第百六十一節 福が転じる前に
「……っ!?」
蛇口から滴る水の雫が一回、シンクに落ちて音を立てるまでの一瞬。
そのごく短い時間のみが、キュウビがクオに対して自身の過去を理解させるのに要した時間であった。
脳を衝き破るような情報量にクオは一瞬で疲弊する。
「はぁ、ふぅっ…!」
荒々しく漏れる喘鳴。
背中を擦り、キュウビは話を続ける。
「今ので大体、見たでしょう?」
「う、うん…」
記憶共有の術。
その用途が故に使うような場面は滅多に訪れないが、自身が持つ記憶を映像を伴った形で他人と一緒に追想することが出来る、かなり便利な妖術だ。
キュウビは今回これを使って……彼女とヒサビの辿った運命、そしてクオンとの短い日々をクオの記憶に差し込んだ。
訪れるのは、まるで身が裂けるかのような感覚だ。
他人の記憶だと知りながら、まるで自分の体験のようにそれを理解できる。
クオはあの情景を瞼の裏に焼き付け、尤もな疑問を目の前に向けた。
「……あれが、昔のクオだったの?」
あんなことをした記憶はクオには一切ない。外見も今の自分とは似ても似つかず、本来なら何も感じる筈がない。
なのに、この寂寥感は一体?
記憶の中で響いた『クオン』という呼び声は、ソウジュの呼ぶ『クオ』とは全く違うのに、同じ様な暖かさを持って彼女の鼓膜を揺らすのだ。
一文字違いだから?
違う、そんな理由じゃない。
でもどれだけ考えたところであの記憶をそのまま受け入れることも、完全に嘘だと唾棄することも叶わない。
縋るようにキュウビに顔を向ける。
彼女があらゆる迷いを氷解させる答えを齎してくれると期待して。
「見たわよね、宝石と石板」
「それは見たよ」
「だったら解るでしょう、胸に手を当てれば」
促されるまま、胸を圧す。
宝石とは。
石板とは。
その穴埋めに収まる答えをクオは既に持っていて。ずっと、それらこそが彼女の命を成り立たせている全てだったのに。
漸く、それを理解した。
「だけど、悪くない答えでしょう?」
クオの表情から察して、そんな風に言葉を掛ける。
事実互いに、春先の風を浴びたように穏やかな気持ちだった。
「しかし驚いたわね。まさか、最後の一文字が貴女に聞こえていなかっただなんて」
一つが欠けて、
もう彼女のことも、昔のようには呼べなくなってしまった。
「でも、元気でいてくれてよかった」
これほどの僥倖が他にあるだろうか。
嘗て命を差し出してでも救おうとしたもの、その姿をこうして視界に収めることが出来ているのだから。
「ねぇ、その…さ」
「あら、どうしたの?」
キュウビはその事実だけで満足していた。
しかしクオには一つ、疑問があるようだ。
尋ねにくいことなのか少しはにかみながら、クオはその質問を投げかけた。
「クオに名前を付けてくれたってことは……キュウビがクオのお母さん、ってことなんだよね?」
「えっ?」
てんで予想外。
軽く裏返る声。
「えへへ…♪」
微笑むクオの視線が刺さる。
名付け親、と言えばそうだが。
母親と見做される用意を彼女はしたことがなかった。
「じょ、冗談よね? 私、そんな…」
事実だけを述べるならば、キュウビは彼を襲ったことがある。
しかし、その先について考えるとなると。
まあ色々と越えるべき壁があって、それを乗り越えられたとは言えない状態であることもまた事実。
つまりクオによるこの不意打ちは、キュウビの心を大きく揺さぶったのである。
「お、おほんっ!」
態とらしい咳払い。
今すぐキュウビの顔を覗き込めば、今わの際に真っ赤なものが見られるだろう。
「とにかく、もう疑問に思うことがないならこれで終わりにするわ! いいっ!?」
「い、いいけど…どうしたの?」
突然に態度がキツくなったキュウビの言動にクオは当惑する。
「…なんでもない」
実のところ、クオにとってのお母さんという呼び名はキュウビが思っているほど特別な意味を持っている訳ではない。
ただ単に他に当て嵌まる言葉を当時の彼女が持ち合わせておらず、友達としてよく遊び相手になっていたダチョウから”これが妥当ではないか”と提案されたものを今でも使っているに過ぎないのである。
―――そう、なのだが。
それを問い質すことも釈明することも、お互いの認識の相違が故に難しいところである。
結局、追加の質問も無いということでキュウビはそそくさと部屋を去っていった。
「変なの…」
大きな疑問は解消されたものの、小さな困惑が舌先に残る。
そんな、微妙に煮え切らない答え合わせの朝だった。
§
「ただいま~……で、いいのかな」
「あっ、ソウジュ!」
そしてお昼過ぎ。
二人との小さな冒険を終えて、僕は宿に帰還した。
部屋に入る前からクオは扉の前で待っていて、姿がハッキリと瞬間にがっちりと身体を捕らえられたかと思うと、あれよあれよという間にふかふかの座布団の上に座らされていた。
「話は、キュウビから聞いたよ」
語気は強いが、表情こそ安穏。
それほど怒っている訳ではなさそう。
「ごめんね、寝てる間に出掛けちゃって」
「…別にいいけど」
どちらかと言えば、拗ねているという表現の方が正しそう。
「変なことされてないよね?」
「安心して。ナトラが上手にやってくれたんだよ」
目を閉じてその時の情景を思い出す。
さりげなく、しかし確実に僕とシェラの間に入り、程よい距離感をキープしてくれていたナトラ。シェラに対して悪感情はないけど、クオのことを思うとやはりその方が安心できた。
おかげで今、クオが僕の身体をくんくんと嗅いで変な匂いが付いていないか確かめているが、安心して身を任せることが出来る。
そんなことをしている間にも、僕は彼女から借りてきた戦利品を収納から取り出すのである。
「それ、石板?」
「シェラと一緒に取りに行ったお宝がこれだったんだ」
お宝の気配がする地面を掘り起こしてみたら、この石板が土の中からひょっこりと顔を見せた。僕はそれを見て、シェラに少し貸してほしいと頼んだのだ。
星座の石板であることは直ぐに分かった。
ただ、シェラの宝物だから持っていくことも出来ないし、一先ず輝きの中身だけは確かめておこうと考えた次第だ。
貸してくれない可能性も考えたけれど、頼めばあっさり許してくれた。
有難いけれど、シェラの頬が仄かに赤らんでいたのが怖かった。
「ねぇねぇ、どの星座だったの?」
「それがまだなんだ。これから調べようと思う」
久しぶりに鏡を使い、その力を引き出すためにあの石板も手に握る。
「
そうして活性化した鏡の上に調べたい石板を置けば、僕はその中身を読み取ることが出来た。
空から直感が下りてくるように、一つの言葉が頭に浮かぶ。
「―――帆座?」
(この名前、何処かで聞いたような気が……あっ!)
瞬間、カントーでエルと交わした会話を思い出す。
『かつてのアルゴ座は四つの星座に分割され、今でもそれらは船の一部を表す星座として夜空で輝いています』
『
分割されたアルゴ座の、四分の一。
それが今、僕の手中に存在しているこの石板だ。
「……案外、とんでもない物だったなあ」
様々な未来の想像が瞼のシアターに映される。
女王はこれを狙うだろうか。
アルゴ座の完成まで残りは幾つだろうか。
これを、シェラに持たせていて平気なのだろうか。
……噂をすれば影、とは少し違うものの。
ここで丁度、その身を案じていた人物の声が部屋の外から聞こえてきた。
「ソウジュくーん!」
「シェラだ。石板を取りに来たみたい」
彼女の訪問をよく思わないクオは頬を膨らませる。
そんな彼女を宥めてシェラと付き添いのナトラを部屋に招き入れると、やはり近い距離感のまま会話が始まった。
「どうかな、いいものだった?」
いいもの、か。
実のところは様々な思惑の絡む一品であったが、シェラへの返答は当たり障りのないものに留めておく。
「…うん、すごく珍しいものだった」
「えへへ♪ ボクの直感、すごいでしょ」
嬉しそうにするシェラの笑顔はとても可愛らしい。
もちろんそれを顔に出したら後が怖いのでなるべく真顔を保っておく。
結局、大切なのは平常心だ。
だがふと違和感があって、彼女にそれについて尋ねてみる。
「そういえば、
まあ、嫌な予感はしていた。
聞くところによればホッカイへの引っ越しも本気らしいし、シェラが全身全霊の行動力を発揮したらナトラでも止められないだろう。
それで、今度は何なのだろうか。
クオが怒らないものでありますように。
―――尤も、シェラがそれを気遣う道理はないが。
「お泊りしに来たんだよ?」
「…ここに?」
「うんっ♪」
僕の問いに答えながら、シェラは床に置いた荷物を開けて整理を始める。
まるで自分の家にいるような彼女の振る舞いが僕の感覚を狂わせ、もう何を言っていいか分からなくなってしまった。
「悪いなソウジュ。シェラがやるって聞かなくてさ」
少し遠慮がちにナトラが詫びている。
だけど、これはクオが許さないだろう。
ピリリと痺れるような緊張感と共に彼女を見ると、ジト~っとした視線を向けられる。
「人気だね、ソウジュは」
「あはは…」
不服だけど、追い払うのもどうかと思う。
そんな心情がクオの声色から見て取れた。
ここは僕がそっとフォローして静かに収めておこう。
(もちろん、一番はクオだよ)
(…よろしい)
わしゃわしゃと彼女の髪を乱せば、甘い香りが鼻を透き通る。
「よし、できあがりっ!」
シェラのご機嫌な声が響く。
見ればいつの間に部屋のインテリアが乗っ取られていた。
……片付けが大変そうだ。
そんなことを考えていると、彼女が目の前にやってきて言った。
「ソウジュ君、ご飯はまだ食べてないよね?」
「まあ、そうだけど」
「ボクいいとこ知ってるの、行こっ!」
手首を掴まれ、再び誘拐の運び。
しかし今度は横から別の手が伸びて、シェラをこの場に引き止めた。
「そんなにいい場所なんだ、クオも楽しみだなぁ」
行間に自分もついて行くことを確かに記して、僕ですら滅多に見ないほどの満面の笑みを顔に貼り付けたクオがシェラをグイっと引っ張った。
しかしシェラは尚も、ニコニコと微笑むだけ。
「……おー、こわ」
ナトラの素直な一言が、張った空気にコトリと落ちた。
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