第31話 生と死 その1


 突然叫ぶカミュに、ソルウェインを異形なる者から離そうとしていたドラゴとイリーナが振り向く。ブラムとハスは目を見開き、カミュたちの方に向かおうとしていた足が思わず止まる。


 しかし、その誰もがカミュの言葉に従おうとする素振りはなかった。理解できなかったのだ。だがカミュは、叫ぶと同時に意識の集中に入っていて、それに気付かない。目は異形なる者を鋭く見据えてはいるが、それ以外のすべてを自身の内に向けていた。


 カミュの纏う気がより赤く、より黒く光を増していく。そして、彼の額の紋章が霞んでいった。


 カミュを背に、うっすらと影が生まれ像を造り始める。それは、人の輪郭のような線を持っていた。


 数拍の後に、それは実体となった。


 女性だった。


 黒と見紛うばかりに濃い紫のローブを纏い、片手には仰々しい装丁の黒い書物を手にしている。顔は目深に被った大きなフードに隠されていて、口元しか見えない。ただ、長く艶やかな黒髪がそのフードから零れ出て、風に泳いでいた。


「……ルキアかっ」


 ブラムはようやく我に返り、誰にというでもなく、その名を口にした。


 夜を司る闇の女王。光の神ミラの伴侶。闇の紋章を作りし者――――。


 神そのものなのか、それとも分身なのかも分からない。あるいは、ブラムがそう思っただけで、まったく別の存在なのかもしれない。


 しかし、カミュの出した顕現の放つ圧倒的な威圧感は尋常のものではなかった。人と同じ大きさの存在がただ立っているだけだというのに、その姿を見た者は心を鷲づかみにされたような感覚に陥り膝から落ちそうになっている。


 視線を外すことも出来ずに、ただ、その圧倒的存在感の前に震え、脂汗を額に滲ませている。そうと言われなくとも、人ならざる者だとその姿を見た者の誰もが思った。


 ブラムの隣ではハスも、そして、そこから少し離れた場所ではソルウェインら三人も、突然現れた現実味のない存在感に唖然を通り越えて自失してしまっている。立ち尽くして、目の前のカミュとその顕現に目を奪われていた。


 フードで顔の見えない女は、そんな彼らの視線を一顧だにすることもなく、革張りの本を片手に大きく右腕を上げる。それを異形なる者に向けた。


 異形なる者は暴れていた。


 触手を激しくうねらせながら、突然現れた女を威嚇し始める。カミュに向かって伸ばされたはずの太く巨大な二本の腕には、更なる力が込められた。四本の指を大きく開き、手の平に開いた穴は睨みつけるようにカミュと女を捉え、警戒している。


 それを見て、呆けていたブラムは我に返り、咄嗟に動き出した。横にいたハスが一瞬あっけにとられるほど素早く、迷いのない行動だった。


「団長!?」


 ハスは驚き声を上げるも、ブラムは止まらない。


 紋章を使った移動でこそなかったが、すでにまともに体を動かすこともままならない状態とは思えないような速さでブラムはカミュに向かって全力で駆けだしたのだ。




 大きく開かれた異形なる者の両手の平が明確にカミュに狙いを定めた。


 カミュの背中に何かが走る。それが止まらない。死の匂いを感じずにはいられなかった。


 しかし、もうカミュに選択肢などなかった。


 いま、退避行動に移れば、次に顕現を使う好機があるかどうかが分からなかったからだ。


 目の前の化け物が何をするつもりかはカミュには分からない。しかし、撃ち合いに勝つことしか生き残る術はないと、彼ははっきりと『理解』していた。


 カミュは恐怖心を感じていなかった。


 沸き起こる感情が強すぎて、あらゆる感覚が麻痺してしまっていた。


 ただ、それは彼にとってとても都合が良かった。幸か不幸か、彼はただ真っ直ぐに目の前の的を睨むことが出来たから。


 異形なる者の手の平の穴が微かに薄緑色の光を帯びる。まるで二門の大砲の砲口に光が満ちるがごとく、不穏な気配を放ち始めた。


 それを見たカミュの方も、静かに動き始める。


 体ではなく、『意思』を動かす。今、彼の頭と心は顕現の力を解き放つことしか考えていない。他の一切が排除されていた。


 ――――訪れたる審判の刻。我は裁きの刃を振り下ろさん。現世よ異界の門を潜れ。示されよ断罪の剣!――――


 カミュの意思が下される。


 彼の前に立つ女は振り上げた腕を静かに異形なる者へと向けた。


 刹那、異形なる者の胸部辺りに塗り込めたような闇が沸き起こる。それは紫電を纏いながら広がり始めた。


 その頃には、異形なる者の手の平は誰の目にもはっきりと分かる程に光で満ちていた。


 異形なる者の手で光が育ち、その胸部でカミュの生み出した闇が育つ。


 カミュの生んだ闇が何もかもを呑み込むように瞬く間に育ち、二十メアほどの球体に育った瞬間、運命の時が訪れた。


 光と闇がぶつかった。


 異形なる者の両手の平が光る。カミュの闇は激しい紫電を迸らせながら鳴動し、異形なる者を呑み込まんとした。それは刹那の刻のずれもなく同時に行なわれた。




 ブラムは、カミュを守るべく力の限りに足を動かしていた。たとえ、その身が紋章に食われようとも、顕現の力でカミュの前に防壁を作るために。


 だが、それは叶わなかった。


 彼が最後に見たものは、異形なる者の放つ光だった。


 黒い球体の闇が異形なる者の体を食らった時、闇に収まらなかった砲口が彼に向いてしまったのだ。


 カミュの作り出した闇はその内と外で世界を隔てた。その境は、まるで鋭利な刃物で切り取るように有と無を作った。


 ただ、それゆえに無の方には周りのもの一切を吸い込むような暴風が起こり、有の方にはその風に影響される世界が現れた。


 不幸にも、闇に収まらなかった異形なる者の腕が闇の境で切り取られてしまったのだ。切り取られた腕は大きく揺らぎ、光の束を放ちながら落ちた。そして、その時に手の平にある砲口がブラムを捉えた。


 光の束はカミュではなく、ブラムに向かってしまった。その光は地面を蒸発させ、そこにあったブラムの体も当然のように蒸発させた。それは一瞬の出来事だった。

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