第百六十節 『久遠』の始原
空虚な生活に生えた金色の花。
すぐ横の座布団に『キツネ』を載せてキュウビは呟く。
『まったく、何なんでしょうね』
謎の宝石と石板の輝きを取り込んで生まれたセルリアン。
それが彼女に対して一旦下した結論である。
だが、普通のセルリアンとは何かが違っていた。
『ほら、ご飯よ』
キュウビがジャパリまんを半分に割って彼女に差し出すと、ゲル状の身体を少し凹ませてぺろりと一口に平らげてしまう。
『いい子ね』
顔の前に手を垂らせば、ぷにぷにの身体が頬擦るようにくっつく。
セルリアンにしては珍しくも襲い掛かってくるようなことは一切なく、こうして食事を与えてやればとても素直にキュウビの言うことを聞いてくれる。
それを見れば溜め息。
キュウビの心には複雑な感情が芽生えていた。
『みんな、貴女のように大人しければ……』
つい先日までキュウビはパークの各地で、無数のセルリアンと長らくに渡る戦いを繰り広げていた。
恐ろしい武器を持つモノ。
堅牢な装甲を備えたモノ。
悪意に満ちた罠を仕掛けるモノ。
どれも、一歩間違えば取り返しのつかない犠牲を生み出すような怪物で、絶え間ない緊張に長寿である彼女もかなり神経を擦り減らしていた。
―――そこにダメ押しの、離別。
キュウビの生は、一瞬のうちに意味を失った。
自分の所為で、彼にその選択をさせてしまったという後悔さえ募る。
目に映る色彩は雪のように伽藍堂。
もしも他人の心を覗き込める誰かがいるのなら、今のキュウビがまだ抜け殻になっていないことを奇跡に思うことだろう。
だが何ら不思議ではない。
単にそれは、自分が世話を見てやるべき存在が其処にいるから。
だからキュウビは自我を保っている。
あらゆる神獣の追跡から身を晦まし、かつてヒサビと時を共にしたホッカイの秘密の住処に逃げてきた甲斐も、これならあったというものである。
『きっと、そうよね』
彼女はヒサビの最後の贈り物。
いつしかキュウビはそう考えるようになっていた。
新たな世界の全て、それが彼女だった。
となれば与える名前も、自ずとキュウビの抱える執着を反映することになる。
『おいでなさい、クオン』
今日もキュウビはその名を呼ぶ。
末永くこの子が元気でいられるように。そしてヒサビの最後の贈り物が、永遠に失くなってしまわないように。
この子が例え言葉を理解できなかったとしても、想いは必ず言霊に宿ると信じて。
『可愛い子ね』
もふもふと、もちもちと、それらが微妙に混ざり合った感触を手に感じながら、膝の上に寝転がったクオンを寝かしつける。
お昼ごはんの後は毎日、こんな風にしてクオンはお昼寝をしているのだ。
すやすやと微睡む彼女の姿を間近で見ながら、安易に動けなくなったキュウビも昼の陽気に一定のリズムを打つ。
こくり、こくり。
空が赤くなるまで怠惰に過ごし、夕飯を食べたらぼちぼち眠りに就く。
夜明けの日差しで目を覚ましたら、クオンと共に雪の中を散歩してお腹が空いたら家に戻って朝の食事を摂る。
信じられないほど起伏のない生活で、それでいてキュウビは不思議と満ち足りていた。
いいや、そうではなく。
あらゆる望みがセルリアンの女王と共にキョウシュウに封じられてしまった彼女にとって、もはやこれ以外の何も魅力的ではなくなってしまったのだろう。
『はい、お口を開けて』
大きく開いたクオンの口に、優しくジャパリまんを入れる。
座布団は三つ。
いつかその全てに持ち主ができたら。
その日まで何も変わらず生きていくのだろうと彼女は思った。
―――だから、考えもしなかっただろう。
まさか、逆向きに進むことになるなど。
とある日。
ちょうど仄かに気温が高まってくる頃、所謂”春眠暁を覚えず”の呪いに掛かり、彼女は珍しく寝坊をしてしまった。
『あら…?』
慌てて起きてみれば、クオンの姿は家の何処にも見当たらない。
玄関を出て外を見てみると、とても小さな新しい足跡が敷地の外へ向かって小刻みに残されていた。
キュウビは一瞬のみ考える。
きっと今朝自分を起こしてもびくともしなかったので、普段の習慣通りに散歩に行ってしまったのだろうと。
『……ダメよ、心配だわ』
ヒサビのために決めたこの家の立地はかなり良く、セルリアンも滅多に近づかない穏やかな土地だ。
しかし、雪山だ。
何が起こるか分からない。
どこかで迷子になる前に探し出して、残りの散歩を一緒にしてから帰ってこよう。
そうと決めたら、急いで家を出た。
小さな足跡を見失ってしまわないよう雪に目を凝らして、いつもの散歩道を景色に目もくれずに過ぎて行く。
『……ん?』
そうしてクオンの冒険を辿る途中、ふとその旅路は途切れてしまった。
突然、周辺の雪が大きく抉られたかと思えば、奇妙な形のクレーターがぽつぽつと続くばかりになってしまったのである。
『まさか…』
嫌な予感が過った。
キュウビは瞬時に感覚を研ぎ澄ませ、空気中のサンドスターの様子を肌で読み取る。
ああ、確かにここは濃い。
そして流れが、あの方に向いている。
もはや余計な思考を挟む間もなくキュウビは飛び出し、攻撃の用意を構えてサンドスターの流れる先へと飛び込んだ。
『クオンッ!』
『…!?』
セルリアンは一秒ともたない。
狐火が吹けば瞬く間に露と融ける。
その後に残るのは、ぐったりと雪の中に横たわるクオンの身体だけだった。
キュウビは彼女を持ち上げ、冷たい風が当たらないように優しく抱えながら全速力で家へと飛び帰った。
『大丈夫、すぐ良くなるから…!』
座布団の上にクオンをそっと寝かせて、慌てて台所に駆け込んでいく。
薬草か、粥か。
迷いに固まる。
気付きが脳を衝く。
セルリアンに、フレンズに対する治療が効くのだろうか。
瞬時に心に広がる焦燥を抑え込むようにして、キュウビは手が空いたままクオンの所へと戻っていくのだった。
『クオン…』
彼女は座布団に腰を下ろして、隣に眠るクオンを撫でる。
まるで普段と変わらないかのような光景。
朝の冷たい爽やかな空気が、重く沈んでいることを除けば。
『治癒の術、貴女には効くのかしらね』
身体に決して負担を与えてしまわないよう、弱弱しい妖力をクオンに注ぎ込んで経過を観察する。淡い光は彼女の身体をそっと包み込むが、項垂れたまま元気が戻る気配はない。
だが、ピクリとは動いた。
その僅かな身動ぎさえもキュウビには希望の光として映り、彼女の心に波風を立てて荒立たせる。
痛ましい表情で柔らかく抱えて、名前を口にする。
『……クオン』
その呼び掛けに、とうとう彼女が応えた。
『…っ!』
クオンが首を上げて、キュウビの目をじっと見つめる。
身体の中の揺らぐ輝きが儚く、今にも消えてしまいそうだ。
そしてキュウビは思い出すことになる。
どれほど温厚な性格を示していても、結局のところクオンはセルリアンだったということを。
『あ、貴女…』
ぺたり、ぺちゃり。
かつてキツネのようであった身体の輪郭が崩れて、ドロドロの粘液となって広がってキュウビの皮膚を覆い隠さんとする。
つまり、クオンはキュウビを自らの内側に取り込もうとしているのだ、何故ならばセルリアンは世界の輝きを奪って身体を創って、その中に在る想いを再現して生きていくから。
先程負った傷を癒すため、性格を本能が凌駕した。
抗うことの出来ない衝動が彼女に対して牙を剥かせた。
喰われる。
喰われる。
視界が水に歪む。
それを、潔しとする。
『……貴女が、生きていてくれるなら』
クオンが死ぬよりマシだと思った。
その後のことよりこの瞬間、離別を目の当たりにしたくなかった。
たとえ決断が故に自分が尽きるとしても。
いよいよ何も見えなくなる。
『でも、他のフレンズは襲っちゃダメよ?』
もう頭かも分からない柔らかい部分を撫でて、まるで母親のように言葉を掛けて、巣立ちを惜しむかのように送り出す。
記憶さえも揺蕩って。
『お願い、元気でいてね。クオ―――――』
――――――
――――
――
「―――あれ?」
座布団はしばらくの間、二つ余ることになった。
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