第63話 誘惑


「ふーん、ふん、ふーん、ふーん、ふん・・・」


 ナルのちょっと音程を外した鼻歌を聞きながら、毛布の入った籠を持って2階へ上がる俺。

 

 なんのことはない。毛布の入った籠を一緒に持って上がってほしいとのお願いだった。

 毛布の5分の4は俺が持って、ナルは5分の1。普段は何回か往復するようだが、これくらいの重さだったら俺なら一度で大丈夫と思いきや、若干嵩張って持ちにくいので、少しだけナルに持ってもらっている。


 ナルを先頭に階段を昇っている為、ちょうど前にいるナルのお尻が俺の目の前で上下に弾んでいる。

 つい、目を引き寄せられてしまうが、そんな自分がちょっと情けなくなり、無理やりに視線を下に落とす。


 はあ、最近本当に思考がそっち方面に引っ張っていかれてしまう。

 落ち込んでるのに、こういったことがあると、すぐに反応してしまう自分に嫌気が差す。

 俺って本当に節操のない奴なのかなあ。





 2階に上がると、食堂を通って、T字路を右へ曲がり洗面所の方へ。

 ちなみに左に曲がると。例の個室が並ぶ通路だ。




「この辺りに置いてくださーい。後で皆と一緒に洗うんですよー」


 ナルが抱えていた籠を床に降ろしたので、俺もその辺に置いておく。

 洗面所を通り過ぎた先がシャワー室や洗い場になっている。

 男子トイレもこの辺にあるが、女子トイレは無い。多分3階にあるのだろう。


「これだけの量を洗うんだから、皆大変だね」


「そうですねー。おっきな桶に水と洗剤を入れて、皆でゴシゴシするんですー。洗うのも大変ですけどー、その後のケアも大変でー」


「ケア?」


「どうしても手が荒れちゃうんですよー。だからキチンとクリームをつけとかないと、すぐザラザラになっちゃってー」


 なるほど。洗濯機がないから手洗いだとそうなっちゃうんだろうな。


「だからクリームは絶やしたら駄目なんですー。私達女の子の手はいつもスベスベじゃないとー、痛くなっちゃいますのでー」


 ちょっと、なんか違う想像をしてしまうんですけど。

 ナルさん、手の動きがちょっとやらしい。いや、俺の意識し過ぎかな。


「だから、洗濯はあんまり好きな女の子はいなくてー。ピアンテなんか、いつも理由をつけてこなかったりするんですよー」


 あの悪役令嬢っぽい子か。我儘に育ってそうだからなあ。だから周りから孤立するんだ。


「サラヤとかも叱ったりするんですけどー、言うことも聞いてくれないしー」


 サラヤも甘すぎるところがあるような。一度ガツンと言ってやった方がいいかも。


「ピアンテ以外に問題児はいないの?」


「そうですねー。最近はイマリが張り切ってくれていますのでー。強いて言っちゃえば、いっつも夕食に遅刻するヒロさんくらいかなー」


「はははは、それは申し訳ない。反省してますので、ご容赦の程を」


「うんうん、よきにはからえー、なんてねー。ああ、そうだ!」


 ポンっと胸の前で両手を叩くナル。

 プルンっと震える2つの膨らみ。


 はうっ

 やめて、その攻撃は俺に良く効くんだ。


「ヒロさん、昨日、テルネが洗濯に参加しましたー。あの子、体が強くないけど、これから洗濯もがんばりますって言ってー」


 ああ、テルネか。それは俺が言ったからだろうな。

 ちょっと心が痛い。

 どうしよう。全部が全部ハッピーエンドにはできないぞ。

 俺は自分の幸せのことを考えるので精一杯なんだから。









「ヒロさん。ありがとうございましたー。寝ていたところを起こしちゃってー、その上手伝いまでさせちゃって、ごめんなさい」


「ああ、いいよ。今日は特にすることもないからね」


 さて、本当に今日はどうしようか。本来なら手に入れた宝貝の威力を試したいところなんだけど・・・

 やっぱり、まだディックさんのことを引きづっているのか、外に出ていこうという気持ちになれない。

 そう言えば、ディックさんは無事、繁華街に着けたのだろうか。俺が無理やりでも後ろからついていった方が良かったかもしれない。そうすれば、このモヤモヤも少しはすっきりしただろう。



「んー、ヒロさん。もう一個お願いしてもいいですかー」


 ナルが俺の顔を下から覗き込むように聞いてくる。

 やっぱり顔の距離が近い。


 サラヤもこうやってワザと距離を詰めてくることをするが、彼女の場合、計算してやっているだろうということくらいは俺にも分かる。

 でも、ナルはどうなんだろう。天然のような気もするしなあ。単にパーソナルスペースが狭いだけなのかもしれない。


「いいよ。今度は何を手伝うの?」


「こっちに来てもらえますかー」


 ナルが俺の手を引っ張ってくる。


 ああ、これも何度かサラヤにやられたなあ。柔らかい手でこっちはドギマギした。ナルの手もサラヤに負けず劣らず柔らかで温かい。


 さっきも言っていたけど、サラヤもナルも手が荒れていなくてスベスベしている。こういうスラムでは、なんとなく衛生品や化粧品が手に入りにくいだろうと思っていたけど、先ほどの話では手荒れ防止クリームみたいなものは絶やさないほどにあるみたいだ。

 まあ、彼女らの将来はだいたい娼婦に行くそうだから、バーナー商会が商品価値を落とさないようそういった品を融通しているのかもしれないな。





 連れてこられたのあ個室が並ぶあの通り。


 つい、ドアに貼られた紙を探してみるが、ご利用中の黄色も、傷病人用の赤色も貼られていない。


 ひょっとして、ディックさんが使っていた部屋を片付けするのか。


「こっちですよー」


 ナルは俺の手を引っ張りながら個室のドアを開け、中に連れていく。


 ん、そっちはディックさんの部屋じゃ・・・



「えーい!」



 ナルを俺を部屋の奥へと押し込む。

 別に抵抗する気もないので、そのまま身を任せて奥の方へ行く。

  

 殺風景な部屋。一応、絨毯らしきものが敷いてあって、布団のようなものが一枚。

 6畳くらいの個室。俺とナルの二人きり。そして、ナルは後ろ手でドアを閉める。




 え、これって、まさか・・・




「よいしょっとー」


 ナルは突然、着ていた上着を脱ぎ始める。

 

 あの、ナルさん。一体これは・・・いや、普通に考えて一つしかないだろ。


 Tシャツ姿になったナルは普段と変わらない笑顔でニッコリ。


「元気が無いヒロさんを癒してあげちゃいますー」








 ポフッと俺に抱き着いてくるナル。

 思わず両手をナルの背に回してしまったが。


 何だろう。この柔らかい物体は・・・


 目を下に向けると、ちょうど俺の肩辺りに顔を埋めていたナルが顔を上げる。


 目と目があった。


 大きな目。月並みな表現だけど、零れてしまいそうな瞳。

 ふわっと香る甘い体臭。

 体前面で感じるナルの体温。 

 耳から入ってくるのは心臓の鼓動。

 五感の4つでナルを感じている。


 そして、残る五感は味覚だけ。


 目に入るのはナルのポテッとしたちょっと厚め唇。少しだけ隙間が空いていて、誘っているかのように見える。


 どんな味がするのかな?

 

 そのまま顔を寄せていき・・・

 





 待て!それでいいのか?抱いてしまっていいのか?


 いつもの俺の現状維持バイアスが叫んでくる。 


 今まで散々サラヤの誘惑を回避してたじゃないか。なんでナルを回避しないんだ!。


 別にナルだったら、彼氏がいるわけじゃないし、ここまでお膳立てされちゃったらもう行くしかないんじゃない?


 自分の性格を振り返ってみろ!一度抱いたら情が湧いて離れられなくなるぞ。


 う、それは確かに。でも、やりたいんだよ。そろそろ限界なんだ!


 一時の快楽で人生を棒に振ってどうする?女がほしいなら、元の世界みたいに風俗にでも行け!


 まあ、そうなんですけど。でも、金の付き合いじゃない女性との関係に憧れているというか。


 一緒だろう。ナルも別に俺が好きだから迫ってきている訳じゃないぞ。それがナルの仕事だからだ。言ってたろ、元気が無いから癒してあげるって。


・・・・・・・・・・・・・・・


「ヒロさん、どうしたんですかー」


 キスをしてこない俺に、ナルが上目づかいで尋ねてくる。


「ナルは、俺のこと、好き?」


「はい、大好きですよー」



 大好きだって!もういいんじゃない、いっちゃっても・・・



「頑張っている人、私、みーんな大好きですー」



 ピシリッ



 俺の燃え上がりかけた心にひびが入った音がした。








 はあああああああああ。

 そうだね。ナルさん、癒し系だものね。流石みんなの天使。


 急速に頭が冷えていくのを感じる。

 まあ、こんなもんだよな。そんな簡単に愛は生まれないものだもんね。



 俺のテンションの低下を感じ取ったのか、ナルが俺を押し倒そうとしてくる。


 当然、倒れない俺。


 ナルは、むーって感じで下唇を噛みながら上目づかいで俺を睨んでくる。


「ヒロさん!恥ずかしがらなくてもいいですよー。男の子はみんな通る道なんですー。私に任せてくださいよー」


「いやー。ナルに癒してもらわなくても、俺は大丈夫ですって」


「むー。さっきはあんなに元気がなさそうだったのにー」


「いやいや、さっきのやり取りでナルに元気を貰ったからだよ。だからもう大丈夫」


「ダメですーヒロさんの初めては私が“奪っちゃう”んだからー」







 ウバウ!ウバワレルノカ?オレカラウバウノカ!


 俺の中の内なる咆哮が叫びをあげる




 いや、それ違うから。それに前の世界も含めたら別に童貞ってわけじゃ・・・素人童貞ではあるが。


 っていうか、お前、俺が何かを奪われようとなると、急に出てくる奴だよな。


 お前が出てくると急に割り切りが良くなって、殺人も全く抵抗がなくなっちゃうし、無謀な突撃をしちゃうし。


 何なんだよ、お前は?



 

 返事が無い。


 どうやら何かを奪われるわけではないとわかったのか、『俺の中の内なる咆哮(仮名)』は大人しく心の奥底に沈んでいったようだ。




 あれは一体なんだろう?


 別に脳内会話している訳ではない。明らかに俺とは別人格のものが俺の中に潜んでいる感じ。


 二重人格?それとも別の魂が憑依しているとか?若しくはスキル関係なのかもしれない。


 しかし、俺の頭の中に何かが潜んでいるのが分かった割には落ち着いている。


 普通、そんな異常な体験をすれば、パニックになりかねないが、なぜか、俺の中でコイツの存在を当たり前のように受け入れてしまっている。


 いつからコイツは俺の中にいるのか。この世界に来てからだと思うけど。


 俺がこの異世界に飛ばされた理由も不明なら、このスキルを選ばせてくれた理由も不明なんだ。この体と心に何が潜んでいても不思議はないが・・・






「さあヒロさん、もう観念しちゃってー。脱ぎ脱ぎしましょー」


 ちょっと、勝手に脱がさないでくれ。ちょっと真面目に考察してるんだから。


 おい、こういう内なる自分と相対するとか、秘められた人格を自覚するとかのイベントは、普通、もっとシリアスな場面で判明するよね。強敵との戦闘前とか、重要人物の死が切っ掛けにとか。


 なんで、こんなラブコメチックなシーンの展開中に発生するんだよ。もっと時と場所を考えろ!


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る