第百五十八節 繋がりの在処
シェラたちと別れた後。
僕とクオは、特に寄り道をすることもなく宿に直帰した。何処かに寄っておやつでも買おうかなと考えたけれど、クオが乗り気でなかったからやめた。
受付のラッキービーストから鍵を受け取って、部屋に入って床に布団を敷いて、それから……
……それからは、静かな時間が続いた。
普段は休む暇もないくらい絶え間なく僕にじゃれついてくるクオが、この日ばかりは窓からの夜景を眺めて溜め息を吐くことに終始していた。
「クオ…」
お菓子に食いつかなかった時から解っていたけれど、彼女は落ち込んでいる。
怒っているとか。
憎たらしいとか。
そういった感情ではなく。
とても落ち着いた心持で、気を落としている。
「ねぇクオ、ご飯が来たよ」
「うん…」
ラッキービーストが夕食を届けてくれた。
もくもくと柔らかい湯気の立ち昇る素朴な定食だった。
それを見て僕の気分はほんのりと良くなったけれど、クオはそうでもないようだった。
これは重症だ。
いざ食べ物を目の前にしても回復の兆しがないなんて、よほど今日の出来事が堪えたのだとみえる。
「いただきます…」
それでも、お腹には収めてくれた。
それだけで少しは安心できた。
食べ終わった後の食器をラッキービーストたちが片づけに来てくれた時、頭にお盆を乗せながら部屋を出ていく彼らとすれ違うようにしてクオは僕の胸の中へと飛び込んだ。
「…クオ?」
「ん~、んん~~っ!」
唸り声を上げながらお腹に頭を擦りつける。
僕の呼びかけにさえ、言葉の代わりに鳴き声が返事を務めた。
一瞬の間、クオの顔が僕から離れた隙を突いて、彼女の身体をぎゅっと抱き寄せる。
「…っ!」
一身に彼女の温もりを感じながら頭を撫でる。
これ以外の慰めは機能しないのだと、固く縛られた彼女の口が喋っていた。
二人の間に燻る熱気と窓の隙間から忍び込んだ黒い寒風が身体の両側を挟み込んで、背後の温度から逃れようとすればするほどに近づいて目元を温める、そんなクオの白みそうな吐息が目を眩ませる。
「……ソウジュ」
ぐわんと、視界が転倒する。
「えへへ、かわいい…♥」
逆光で影の掛かった微笑。
恍惚に揺らぐ瞳は捕食者のそれだ。
心中の暗部に渦巻く感情が樽の隙間から漏れるように僕の頬を濡らし、それは今にも限度を超えて溢れようとしている。
今に至るまでクオは言葉で感情を表現していない。
しかしその行動は何より確かに、彼女が抱える恐れを表出していた。
「……」
もう十分に伝わった。
だから、次は僕がどうするかを決める番だ。
とはいえ何をする訳でもない。
ただ静かに、身を投げ出すようにして目を閉じる。
クオがこれから僕にしようとしていることを躊躇わないように。
荒い吐息が鼻先をつつく。
指を絡めて手を握ってくる。
「……?」
なのに、その先がない。
僕は不思議に思って目を開けた。
「ソウ、ジュ…」
クオは相変わらず僕に覆い被さったままこちらを見下ろして、動こうとしない。
あと一歩のところにまで迫った決断の間際。
僕をじっと見つめる瞳の中には、迷いの色彩が揺らいでいた。
―――思い出せば、ずっとこうだった。
僕がソウジュとして生まれた瞬間。
クオに『ふたごになろう』と言われてその通りにし、『旅に出よう』と言われてそれに従った。
旅の間も紆余曲折、様々な出来事があったけど本質は変わらない。
僕が何かをする前にはクオの姿があって。
僕が何かを目指す先にもクオがそこにいた。
「ソウジュは、これでいいの…?」
だから今になって、クオは迷っている。
名前を付けた。
生き方を決めた。
好みを定めた。
他を排した。
ご飯を作った。
好きな食べ物を与えた。
輝きを分けた。
身体を塗り潰した。
―――そして今、最後の一線を越えようとしている。
これさえもクオが決断し、抱える想いの儘に押し通してしまえば、いよいよ僕は彼女の物と他に云い様がない。
始まりからその終わりまで。
そうであれと願った姿のままである人形。
(……僕は、それでも好いと思った)
けれど。
屹度。
無責任と形容されるべき行いなのだろう。
彼女の愛情と執着に身を委ねて意志を放棄するというのは。
「クオ」
彼女の瞳は暗い。
迷いながらも尚、その底なし沼のような愛は健在で。
それでも恐れている。
僕が彼女の知る範囲に収まって、完全に手に入れられてしまうことを。
嗚呼。
―――とても、可愛い子だ。
僕は腕を伸ばす。
「あっ…」
すると彼女はとても素直に、僕に身体を預けた。
少し動けば唇が触れあってしまいそうなくらい顔が近づいて、彼女の柔らかい身体がごく僅かな余りもなく僕の腕の中に収まる。
「んっ…」
どろどろに融けてしまいそうな熱交換。
口の端からびちゃびちゃに唾液が零れて、互いに相手を感じようと奥へ奥へと押し付け合う。
そうしてはち切れそうな衝動に身動ぎをして。
僕はクオの身体がずり落ちてしまわないよう、より強く上に乗った彼女を抱えた。
(すごく、軽い…)
本能が刺激されて、無意識のうちに力が出てしまったのだろうか。
それとも、それほどに僕に委ねてくれているのだろうか。
抱え直した彼女の体躯は小さく、御しやすかった。
―――屹度、今ならどうとでもできる。
何でも。
どんなことでも。
それに気付いた瞬間に、タガが外れた。
「クオ…っ!」
ごろんと、寝返る。
クオを抱えて横向きに。
そうすれば僕たちの上下は入れ替わって、僕が彼女を床に組み伏せる形になった。
視界が熱情に歪むほどの征服感。
僕の影が掛かるクオを見ていると、堪えていられる気がしない。
「…ソウジュ」
続きを期待するように。
頬がふわっと赤らんだ。
「クオ」
今、言おう。
僕が。
僕から。
その始まりが何処に在ろうと。
誰の望みだとしても。
彼女の為に。
「大好き、愛してる」
「…クオも、愛してるよ」
……これからは。
ただ、夜が長いだけだ。
―――――――――
――――――
―――
§
明くる朝。
昨夜の遅さに関わりなくいつもの時間に目を覚ました僕は、隣でまだぐっすりと眠っているクオを起こさないようにそっと布団を抜け出して、太陽の光を浴びに外まで出てきた。
頬いっぱいに海よりの風を浴びていると、隣から声が聞こえる。
「おはよう」
「…あ、キュウビ。昨日ぶりだね」
そう声を返すと、彼女は肩を竦めて微笑む。
「今朝はどうかした?」
「クオに伝えたい話があって、ね」
「そうなんだ。でも、あの子はまだ寝てるよ」
「……あら、そうなのね」
するとキュウビが僕の方をじろりと見る。
何かを見透かされそうで怖くなり、思わず話題を逸らした。
「その、話ってさ……あの時の名前のこと?」
―――クオン。
キュウビはあの時そう口にした。
クオとは一文字違いだけれど、やはり関わりがあるのだろうか。
僕の言葉を否定せず、キュウビは続けた。
「必ず伝えておかなければならないの。これはあの子の……生まれにも関わる話だから」
「生まれって、まさか…」
クオにも特別な秘密がある、ということ。
いつかあの子が言っていた”お母さん”なる未知の存在も、もしも実在するならこの件とは深い関係がある筈。
しかしそれを問う時間は与えられなかった。
「ソウジュ君っ」
つい昨日に初めて聞いた。
にも拘らず、妙な聞き馴染みがある。
そんなシェラの声に名前を呼ばれてしまったから。
「シェラ、ナトラ」
「よっ、昨日はよく眠れた?」
「あはは…あんまりかな…」
「まあ、色々あったからなぁ」
本当に色々とあり、ナトラが知っている以上に昨日は長かった。
「それで、今日は何の用?」
といっても、ナトラに尋ねてもあまり意味は無さそう。
僕に用事があるのは大方シェラだろうと見当がつく。
「お宝の気配、また感じたんだ」
「シェラのやつ、お前と一緒に取りに行きたいんだとさ」
「そう、今すぐに」
ぐいぐいと、シェラは僕の腕を引っ張る。
なるほど。
昨日耳にした
シェラと一緒に……か。
それでも大丈夫か確かめておかないとならないが、そろそろあの子を起こしても大丈夫かな。
まあ、一度部屋まで行ってみよう。
「ちょっと待ってて、クオに聞いてから――」
「行けばいいじゃない」
シェラの手を一旦離してもらって宿の中へ戻ろうとすると、入れ替わるように今度はキュウビに引き止められてしまう。
気にするなと言うつもりなのか。
けれど、あの子に確かめない限りはどうにもならない。
「ほら、キュウビの話もあるんだよね?」
そう尋ねると、キュウビは首を振って言った。
「大事なことだから、私の話はクオだけに話すつもりなの。貴方に伝えるかどうかは、あの子が考えて決めること。私がちゃんと言っておくから、貴方は出掛けてて構わないんじゃない?」
それは、まあ。
必ずしも間違った話ではないが。
「まさか、あの子が嫌がらないか心配なの?」
「…うん」
すると彼女の手が頭に伸びて、ぐしゃぐしゃと僕の髪の毛を乱した。
真っ直ぐな視線を向けて、彼女は言う。
「あの子への気持ちに翳りがないなら、堂々としていなさい。それでも不安がるなら年長者として、私がビシッとお説教しておいてあげるから」
堂々、と。
僕にちゃんと出来るだろうか。
不安だけど、やってみないことには分からない。
「……分かった、ありがとう」
「いいのよ」
例え大きな声で言えないような形でも。
あの子との確かな繋がりが、僕に少しばかりの勇気をくれた。
しっかりと自分を持って毅然とした態度をとる。
必要以上にシェラがくっついてきたら、ナトラに押し付けて逃げてしまうとか。
……まあ、それくらいの気概でいよう。
「よし、決まりってこったな!」
「ソウジュ君、行こ♪」
「…うん、行こうか」
二人について行き、宿を離れる。
やがて曲がり角に差し掛かり、振り返っても姿の見えなくなる間際。
「―――私も、しっかりしないとね」
微かな風に乗ったキュウビの声が、耳に残った。
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