第百五十六節 幸運の白羊
「ふわぁ~…」
もこもこと膨らんだ地上の雲。
芝生と一緒にお日さまを一身に浴びて寝転がる。
といっても、彼女は目をぱっちりと開けて、はるか上の海を流れる本物の雲を眺めて過ごしていた。この頃の風は暖かくなってきて、ちょっとでも気を抜いていると直ぐに瞼が落ち切ってしまうから。
つい昨日など、横から差す眩い夕焼けの光を受けて初めて、彼女はついぞ目を覚ますことができた。当然ながら家に着く頃にはしっかり月が浮かんでいて、心配性のナトラの小言を長々と聞く羽目になった。
だからこそ。
途中で意識を手放してしまわないように、今日は起き続ける努力をしている。
それでものんびりと振舞うこと自体をやめようとしないのは、”そういう性分だから”と説明するしかないのだろう。
シェラは穏やかな性格だ。
マイペース。
天然。
ゆるふわ系。
それら性質を表す言葉は彼女の為に存在していると言って過言ではない。
八百屋さんに野菜を買いに行ったかと思えばそこら辺の野草を引っこ抜いて持ち帰り、雨上がりの朝に川へ水浴びをしに行けば、虹を追いかけ始めた末に水ではなく泥を浴びた姿で現れる。
ベッドに化けたセルリアンの上で平気な顔をして眠り、何故かセルリアンの側もベッドとしての責務を全うする。
ナトラはそれを『シェラに当てられた』と表現し、フレンズかセルリアンかを問わず彼女の周囲にいる人物は物事に対する判断力が一様に低下する傾向にある。
当のシェラも例外ではないし、無敵の存在という訳でもない。
それ故に致し方ないが、ナトラはシェラのことをずっと気に掛けており、周囲のフレンズからは過保護気味だと思われている。
そしてシェラはと言えば。
昨夜に沢山注意を受けたにも拘らず。
何も言わずに今朝の外出をしてしまっている。
それを今、思い出したようだ。
「…ま、いっかぁ」
諭そうとする勿れ。
これが彼女だ。
むくりと身を起こしたシェラは両の手を組んで腕を伸ばして、全身をピンと伸ばす。ずっと動かず寝転んでいれば関節が固まって、体も鈍ってしまうというもの。朝の運動はやはり必要だ。
……太陽は高いが、彼女が朝だと思えば朝なのである。
閑話休題。
そうして一通り筋肉をほぐしたところで、彼女はとある匂いを感じた。
くんくん。
潮風ではない。
絶対にあの匂いだ。
「久しぶりに、来た」
彼女は元気よく立ち上がる。
それまでの儚げな雰囲気は露と消え失せ、そこにいたのは快活な少女だった。
「―――お宝!」
まるで人が変わったように、大きな声を上げて走り出す。
すると、先程まで彼女が寝ていた芝生の上に綺麗な石ころが転がる。
これはシェラがナトラへのお土産にするためにそこの川端から逸品を一つ、よく選りすぐって持ってきた物なのだが、ぎゅっと握りしめて空を眺めている間にどうして持ってきたか忘れてしまったようだ。
三つ子の魂百まで。
あといくつ寝ても、きっとこのままなのだろう。
§
「~~♪」
シェラにはとある力があった。
彼女が意識して制御できる物ではなく、その力の有無で生活が一変するという訳でもないため普段は特に気にも留めていない、謂わば一種の超能力。
第六感と言い換えてもいい。
それは”お宝”への優れた嗅覚だ。
近くにシェラの欲しい物、もしくは目にすれば絶対に欲しがるであろう物があると、頭に渦巻くぐるぐるの角がその気配をキャッチして、彼女の脳裏に確信を伴った直感を残していくのだ。
この”お宝”の種類も非常に多岐に渡り、ジャパリゴールドの山が土の中から出てくることもあれば、お腹が空いた夜中に木の実を偶然見つけたり、森の中ではぐれたナトラの居場所を探し当てたこともある。
だがどんな物が見つかろうと、シェラは一目見た瞬間にそれこそが自分の探し求めていた”お宝”であると理解する。
そこまで含め、彼女の力であった。
「今度はどんなものだろう…?」
何度も味わった胸の高揚。
プレゼントのリボンを解く瞬間のドキドキ。
けして飽きることのないその感覚は、どうしてか今日はより一層強く胸を締め付けてくる。臨界点を突破したときめきはある種の苦しさへと姿を変えるが、それすらも何処か心地よかった。
気配はどんどん近づいてくる。
気付けば彼女は、自分のよく知る場所に辿り着いていた。
「なんだか、懐かしい…」
一面が花に包まれた丘。
過去にも、ここに来たことがある。
今と全く同じ理由で、直感に従って”お宝”を探し求めて。
―――そこで見つけたものはシェラにとって、非常に特別な意味を持った。
思い出すと無意識に目が潤む。
幸せな記憶が余計に心に牙を剥く。
それでも、気配はここにある。
丘の横に空いた穴の奥、その洞窟の中に。
まったく同じ場所に。
「っ…」
それは初めてのこと。
この先に望むものがあると知りながら、彼女は進むのを躊躇った。
プレゼントを縛るリボンは最後の玉結びを残して解かれてしまったというのに、シェラはその結び目に手を掛けることが出来なかった。
なくしてしまう気がした。
わすれてしまう気がした。
こわれてしまう気がした。
こわくてすぐに気が触れた。
「どう、しよう…」
少し前まで呑気に寝ていた彼女からは。
いつも朗らかに笑っている彼女からは。
到底考えられない姿だった。
しかしその屈託のない性格が金剛石のように硬い心の強さからではなく、単なる幸運に因る無瑕の結果として生まれたものであるならば、彼女が初めて負った心の瑕は間違いなく記憶に深い影を残すことだろう。
そして彼女はその瑕を受けた時、泣けなかった。
悲愴ではなく、ただの淋しさだと思っていたから。
せめて形が違っていれば。
突然の消失ではなくもっと劇的な別れなら、きっと気の済むまで泣き腫らして先に進むことが出来ていた。だがそうではなかったから……傷だと思っていなかった傷は、いつまでも燻って奥底に隠れていた。
彼女はまだ自覚していない。
気付かぬままに、直感は虫の知らせへと変貌していて。
「あ、シェラ!」
「……ナトラ」
心の準備など出来ていないのに、向こうがその瞬間の訪れを待ってくれなかった。
「やっと見つけた。出かけるなら声ぐらい掛けてからにしてよ」
ナトラが出てきた。
予想外の人物に、声の歯切れが悪くなる。
「そう……だよね、ごめん」
「…ねえ、どうしたのさ? なんからしくないぞ」
ナトラに肩を叩かれながら、シェラは口に出し難い安堵の気持ちを胸に抱いた。現れたのが彼女で良かったと。彼女もシェラにとって大切な友人で、”宝物”としてふさわしい人物だから。
これまで通りだ。
今日の”宝物”は波風を立てず、普段の日常にまた戻る。
この予感も全て悪い白昼夢のようなものだったんだ。
―――それこそ都合のいい妄想は、一目で壊れた。
「……あっ」
ナトラの奥に立っていた少年に、シェラの視線は釘付けになる。
洞窟の暗がりに視界を遮られたとしても、そのシルエットの正体が解らない筈が彼女には全くなくて。
名前を呼んでしまう。
「ストール、君?」
ぴくり。
少年の体が跳ねた。
それを見てシェラは確信した。
全て吹き飛んだ。
不安も、後悔も。
鏡を見せてやりたいくらい満ち足りた微笑みで顔を歪めて、困ったような目で自分を見つめ返してくる少年に、シェラは言った。
「久しぶり。ボクのこと、覚えてる?」
少女は期待する。
少年の返答を。
「……」
だが返ってきたのはどんな言葉でもなく、洞窟の岩肌へと目を逸らしながら放たれた何よりも雄弁な沈黙であった。
シェラは理解した。
その上で、赦せなかった。
「見て」
すると自分でも信じられないくらい威圧的な声が出てきた。
心の奥底から何かが溢れて自分を乗っ取ってしまうような気がした。
……もしも彼女がこわれたとしたら、それはこの時だった。
「目、逸らさないで」
彼の頭を両手で掴んで、力づくでこちらを向かせた。
少年は今度こそしっかりと自分を見つめる。
困惑。
恐怖。
引け目。
けして良いものではない感情を坩堝で混ぜこぜにした表情の中、シェラがかつて彼の中に見た優しさが未だその眼差しに面影を残している。
「そっか」
それさえあればシェラには十分だった。
「やっぱり君は、ボクの宝物なんだねぇ」
「わっ…!?」
シェラは両腕で彼を包み込んだ。
抱擁など、離別の前には一度だってしなかったこと。
なのに彼女を突き動かす感情は、あらゆる心理的障壁の全てをものともせずに線の向こうへと身体を突き飛ばす。
「ふふっ、匂い、あんまり変わってないねぇ」
懐かしい匂いと知らない匂い。
嗅覚を通して彼の体験した全てが彼女の記憶として脳みそに入ってくるような感覚でシェラの意識は蕩けた。
耳から、声が聞こえる。
「……シェラ、だよね」
「そうだよぉ。やっぱり忘れちゃったんだ?」
「…うん」
「そっかぁ」
改めて明言されると、やはり淋しいものがある。
「大丈夫だよぉ。思い出は全部、ボクの中にあるから」
「でも」
彼はシェラの身体を優しく引き離し、しっかりと彼女を見つめて言った。
「僕の名前はソウジュ。もう、ストールじゃないんだ」
今日、シェラは果たして何度、貌を変えるのだろう。
ただ最後のそれは、とても物静かな変化であった。
「ナトラ」
「あぁ、どうした?」
「ボクたちのおうち、もう連れて行った?」
「まあな」
凍っていただけだった。
「……ソウジュ君」
きっとその感情は最初から存在していて、あの離別を切欠に行き場を無くしたが故に仕舞い込んでいたのだ。
もう、そんな必要はない。
「いいよ」
「…いいって、何が?」
―――シェラは幸運なフレンズだ。
「まだ忘れててもいい、ってこと」
―――彼女には素晴らしい力があって、心の底から求める”宝物”を必ず見つけ出すことができる。
「君もボクのこと、新しく覚えてくれると嬉しいなぁ」
―――それがたとえ、どんなものであろうと。
「ボクの、『
―――シェラは二度と手を離さない。
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