聖なる闇の紋章と

木庭秋水

第1話 序




「どこに行くつもりだ、ザンザ」


 真っ暗な森の中、若い男の声が冷たく響いた。


「ひっ」


 肩を弾ませて荒い息をついていた男は 、背中からではなく前方の闇の中からかけられた声に思わず飛び上がる。


 男――ザンザは逃げていた。月の光も届かない深夜の森の中を、脇目も触れずに全力で逃げていた。


ザンザも傭兵団の掟は熟知している。決して脱することは許されない。脱すれば『死』。自分は『自由兵フリー』ではなく、『戦士ウォリアー』だったのだから。


傭兵団の正団員は、基本脱退することを許されない。それを許していたら、しのぎを削りあう他団に自団の重要な情報が漏れ出てしまうからだ。だから、正団員『戦士ウォリアー』は他団に移ることを許されない。


もし勝手に移ろうとすれば執行人に『狩られる』。


「な、なあ、カミュ。頼む。どうか見逃してくれ。この通りだ」


 ザンザは姿が見えない声の主に向かって必死で頭を下げる。


 しかし、それに応える声は返ってこなかった。


「なあ、カミュ。後生だ。な? な?」


 それでもザンザは、必死の形相で見えない相手に声をかける。彼には、もうそれぐらいのことしかできなかった。


 彼も、やってきたのがカミュだと分かったときには、いきなり斬りかかりこの場を切り抜けようとした。カミュは、傭兵団では『草取り』と揶揄される薬草取りしかできない出来損ないだと思われていたからだ。


 養子とはいえ、団長の子であるにも関わらず無能と見られている人物だった。


 だが、それが大いなる誤りである事をザンザは身をもって知ることとなった。


 斬りかかった己の刃は受け止められるどころか簡単に躱され、間髪おかずに返ってきた見えない斬撃によって握っていた剣は手の中から弾き飛ばされた。


 ガサッと音がした藪の音で己の剣が弾き飛ばされたと気づくまでに、幾らかの時間を要したほどだった。


 ただそれでも、ザンザも経験を積んだ一人前の戦士だった。


 狩られる――と本能が察すると、即座に全力で森の奥へと逃げ込んだ。


 しかし、今度は逃げた先からカミュの声がする。


 もうザンザには、かつては馬鹿にしていた青年に、こうして懇願することしかできなかったのだ。


 ザンザは懐から革の袋取りだして、慌てて中を漁る。黄金色に輝く硬貨や薄緑色に鈍く光る石をつかみ出しながら顔を上げた。


「ほら、ここに報酬としてもらった金貨や魔石もある。この四分の一……いや半分をお前にやるよ。だから、頼む。見逃して――」


 しかし、その言葉は最後まで口にされない。


 サンザは視界が傾くのを感じた。


 直後、暗い森の中に真っ赤な水柱が上がった。


 それまで誰もいなかったはずのザンザの前に黒い影が立っている。


 強く風が吹き森の木々がその風に踊ると、微かに月光が差し込んだ。そして、影の持つ真っ黒な長剣は赤く濡れながらギラリと光を放つ。


 薄紫色に輝くカミュの目は、袋の中身をまき散らしながら崩れ落ちたザンザを冷たい眼差しで見下ろしていた。




 ノア・イグナルという世界――そこに一組の夫婦神であるミラとルキアが降り立った。


 二神は、そこに一本の木を植えた。


 今では、ノア・イグナルの世界各所に点在する『世界樹』の源木だ。


 世界樹は最初に『時』を作り、その下に世界の住人たちを作った。


 植物、虫、魚、獣たち……あらゆる命を作っていった。人もその中にあった。


 かつては世界の果てまで続くと言われた水に囲まれた世界ノア・イグナル。そこに大陸ベローナはある。


 この物語は、そのベローナ大陸の中央南部、ヴァレリア王国に端を発する物語。『紋章リーネ』という呪いを背負い、運命に立ち向かった一人の若者の物語――――。

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