第百六十四節 追走
「……ュ、ソウジュっ!」
「うん…?」
名前を呼ぶ声に鼓膜を、柔らかい両手に身体を揺さぶられて、僕の意識はもう記憶にない夢の世界から仄かに明るい現実へと引き戻される。
眠たい瞼を擦ってうとうとしていると、控えめな力で頬をつねられた。
「もう、やっと起きた!」
呆れたようなクオの声。
今は朝のようだけど状況はよく分からない。
理解が何も及ばないまま、目の前には着替えの服が積まれていき、奥の方ではシェラがおにぎりとお茶をテーブルに用意している。
クオが、僕の服を脱がせながら言う。
「早く着替えて準備して、ここから逃げなきゃいけないんだよ」
「ど、どうして…?」
訊くと、シェラが質問に答えた。
「セルリアン。どういう訳かは全然わかんないんだけど、沢山のセルリアンが今朝からずっとこっちに来てるの」
その返答にハッとし、慌てて布団から飛び起きて窓の外を見る。すると街中に、野原に、遠くの砂浜に、夥しい量のセルリアンの群れが蔓延っていた。
昨晩はこうではなかった。
たった一夜で一体何が起きたというのだろうか。
呆然とする僕の肩をクオが叩く。
「ソウジュ、落ち着いて」
「今はナトラが守ってくれてるけど、多分ずっとは戦えない…」
そう言われて部屋を見回すと、確かに彼女の姿が見えない。
「ナトラを手伝って、此処から逃げよう」
彼女の強さこそ昨日の一件で目の当たりにしているけれど、あの数のセルリアンと際限なく戦い続けていられるフレンズはいない。
いや、恐らくだが一人はいた。
しかしながら、力を借りられるだろうか。
「クオ、キュウビはどうしてるか知ってる?」
「ううん」
行方を探すにしても、一先ずはこの危機を打開しなければ。
僕はすぐさま支度を済ませ、二人と共に部屋を出る。
「クオ」
「うん…!」
わざわざ出てからする必要もない。
いつも通りの言霊を唱え、クオの力を借りる。
「『
黒い耳と尻尾が生えて、身体に力が漲るのを感じる。
この急な変化を見せたのは初めてだからか、後ろでシェラの驚く声がした。
「そ、ソウジュ君!? その姿は…?」
「ふっふーん、シェラちゃんは知らないでしょ」
クオが勝ち誇るように微笑む。
心なしか、こちらに送られる力が強まったように感じた。
―――それから間もなく、宿の外へ出た。
「おあっ、やっと来たっ!」
宿の出入口の正面では、四方八方から迫り来るセルリアンとナトラが激しい格闘戦を繰り広げていた。
背後からセルリアンを吹っ飛ばし、余裕を作って話しかける。
「ごめんナトラ、お待たせ」
「いいけど、今後はもう少し早起きするようになってほしいな」
なんて言い方。
まるでさっきまで熟睡していたみたいだ。
「…寝ぐせ、残ってるんだぞ」
「これは耳だよ、寝ぐせじゃない」
「え、お前の耳ってそこにあったっけ?」
頭の上にハテナを浮かべる。
言うまでもなく、ナトラも初めてだった。
「まあ、その話は後でね」
今はセルリアンを片付けるのが先決だ。
「十分に数を減らせたら、セルリアンのあまりいない方に逃げよう」
「だったらあたしにいい案がある」
それはいい。
俄然やる気が出てきた。
「じゃあ、さっさとやろっか」
「おう!」
そして何のことはない、掃除が始まった。
§
「クオ、後ろに三体」
「任せてっ!」
それから数十分後。
宿の正門前に屯していたセルリアンの群れを難なく片付けて、僕たち四人は落ち着いて状況を整理できる場所を求めて高台を目指していた。
ナトラに先導してもらい、林の中を走り抜けていく。
「えへへっ、楽勝」
蒼い狐火を放ち、セルリアンの追手を一手に焼き払う。
「あとどれくらい?」
「もうすぐ着くよ」
前方にも飛び出すセルリアンを蹴散らしてナトラは答える。
而して彼女の返答通り、間もなく急な坂が現れた。
息を切らしながらそれを登り切ると、一行は見晴らしの良い高台に出る。
「そらっ!」
全員が登り切ったことを確かめると、ナトラは入口近くの大木のを蹴って幹を根元から勢いよくへし折った。
これで、高台に至る道が途絶える。
ギリギリ滑り込もうとしたセルリアンは、潰されて四散した。
安心したように、ナトラは大きく息を吐いた。
「とりあえず、これで落ち着けそう?」
「うん、ありがとう」
だけど、のんびりはしていられない。
近くのベンチに腰を落として、僕たちは現状について話し合うことにした。
「残念だけど、今は分からないことがあまりにも多すぎる。だから、確実にそうだと言えることを挙げていこう」
まず一つ。
セルリアンが大量発生していること。
「珍しいよな、あたしもこんなのは久しぶりに見た」
「あれ、ナトラは知ってるの?」
「え、なんでシェラは分からないんだ…?」
在り得ない認識の相違にナトラは顔を顰める。
だが、少しの逡巡と気付き。
多少の躊躇いを伴いつつ、ナトラは言った。
「…ストールが消えた頃だよ」
「っ!」
目を見開いて怯えたように跳ねるシェラ。
ナトラが言い辛そうにするのも頷ける。
「…それはナトラとストール君が、『最近は危ないから』ってボクをおうちに閉じ込めてたからだよ」
彼女たちの言葉から、かつての僕が姿を消した時期にも、ゴコクではセルリアンの大量発生が起こっていたことが窺える。
だけどまあ、単なる偶然だろう。
今は置いておこう。
「時間で解決すればいいけど」
「それは怪しいな。前もしばらく続いたから」
カレンダーさえない現在のジャパリパークで――そもそも誰も必要としていないのだが――正確な日数を知ることは難しく、さりとて寝ても覚めても事態が改善しなければ長いという感覚は残る。
少なくとも、この高台で野宿をして雨が過ぎ去るまで凌ぐというのは、些か無謀であるように思えた。
「……と、いうかさ」
「おお、どうしたんだ?」
クオが振り返り、ナトラが倒した大木を指差して言う。
「さっきから、セルリアンが頑張ってるね」
見れば彼女の言う通り。
何やら物音が続くと思えば、諦めの悪いセルリアンがバリケードを乗り越えようと格闘している音だった。
ナトラが苦笑する。
「変だなぁ、そんなにあたしたちが好きなのか?」
「ううん、それはないと思うよ」
「分かってるって」
シェラのお
「……セルリアンは、輝きに引き寄せられるんだっけ」
聞き覚えがあったのだろう。
クオの耳がぴくんと跳ねた。
「そういえば、誰かがそんな風に言ってたっけ」
「それが正しいとすると、実は大きな心当たりがあるんだ」
僕は妖術の収納から、とある物を取り出して三人に見せる。
「あ、鏡…」
「その本みたいなのが原因なのか?」
「コレの中に、沢山の輝きが詰まってるからね」
ウラニアの鏡。
かつて迷宮でミラーセルを撃破して手に入れた。
アイツも強かったから、そもそもこの鏡の輝きは強い。
だけど今はそれだけじゃない。
僕が旅の中で集めた星座の石板を、かさばらないようにこの鏡の中に仕舞い込んでいる。となればそれら石板の持つ輝きも、自ずとこの鏡に集約される。
今この場、いやジャパリパークで、1,2を争う輝きを秘めた存在といっても過言ではないだろう。
「―――だからこそ、『女王』がそれを狙っているの」
暖かい風と共に声がした。
「だ、誰だ…?」
「キュウビ!」
素早く空を飛んで、キュウビキツネが向こうから姿を見せた。
「どうやら、結構災難だったみたいね」
安堵したような口ぶりからして、ずっと僕たちを探してくれていたのだろう。
「おかげでね。朝ごはんも全然満足に食べられてないんだ」
「……手持ちがあるから少し分けてあげるわ。でも、その前に」
倒木の方を一瞥し、こちらに歩み寄って呟く。
「外野は手出し無用よ。―――『模造結界・珠稲荷』」
彼女がそう呪文を唱える。
すると周囲が瞬く間に光に染まって、遠くの景色が虹に覆われ見えなくなった。
きっと呪文の内容通り、これは『結界』。
セルリアンに邪魔をされないように、簡単に守ってくれたのだろう。
「さて」
懐をまさぐり。
丸っこいおにぎりを僕に投げ渡して。
「対『女王』作戦会議、始めましょうか」
キュウビはそう言った。
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