第2話 闇の紋章 その1


 天高く登った日が傾こうとするころ、カミュの身はヴァレリア王国領北西部にあるトラン=キア近郊にあった。


 かつては小さな村であったトラン=キアの町は、いまでは六千人ほどの人口を有するようになり、ヴァレリア王家に王国北西部の重要拠点と認識されるまでに至っている。


 その町から四キロメアほど北に行った山裾に傭兵団『群狼』の拠点がある。その拠点に戻るべく、カミュは黙々と歩いていた。


 三十メアはあろうかという背の高い木々に囲まれた森の中で突然前が開け、人の背丈の三倍ほどある木組みの柵に囲まれた集落が現れる。


 そこが群狼の拠点だった。


 中の建物はもう長く風雨に晒され、日に焼けてボロボロだ。高い物見櫓を中心に、密集した木造の建物が建ち並んでいる。


 その中に、レンガ造りの建物が一軒だけあった。カミュは、門を潜るとまっすぐにその建物を目指した。


「おい、カミュ。今日も良い薬草が採れたか?」


 道中、団の仲間たちから悪意に満ちた声が飛んだ。しかし、カミュの視線は動かない。いつものことだったからだ。


 からかおうとした者たちも、それ以上の揶揄はしてこない。彼らも、目の前のカミュではなく、その父ブラムには敬意を払っていたのである。


 父親の影に隠れている子供のような状態だが、カミュはそれを良しとしていた。彼にとって、その方が都合が良かったからだ。


 自分は無能と思われたままの方が良い。カミュは本気でそう思っていた。現に、今のところは彼の思惑通りとなっている。彼が背負っている革袋の中の『彼』のように。


 カミュはレンガ造りの建物の中に入っていくと地下に降りる階段を降り、最奥の部屋を目指した。そして、目的の部屋に着くとノックをする。


「誰だ?」


 中から、重々しいドスのきいた問いが返ってくる。


 しかしカミュに、それを気にする様子はない。無造作に扉を開くと中に入った。


 三メア×五メアほどの四角い部屋は地下室だけあって窓などはなく、薄暗い。一台の重々しい大きな机と一脚の椅子、その上で静かに輝くガラスが煤けたオイルランプ。そして一対の薄汚れたソファーがあるだけだった。


 他に備品と呼べそうな物は、数本の槍が立て掛けられた槍立てぐらいだろう。装飾品と呼べそうな物は、部屋の奥壁に掛けられたヴァレリア王国の紋章が描かれたタペストリー一枚きり。


 この部屋には、なぜか昔から団の紋章ではなくヴァレリア王国の紋章が描かれたタペストリーが掛かっている。


 部屋の中へと入ったカミュは、そのタペストリーの前で背中を見せて座っている男――ブラムを見た。


 髪の半分以上が白くなっている割には、未だ重々しい筋肉をまとっている。ただ、彼は顔も体も古傷だらけで、その左腕は肘から下がなかった。


「戻った」


 カミュは問い掛けに答えることなく、素っ気ない短い言葉でブラムの背中に告げる。そして、その応答を待つこともなく、背負った大きな革袋から一抱えほどの革袋を取り出すと、ブラムが背を向けている机の上に置いた。


 ブラムはカミュの養父だ。カミュは、ブラムからはその事実しか聞かされていない。しかし、物心ついたときにはもうすでに父として側にいたので、カミュもそうなのかという程度にしか思っていなかった。カミュにとって、父とは目の前の男だけだった。


 カミュの言葉の後もしばらくタペストリーを眺めていたブラムだが、ゆっくりと立ちカミュの方へと向き直ると、再び座る。そして、無言のままカミュが置いた革袋の中身を検めた。


 袋を開いた途端、色濃い血臭が部屋に満ちていく。しかし、二人ともそれに眉を顰めることすらなかった。


「……またか。最近多いな」


 呟くブラムは、厳つい顔にようやく渋面を作る。


「鉄騎の奴ら、いよいよ本腰を上げてきたとみえる」


 鉄騎――『鉄騎兵団』。


 ヴァレリア王国に限らず世界の国々の大半は、都市部から離れると十分に目が届かないのが実情だった。貴族たちは領土を与えられて治めているものの、国が保有する土地のほぼほぼすべてが木と虫と獣たちの世界である。


 人が統べられる土地など、ごく僅かしかなかった。


 その結果、辺境地域は王国の恩恵を得られず自治区となり、大なり小なりの自警団が生まれていった。


 しかし、組織が大きくなればなる程に組織というものはより多くの収益を上げねばならなくなっていく。


 各自警団は、時に都市部の人々の生活を支える魔石の採掘をし、時に某かの瘴気を取り込んで巨大化し変質していった虫や獣の討伐依頼を受けて生活の糧を得るようになっていった。


 そして国家は、次第にこの自警団という『戦力』に目をつけ始めた。


 彼らは、国に雇われて戦場にもその姿を見せるようになっていったのである。自警団という組織は、本来の目的から離れて傭兵団と呼ばれる組織へと変わっていくことになったのだ。


 その頃には、数多に生まれた傭兵団が、それぞれが生き残るために反目しあうようになっていた。


 近接しあう傭兵団は、自然と敵対関係となることが多くなっていったのである。


 鉄騎兵団は、その中でも特に好戦的な傭兵団であった。


 彼らは土着型ではなく流浪を選んだ傭兵団である。


 遊牧の民のように定まった拠点を持つことなく、効率よく稼げる良質の魔石を求めてひたすらに流離う。そして見つけると、その土地に根付いた者たちがいようが、お構いなしで奪いに行く。


 まるで野盗団のような存在だった。


 しかし、彼らは国に対して他の傭兵団同様に税を納めた。


 それだけに国は彼らの存在を黙認したのである。


 国としては、税さえきちんと納められるならば、人外魔境の納税者の顔が変わろうとも大した問題ではなかったのだ。たとえ、その存在自体にいくばくかの問題を感じていようとも。


 傭兵団同士の縄張り争いに口を挟む利が、統治者にはほぼなかったのである。それ故に彼らが移動した先では、一般的な隣接する傭兵団同士のいざこざなど可愛く見えるほどに衝突が絶え間なく起こっていた。

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