第21話 ヴェイロンとウルカ
ヴァレリア王国国境の北、暗き森の向こうにはユドと呼ばれる大草原が広がっている。
大陸の大部分を占める主なき土地の一つだ。
正確には、隣接するどの国もが都合で勝手に領有権を主張する土地とでも言うべきか。税の徴収すらも端から考えられず、某かの理由で必要になった折のみ『我が領土』と呼んでもらえる。そんな不憫な土地である。
しかし、それに不服を唱えるものは誰もいない。
そもそもその土地に住まう者が、それらのどの国をも主としてなど見ていないのだ。
彼らは、我々が、そして草原に住まう獣たちこそがユドの王であると公言して憚らない。
ユドには蟲や魔獣といったものはほとんど見かけられない。しかし、数多の野獣が生息し命を紡いでいる。彼らはユドの領有を主張するどの国をも相手になどしておらず、この草原の獣たちと覇を競って生活を営んでいた。
いま鉄騎兵団は、そのユドの草原に帰ってきていた。
もともと彼らも、この地の遊牧民の一部族だ。
遙か昔には馬や羊を飼い慣らし、それらとともに草原を移動して生活していたのである。しかし、彼らは魔石に活路を見出した。南の暗き森を意識するようになると、馬から飛べないが悪路をものともしない巨鳥トロットへと乗り換え、弓と槍しか持たなかった手には剣も握って、鉄騎兵団と呼ばれるものへとなっていったのである。
その鉄騎兵団の拠点にはユルトと呼ばれる円形のテントが密集して建てられている。ユルト自体はユドの平原で一般的に使われるものとの差異はないが、この建て方は鉄騎兵団特有のものと言えた。
その中でも一際大きなユルトの中で、一組の男女が話をしている。黒髪の男と赤毛の女だ。
大きなユルトの中にはほとんど何もなく、鉄騎兵団の団旗が飾られ、剥き出しの地面の上にささやかな宝石で飾られた羊皮が一枚のみ置かれていた。
男は二十代後半、女は二十代前半。
ともにユドの植物で染められた独特の色合いと文様の衣を身につけている。人払いのされた室内で、男はその床に足を崩して座り、その膝に頬杖をつきながら、尊大な態度で女の話を黙って聞いていた。
「――――という結果に終わり、作戦は失敗にございます。申し訳ございません、ヴェイロン様」
褐色の肌を丸めて跪き、女は深く頭を下げる。鮮やかな赤毛が彼女の表情を隠していた。
男――ヴェイロンは、跪く女の目の前に置かれているボロボロの剣を面白そうに眺めている。その剣は、刃のところどころに切れ目が入り、まるでそのように作られた鋸のようになっていた。折れ曲がらずに剣は真っ直ぐのまま切り込みが入っているのである。魔石も混ぜ込まれた最高の鋼材で作られた剣が、だ。
「よい。流石によい手駒を育てている。さすがはブラム……いや、カストル・プリムローゼと言うべきか」
ヴェイロンは、かすかに口の端を上げた。
「はい。『白の騎士』の名は飾りではありません」
「生まれたばかりの王子を攫った騎士か……面白いではないか」
「少なくとも王や側近どもは気づいていないようですが」
「馬鹿を言うな、ウルカ」
「と、おっしゃられますと」
ウルカと呼ばれた女は、伏せていた顔を上げる。
「知っていて隠しているに決まっているだろう。少なくとも王はな。ゴルヴァ・プロバンスと双璧をなしていた騎士の突然の出奔。まして、ようやく生まれた待望の王子が攫われているのだ。これで世に発表した通りに、『カストルは殺した。死体は回収できなかった。王子は行方不明』などという話であるわけがなかろう」
馬鹿馬鹿しいとばかりに、ヴェイロンはウルカの言葉を一蹴した。
「それは……おっしゃられる通りなのですが……」
「それで押し通す必要があったということよ。本当に騙せるかどうかは別としてな」
ヴェイロンは鼻を一つ鳴らし、そう吐き捨てる。そして、改めてウルカに尋ねた。
「で、その王子を見ることはできたのか? 報告では無能とのことだが、最近部隊長になったとも聞く」
「少しだけ。私はソルウェインとの戦いに終始しておりましたもので」
「どうだった?」
ヴェイロンは、話が始まって以来初めて興味深そうな顔をした。
「戦闘の流れを変えた部隊の部隊長がおそらくは王子だと思われますが、特段目を見張るようなものは……ただ、これまでに手に入れられた情報通りに無能というようには見受けられませんでした。ただの戦士にしては、相当に腕が立つと思われます」
「闇の紋章はまだ発露していないか……」
「少なくとも使われてはおりませんでした」
「そうか。あるに越したことはないのだが、やむをえんな」
「しかし、本当にこのヴァレリアを獲られるおつもりですか」
ウルカは表情の一切を殺したまま尋ねた。
「無論だ。さもなくば、父を殺した意味がなかろう」
「そのようなことを……」
ウルカは誰もいないと知っている周囲を憚るように視線を動かす。しかし、当のヴェイロンは一切躊躇うことなく言い放った。
「事実は事実だろう。どう言い繕ったところで俺の親殺しの罪が消えるわけではない。俺に許されているのは、償うことではなく救うことだけだ」
ヴェイロンは十五の歳で兵団を出奔していた。鉄騎兵団という組織の長にありながらヴァレリアの貴族になることを考えていた父に対する反感だった。遊牧の民の血が国の飼い犬のなることをどうしても許せなかった。そうして、各地を流れるうちに彼は知ってしまったのだ。ミラ・インストレルの闇と、それに実質牛耳られているヴァレリア王国のより醜悪な姿を。
だから、彼は心に誓ったのである――――まずは、己がこの地を統べる王になると。
彼は目の前のウルカではなく、虚空を睨みつけるように視線を動かし言葉を紡いでいく。
「……ミラの祝福は祝福などではなく呪いだ。魔人に抗する力……そんな言葉で誘い、そして確かに魔人を押し込めた。だが、この大陸の現状はなんなのだ。紋章の強大な力で殺し合っても、互いに敵を倒しきることすらできていない。延々と争わされている。無節操に紋章がばらまかれた結果だ。これでは、まるで死の商人ではないか。奴らに俺たちを救う意思など端からなかったのだ。その力を己らの栄達のために使っただけだ。これの何が聖職者か。そして、そんなものに
耐えがたい屈辱に耐えるかのように、ヴェイロンの表情は険しくなっていく。だが、彼の言葉は止まらない。
「魔人との戦もまだ終わってなどいないのだ。壁の内に押し込め、仮初めの平和が与えられているだけに過ぎぬ。このままでは、次は必ず負ける……我らは再び魔人どもの奴隷となる。俺ならば、熟したこの機を逃したりはしない。もう俺たちに協力などという道はないのだからな」
ヴェイロンはそう言うと、再びウルカを見た。二人の視線はぶつかった。
「ならば、俺は遊牧の民の流儀を押し通そう。己の民を奴隷に導く王など、もはや王などではない。そうなる前に、俺が大陸を奪ってやる。敵対する者をすべて打ち倒し、跪かせ……そして、それからその者たちのすべてを愛そう」
「沢山の人間が死にます。貴方様の名は未来永劫、流れた血のすべてとともに語られましょう」
それまで黙って聞いていたウルカは、はっきりとそう言い切った。しかしヴェイロンは、そんな彼女にそれがどうしたとばかりに胸を張った。
「百年後に民がいて俺の名を語るならば、それで十分ではないか。千年後にも民がいて俺の名が語られるならば、それ以上を望むことなど贅沢というものだろう。俺たちが俺たちとして生きている。俺の名に、それ以上の価値などあろうものか」
ウルカはその言葉に口を噤んだ。
彼女は反論したかった。でも、できなかった。かつては命を狙い、そして今は誰よりも愛するこの男ならば、そう言うだろうと分かっていたからだ。
「自由を愛する民が大陸を統べ、教会を潰し、そして魔人との戦に備える。……なあ、ウルカ。なんと壮大で、無様で、滑稽なことであろうな」
ウルカは言葉を見つけられないまま、ただただ男を見つめた。そんな彼女と視線を重ねながらも、ヴェイロンは言葉を止めなかった。自嘲するように浮かべていた笑みを皮肉なものへと変える。
「……だが、やる。今の国家も、そして教会も俺たちが俺たちとして生きていくには邪魔だ。教会が与えてくれたこの力は、俺たちの血で築かれた富と地位を焼き払うだろう。奴らがその時なんと言うか。俺は今から楽しみでならぬ」
そう言った彼の目は赤い光を宿し、その体は真紅の輝きに包まれていた。
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