一番のお守り
鈴原りんと
一番のお守り
あれは、紙吹雪のような雪が降る寒い日だった。
今日と同じようにしんしんと雪の欠片が舞っていて、青白い静謐に包まれた世界だった。傘も差さず、防水加工もされていない靴で雪の中を歩いては、刃物で刺されたかのような冷たさに苛まれた。一歩進む度に、綺麗な純白が私の命の灯火を弱めていく気がした。
そんな中、今にも凍り付きそうな涙を流しながら、この神社を訪れたことをまだ昨日のことのように覚えている。
病弱だった私の願いをどうか叶えてほしい。
私を皆と同じように元気な体にしてほしい。
あの日に、幼い私は神社の本殿に向かってそう号哭した。
すると、そこに雪と同じ色の髪を持つ少年が突然現れた。ふわりと揺れる髪と、真っ白な狩衣。私を見つめた黄色の瞳は、毎日見上げていた月のように神秘的な光を帯びていた。
彼は、雪の上に力なく座り込んだ幼い私の前に立つ。そして、幼い私に「俺を信じろ」と言って、願いを叶えるお守りを渡してくれたのだ。
*
無邪気に舞い踊る雪の中、私は長い石段を上る。踝辺りまで積もった雪を踏むたびに、さくりと心地よい音がする。頬を撫でる真冬の風は、まるで針のような鋭さを帯びていた。
人気のない小道を抜けた先にある長い石段。それを上り切れば、小さな神社がある。枯れ木や落ち葉がいつまで経ってもそこにあるような、寂れた神社だ。
此処は、知る人ぞ知る秘密のセカイ。住宅街から離れ、薄暗い森を抜けたこの場所は、相当な物好きでなければ滅多に訪れることはないだろう。
小さな本殿の前に立ち、私は辺りをキョロキョロと見回す。右手に白いお守りを握りしめ、私は心の中である人物を思い浮かべる。
そして、周囲に誰も居ないことを確認して徐に口を開いた。
「
私が本殿に向けてそう訊ねると、聳え立つ木々がさやさやと音を立てた。木が寒さに震えると、乗っていた雪がどさりと落ちる。
ひゅうっと乾いた風が私のダッフルコートを揺らす。氷のような風が私の周りを包み込んだかと思うと、目の前に純白の髪を持つ少年が現れた。賽銭箱に行儀悪く座り、蜂蜜色の瞳でこちらを凝視している。
「よぉ、
少年はにやりと口角を上げると、少年らしい爽やかな声で訊ねてきた。
「当たり前だよ。元気があり余ってるくらい!」
「そりゃあ良かった」
「叶翔は?」
「俺はいつだって元気さ。お前は最近寒いけど体調崩すことねぇの?」
「ないよ。ここ最近はずっと元気!」
朗らかな声で答えると、叶翔が「そうか」と答えた。彼は軽やかにそこから飛び降りると、私の方に歩み寄ってくる。
あの日から微塵も変わらない彼を見下ろした。今では、私の方がすっかり背が高くなってしまった。私がゆっくりと屈むと、叶翔はわしゃわしゃと頭を撫でてきた。たぶん、出会った時と同じように子ども扱いをしている。
「んで、今日は何をしにきたんだよ」
「忘れたの?いつものだよ」
私は立ち上がってコートのポケットからスマホを取り出す。カレンダーアプリを起動し、叶翔に見せた。
今日は2月28日。
この日は、私と叶翔が出会った特別な日であり、彼にお守りを返納しに行く日だった。
「おー、もうそんな時期か」
「そうだよ。雪降ってるの見て思い出さなかった?」
「全然。雪なんて見慣れてるからなぁ」
彼は人間ではないから、おそらく私と時の流れが違う。だから、人間のように日付を意識しながら生きていないのかもしれない。現に、「一週間前くらいに会ったばかりのような気するな……」と叶翔は呟いている。
「それにしても、お前も大きくなったなぁ」
叶翔がしみじみと言う。どこか寂しそうに見えた表情の意味は分からない。なんだかお爺ちゃんみたいな台詞だなと心の中で私は笑った。
「叶翔は相変わらず小さいままだね」
「なっ……!お前だって小さい方だろ!」
「それでも叶翔よりは大きいもん。やーい、チビ!」
「うっせぇ!」
揶揄うように言えば、叶翔が小さい身なりで脛をどついてくる。呻きながら蹲れば、得意げな顔をする叶翔が鼻を鳴らして私を見下ろした。
「ふん、ざまぁみろだな」
「それが神様の遣いの言葉なの……?」
「好きで神様の遣いになったんじゃねぇしいいだろ。だいたい、仮にも神様の類なんだからもうちょっといい所に住まわせろっての」
叶翔は頭をがしがしと掻きながら、うんざりとした様子で吐き捨てた。
確かに、この神社はお世辞にも素敵な場所とは言えない。年々訪れる人が減っているし、手入れもほとんどされていない。毎年此処を訪れている人は、おそらく叶翔のような神様の類を信じている私以外居ないと思う。管理者ですら、数年の間姿を見かけていない。
「まともな食い物もないし、俺はいつだって腹ペコなんだよ」
「そう言うと思って、おはぎ持ってきたの。食べる?」
「マジか灯花!お前やっぱいい奴だな!」
肩にかけた鞄から包みを取り出せば、叶翔は途端に目を輝かせた。とても先程まで自分の住処の愚痴を言っていた人とは思えないほど、無邪気に笑顔を浮かべながらおはぎを受け取る。包みを少し雑に開ける姿は、お菓子を与えられた幼子みたいだった。
「……チョロいな、この神の遣い」
「何か言ったか?」
「いや、なーんも」
「俺に隠し事とはいい度胸だな」
「別に隠し事じゃないよーだ」
「ならいいけどよ」
叶翔は、私から貰ったおはぎを頬張っている。もちもちな頬が膨らんでいるのを見て、思わず突きたくなるのを何とか堪える。
嬉々としておはぎを食べる彼は、出会ったあの日と同じだ。たまたまポケットにあったキャンディを私が差し出して、それを受け取って嬉しそうに口に放り込んだ時と同じ顔をしている。
私はいつの間にかこんなに成長してしまったけれど、叶翔は何も変わらない。それが、少しだけ寂しく感じた。
「はぁー、やっぱおはぎ美味いな」
「食べるの早くない?」
「美味いもんは飲み物と変わんねぇからな」
「マジかぁ……」
そう言って指先をペロリと舐める彼は、何故か誇らしげだ。プリンは飲み物だなんてよく言うけれど、まさかおはぎが飲み物と同じだなんて。考えたこともなかったな。
「あー、食った食った。そういや灯花、お守りは?」
「あぁ、ここにあるよ。そのために叶翔に会いに来たんだから」
「話が逸れて悪かったな。ほら、貸してみろ」
本題をすっかり忘れていた私は、彼に促されて白いお守りを差し出した。
「お前も毎年飽きずによく来るよなぁ。俺が神の遣いだっていうのがもしも嘘だったらどうするんだよ」
「え、嘘なの?」
「んなわけねーだろ、本物だ」
「だよね」
今まで一度も叶翔のことなど疑ったことがない。素でそう返せば、叶翔は呆れたように言いながら前髪を上げた。彼の額には、見た事のない青い刻印が刻まれている。どことなく雪の結晶を想起させる模様だ。
その刻印だけで、私は彼が神の遣いであると信じ切れる。根拠はないけれど、私は神様の存在を信じているし、叶翔のことだって心の底から信じている。
「だってさ、一生入退院を繰り返すだろうって言われてた病弱な私が急に健康になったんだから、信じざるを得ないというか……」
「ふーん」
「私、疑うの苦手だし。そもそも、叶翔が俺を信じろって言ったんじゃない。だから私は、何があっても叶翔を信じるよ。叶翔と、叶翔がくれたお守りの力を信じて私はずっと生きてきたんだから」
叶翔と毎年ここで話したことを思い返しながら微笑すれば、彼は複雑そうな顔をして溜息を吐いた。
「お前なぁ、そんなんだといつか変なのに騙されるぞ」
「変なのって、例えば?」
「宗教とか、詐欺とか?今の時代、いんたーねっととやらでも騙されること多いんだろ?」
「大丈夫だよ。私、善悪の判断はきちんとつくから」
大抵のことは信じている私だが、さすがに良いことと悪いことの区別くらいつく。だから詐欺にあったことだってないし、悪い人に騙されたこともない。自分が信じるものは、自分でちゃんと決められる。
「……ま、そういう素直さってのはこの先重要だわな」
叶翔は口元をほころばせ、どこか嬉しそうに笑った。
「よし、やるか」
「うん。お願いね」
「おう」
私から受け取ったお守りを、叶翔はまじまじと見つめている。幼い頃から、毎年この日にお守りを彼に返納し、新たなお守りを授かってきた。健康への願いが込められたそれは、私の人生には欠かせないものだった。その効力を信じ、身をもって体験しているからこそ、こうして毎年ちゃんと返しにくる。
「今回のもだいぶ傷んでんな」
「大事に扱ってるはずなんだけどね。肌身離さず持っているから、どうしてもボロボロになっちゃうんだ」
「まぁ、その方がいいさ。ピカピカで返ってきたら、それは持ち主が大してお守りの効力を信じてないってことになるし、持ち歩いてもいなかったってわけだ」
「やっぱりピカピカで戻ってくると悲しい?」
「そういうわけでもねぇよ。綺麗に返ってきても、効力を信じてねぇって一概には言えないし。でも俺は、灯花みたいにたくさん持ち歩いて、お守りが汚れて返ってくるほうがなんとなく嬉しいよ」
そう笑うと、叶翔はお守りを両手で包み込み、祈るような仕草で目を閉じた。
ふわり、と彼の周りを雪を纏う風が包み込み、真っ白な髪が揺れる。舞っていた粉雪が、意思を持ったかのように叶翔の周りに集まり、彼の手に吸い寄せられていく。髪が揺れるたびに顔を覗かせる額の刻印が淡く光り、その光はやがて広がっていく。叶翔の手の中にあったお守りがゆっくりと宙に浮かび始めると、それは温かい光を帯びて空の彼方へと飛んでいった。
「よし、これで返納完了ってな。一年間、またお前が健康で過ごせてよかったよ」
「ありがとう。叶翔のおかげだけどね」
「……お前、まだ俺のおかげだと思ってんのか?」
「そうだけど……違うの?」
「あー、まぁそれでいいや」
叶翔は、また呆れを滲ませた顔で目を伏せた。彼の言葉の意味が分からなかったが、私は特に詮索する気もなかった。
「ねぇ叶翔、今年も新しいお守りくれる?」
「あぁ。……っとその前に、一つ聞きたいことがあるんだ」
「なぁに?」
叶翔は改まったようにそう言う。普段と違う様子に少しだけ戸惑いながらも、私は真っすぐな蜂蜜色を覗き込んだ。
「灯花、お前今年で幾つになった?」
色を正した静かな声音が、鼓膜を揺らした。それが一体何なのだろうと疑問に思いながらも私は口を開いた。
「えっと……明日の3月1日で20歳になるよ」
「……そうか」
そういえば、明日は誕生日だったなと自分で思いながら答える。やっと大人になるのだと少しワクワクした気分で私は答えたが、叶翔はどこか寂しそうに目を伏せた。私が大人になってしまうのが寂しいのだろうか。それとも、私が大人になるのが喜ばしくないのか。
明日、叶翔に誕生日を祝ってもらえるかなとたった今期待し始めたばかりなのに。
しばらく、この場には胸が詰まるような沈黙がおとずれた。雪だけがしんしんと静かに降っている。なんとなく嫌な予感がして、私は口を開く気になれなかった。ただ、ドクドクと心臓が忙しなく声をあげていた。
「なぁ、灯花。お前はもうお守りなしでも大丈夫だよ」
沈黙の果てに、叶翔が囁くように言った。でもその声はどこか力強く、嘘のない意思の強さを持っていた。
「……どういうこと?」
刃物でも突きつけられたような気分だ。頭が真っ白になって、口の中が乾く。受け入れたくない未来が、聞きたくない真実がそこに待っているような気がして。
「お前は、俺のおかげだって言うけど、だいたいはお前の信じる心があったから願いがかなったんだからな」
「信じる心……?」
「人間が持つ心っていうのは、何にも勝る強い武器だよ。信じる気持ちがあれれば、大抵のことはどうにかなる。お前はその信じる心を誰よりも強く持ち続けたすげぇヤツだよ。だから、お前はここまで大きく成長できたし、子供という肩書きを明日捨てることができる」
「ね、ねぇ、叶翔……?」
言っている意味が分からないよ。それは声にならずに、また体の奥深くに落ちていった。変に緊張して、体が強張る。頬に触れる雪が異常に冷たい。
戸惑う私など気にもせず、叶翔はとうとう真実を告げた。
「――あのな、俺たちみたいなのが見えるのって子供のうちだけなんだよ」
ガツン。
そんな音が後頭部を殴ったような気がした。目がゆっくりと見開かれていくのが分かる。叶翔の姿が、より鮮明に映し出されたからだ。
嘘だと思いたかった。でも、これ以上ないほどにしっかりこちらを見つめる彼は、至極真面目だった。
子供って何歳までだ。本人が大人だと思わなければ、永遠に子供で居られるのではないのか。そんなことを考えてみたが、無駄だということは私が一番分かっている。このタイミングで彼がそう切り出したということは、私は明日には大人になってしまうのだ。
「もう、叶翔には会えないってこと……?」
「そういうわけじゃないさ。見えなくなるだけ。ただそれだけだ。ここに来ればいつだって会えるだろ」
震える声で問えば、叶翔は優しい手つきで頭を撫でてきた。見えなければ、会えたことにはならない。そう文句を言ってやりたいのに、喉元で言葉が絡まって何も出てこない。ただ、口の中が冬の寒さで乾いていく。
「でもさ、見えなくなる前に少しだけ話がしたい。……聞いてくれるか?」
私は思い切り首を振った。それを聞いてしまったら、彼との時間が完全に終わってしまいそうな気がしたのだ。
あまりに突然のことすぎて、頭が回らない。また明日もこの神社にくれば彼が居るのではないか、はしゃぐ私を呆れながらもどこか嬉しそうに出迎えてくれるのではないかと思う自分がいる。
叶翔は私の人生の一部だ。いつだって心の支えだった。それを今更失うだなんて、考えたくもない。
「灯花」
聞いたこともないような優しい声で名前を呼ばれる。いつもの少年らしい声ではなく、大人びた柔らかな声で。
叶翔の顔は見ることができないまま、私はただその声に頷くしかなかった。
「俺たちみたいな神様に関連する存在はさ、誰かに信じてもらったり、覚えてもらったりしないと長くは生きられないんだ」
「……そう、なの?」
「あぁ。俺なんて、ただの神様の遣いだし。それも、大して偉くもないし周囲からの扱いもぞんざいだった。こんな廃れた神社に飛ばされて、あっという間に消えるもんだと最初は思ってたよ」
叶翔は少しだけふざけたような声音で言い、石畳にペタリと座り込んだ私に目線を合わせる。澄み切った蜂蜜色の瞳は、胸の奥をギュッと締め付けた。
「でもな、そんな時にお前が来た。吹けば飛ぶ紙切れみたいな魂してて、お前はまだ小さいのに寿命がそう長くない可哀想な子だと思った」
当時の私は、何度も入退院を繰り返すほど病弱で、外を出歩くことすらも滅多に許可してもらえなかった。あの日も、外に出してもらえないことに苛立ち、両親や看護師さんの目を欺いて内緒で家を飛び出してきたんだった。
「だけど、お前の心は強かった。消え入りそうな魂に反して、心はメラメラと燃えていた。この子は、誰よりも真っすぐで純粋な心の持ち主だ。お前が泣き叫んで願いを口にした時、この子の願いを絶対に叶えてやりたいと心から思った」
叶翔が顔を綻ばせて小さく微笑む。それは、見た事もない叶翔の大人びた表情だった。
あぁ、神様だ。
私にお守りをくれた、私だけの神様だ。
私は、その神々しくて大好きな存在に、今にも涙が溢れそうだった。
「俺さ、初めてだったんだ。誰かに願い事をされるの。ちょっぴり、神様になった気分だったよ」
私は真っ直ぐな瞳を見ていられなくて、雪が落ちてくる冷たい石畳をぼんやりと見つめていた。それでも、儚さを帯びた優しい声は、止まることはない。
「俺たちは、誰かに信じて貰わなくちゃ生きられない。お前の信じる心が、俺に命を与えてくれて、俺の一番のお守りになった。俺は、灯花のお蔭でここまで生きてこられたんだよ。きっとこの先も、お前が俺を覚えている限り、俺はここで生きていられる」
ぽん、と私の頭に骨ばった手が置かれる。昔から何も変わらない体温が、今は嬉しく感じない。この体温も、もう二度と感じることができないのだと思うと、寂しくて堪らないのだ。
「……なぁ、灯花。最後に一つだけ我儘を言ってもいいか?」
最後。
その言葉で、いよいよ涙が滲んできた。鼻の奥がつんとする。涙を零すまいと唇を強く噛み、涙を引っ込めようと瞬きを繰り返す。
「……いいよ」
頑張って紡いだ言葉は、情けなく震えていた。本当に最後みたいで、あまりに急すぎて。映画のラストシーンでも見ているような気分だ。でも今、自分はそれを傍観している側ではなく、その舞台に立っている。
「どうか、俺のことを忘れないでくれないか。たまにでいい、俺とこうして話したことを思い出してほしい」
私はやっと叶翔の顔を見た。ひどく感傷的で、今にも泣きそうな顔だった。それでも、あどけなさを少し残した笑顔はちゃんとそこにあった。
……そんなの、当たり前のことだ。もう何年の付き合いだと思っているんだ。私は叶翔のことを忘れたことなんかない。いつだって、一番信じているのは彼なのだから。
「忘れたくても忘れられないよ、叶翔の顔なんか」
「……それ、ちょっと貶してるだろ」
「貶してないよ馬鹿ぁああっ!」
何でもないやり取りが無性に安心して、私は叶翔に思い切り抱き着いた。あの日のように泣きじゃくれば、「よしよし」なんて子供をあやすみたいに言いながら背中をぽんぽんと叩かれた。
「なんだよ、大きくなったと思ったら何も変わってねぇのな」
「叶翔も相変わらずチビのくせに……~っ!中身は、大人っぽいとかっ……ずるいよ……!」
「はいはい」
何度もしゃくりあげながら言えば、叶翔の呆れながらも嬉しそうな笑声が聞こえた。
私はしばらく叶翔の腕の中で、子供みたいに泣きじゃくった。涙が全然止まらなかった。冷たい雪の中で、その涙は陽だまりのように温かくて、なんだか変な気分だった。
悲しい気分は全く晴れないけれど、いつまでも泣いているわけにはいかない。止まることを知らない涙を、私は乱暴に拭う。そうすれば、どこか泣きそうな顔をした叶翔と目が合った。
「灯花。この先、きっと辛いことや大変なことがたくさんあると思う。社会に出るっていうのは、そういうことだからな。でもな、その信じる心だけは大切にしとけよ」
「……うん」
「綺麗ごとみたいだけどさ、その信じる心があればなんだって乗り越えられるし、どんな願いも叶えられるんだよ。……いや、俺が叶えてやる、かな」
「叶翔が?」
「おう。お前は俺をずっと信じてくれた。長いこと生かしてくれた。だから、お前が信じる心を忘れないでいてくれるなら、俺がお前の願いをいつだって叶えてやる。それが、俺ができる精一杯のお返しだ」
白い歯を見せて、彼はニカリと眩しい笑顔を浮かべた。それに小さく頷き、私もつられて微笑む。
あぁ、そうだ。私は、この笑顔に安心したんだ。だから、彼を信じることができた。彼との繋がり――「彼を信じる」という私だけのお守りが生まれたのは、この笑顔のお蔭だった。
「……叶翔は、いつまで経っても私の一番の支えでいてくれるんだね」
「当たり前だろ。今更お前のこと簡単に突き放せるかってんだ、ここまできたら、最後まで見守ってやるさ」
仕方なくな、とおちゃらけたように言う叶翔を見て私は小さく笑う。
「安心しろよ灯花。お前が俺のこと見えなくなっても、俺はばっちりお前のこと見えてるからよ」
「なんか覗き見されてるみたいでそれは嫌だな」
「うっせ」
「いひゃいっ!」
「ははっ!変な顔」
悪戯に笑い、叶翔は私の頬を抓った。なんだかおかしくて笑えば、目尻に溜まっていた涙が頬を滑り落ちた。
「……もうすぐ日が暮れるぞ。暗くなる前に家に帰れよ」
その言葉に私は彼から目を逸らして控えめに頷く。
帰ったら終わりだ。
でも、いつもと同じように切り出されたせいか、明日も叶翔に会えそうな気さえした。私がここで泣きじゃくって離れないことを想像してのことなのか、彼はできる限り普段と変わらないように心掛けているように見えた。私は、その思いを踏みにじるわけにはいかない。
「またいつかな、灯花」
「うん。……叶翔、元気でね」
「お前もな」
手の甲で再び涙を乱暴に拭い、立ち上がる。
「また来るね。叶翔が願いを叶えてくれる分のお返し、何かしなくちゃ」
「それじゃあ、お返しのエンドレスじゃねぇか」
「だってお返ししたいんだもん。何がいい?」
「……おはぎ」
「相変わらずだなぁ」
少し照れくさそうに叶翔は目を逸らす。その様子が面白くて笑えば、叶翔は小さな声で続けた。
「ほら、日が暮れちまうぞ」
「分かってるよ。寂しいけど……、もう行くね」
再び鼻の奥がつんとするのを感じながら、私は彼に背を向けた。
またいつか会えるかもしれない。私から見えなくても、叶翔はいつだって此処にいる。
だから、きっとまた会える。そう信じて、私は彼に手を振った。
私が信じていれば、きっと会える。信じるという一番のお守りがあれば、私はどんなことだって乗り越えられる。
「――あぁそうだ、言い忘れてた」
歩き出そうとした時、叶翔の声が私を引き留めた。ゆっくりと振り返れば、叶翔がかつてないほど優しい笑顔で立っている。
叶翔は、一度深呼吸をすると、私が大好きな笑顔で言った。
「20歳の誕生日おめでとう、灯花」
一日早いけど、なんて困ったように彼は笑った。一年ぶりに聞く祝いの言葉に口元が緩みそうになるのを堪えて、私は「ありがとう」と言って目を伏せた。
目を閉じれば、彼の優しい笑顔が瞼の裏に映る。その姿を私はじっと見つめた。幼い頃から私を支えてくれた彼の姿を焼き付けて、いつでも思い出せるように。
次に目を開けた時、そこに彼は居なかった。彼が居た場所には、ただ透き通る粉雪が降っているだけだった。
まるでそれは、これからも見守ってるよなんて言っているみたいに、私の周りを静かに舞い踊っている。
ありがとう。
誰も居ない神社に向けて再び礼を言えば、零れ落ちた涙を雪を纏う風が攫っていった。
一番のお守り 鈴原りんと @marindesuyo
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