである。
ドラゴはその背中を見送ることしかできなかった。
死なずに済んだという生き物としての安堵。戦士……いや、騎士としてまだ死ねなかったという思い。そして、ソルウェインを救ってやれなかったという不甲斐なさで胸を満たして、走り去るソルウェイン背中を彼は見送った。
群狼は、ここに歴史的な快挙を成し遂げたのである。
今まで誰もなし得なかった異形なる者を倒すことに成功したのだ。
ただ、それを誇る者は誰もいなかった。
団員の多くは思い出したくもない恐怖の記憶として、胸の奥に沈めた。
実際に刃を振った者たちにとっても、それは同じ事だった。
この戦いに彼らは勝利した。しかし、その場にいた者は誰一人、この戦いを勝ったとは思わなかった。思えなかった。
それ程に、彼らにとって勝利の代償として差し出した物が大きすぎたのである。
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