第百五十四節 覚えのない足跡

 綿雲が揺蕩う青い天井。

 水平線を挟んで。

 濁りのない蒼が揺らぐ床。


 僕に飛びつく様に背後に向かって駆け抜けていく爽やかな潮風。

 それは僕のみならず、端麗な彼女の毛並みも揺らす。


「海だーーっ!」


 はしゃぐクオの声が響いた。

 熱を帯びた砂浜は足元で綻んだ。


 ドレスのような一繋ぎの水着を身に着けたクオは、膝でスカートの裾を蹴飛ばしながら波の中へと走ってゆく。


 バシャバシャと、遠くで影が舞い踊る。


「元気ねぇ」

「あの子らしいでしょ?」

「…その通りね」


 パラソルの影でビーチチェアに腰掛け、何処からか持ってきたカラフルなドリンクを啜りながら、キュウビは遠くのクオを見て微笑む。


 何を隠そう、こうして海水浴に来られたのはキュウビのお陰だ。


 ビーチの存在を教えてくれて。

 蔓延っていたセルリアンの掃除もして。

 水着を扱うお店まで案内してくれた。


 至れり尽くせり、とは正にこのこと。


「すごいな、こんな場所があるなんて知らなかったよ」

「ええ、大いに感謝なさい」


 ついでに曰く、昔に来たことがあってこのビーチを覚えていたらしい。

 誰かとの思い出の場所、なのだろうか。


 それとなく尋ねてみても、話を逸らされるだけだった。


「で、キュウビは行かないんだ?」

「嫌よ、折角整えた毛並みが濡れて乱れてしまうもの」


 面白いことを言う。

 しっかり水着まで着ておきながら。


「……それを気にするかはフレンズ次第だけど、ね」


 手元のドリンクを飲み終えると、キュウビはサングラスを掛けて海の方を徐に指で示した。


 彼女の言葉と相まって、その指が向く先は何となく察せられた。

 また強くなった潮風に乗って元気な声が飛んでくる。


「ソウジュ、こっちこっち!」

「うん、すぐ行くよ~!」


 これ以上キュウビと話し込んでると怒られちゃうかな。


「じゃ」

「行ってらっしゃい」


 大きなパラソルの影から外れる。

 鮮やかな砂は熱く、足裏を鈍く突き刺す。

 気のせいか此処では太陽も強烈だ。


 そんな中でも元気に手を振るクオは、もっとずっと明るい。


「やっと来た!」

「ごめんね、待たせちゃった?」

「…いっぱい待ったよ」


 素直に頬を膨らませたクオ。

 その姿が面白くて、思わず笑みが零れてしまった。


「む、なんで笑うの」

「可愛かったから」


 だから僕も素直に言葉にしてみたら、ぽっと彼女は色づいた。


「……それなら、ゆるす」


 口元を手で隠し、目を横に逸らす。

 その可憐な仕草に僕の顔も熱くなってしまって。


 足首に波が当たる。


「あ、お、泳ぐ?」

「…いいよ」


 お誂え向きとばかりに、身体を冷やすための水はすぐそこにあった。




§




「……ふう、泳いだ泳いだ」


 重たく濡れた砂に足跡を刻みながら、髪の毛を絞って水滴を肩に落とす。背中を包み込むような風が皮膚から湿り気を取り去って、日差しによる暑さも和らげてくれる。


 カラカラの浜辺に暗色を落として進む。

 海を振り返るまでに幾度の波が押して退く。


 僕の来た道をそのままに進むクオだけれど、彼女の足元には誰の跡も残ってはいなかった。


 そんな彼女と言えば、妙に俯いて自分の手をじっと見つめている。


「クオ、何してるの?」

「指がしょっぱい!」


 ……やれやれ。

 何をしているかと思えば。


「海の水だからね。ほら、シャワー浴びに行くよ」

「ええっ!?」


 クオは急に叫びだし、身体に付いた水を全て一瞬のうちに蒸発させるほどの勢いで真っ赤に熱を帯びた。


 そして、もじもじし始める。


「そ、ソウジュ…?」

「どうかした?」

「しゃ、シャワーって……でも、まだお昼だし…あいたっ!?」


 軽くデコピンした。

 クオったら変なこと考えちゃって。


「うぅ、ソウジュ~」


 でも、やっぱりかわいい。


 額を押さえて痛がるクオの濡れた狐耳をそっと撫でてあげながら、泳ぐ前と同じ場所で悠々と過ごしていたキュウビを指して言う。


「いいからほら、キュウビに案内して貰って」

「はーい…」


 ちょっぴり落ち込んだ背中を見送って、僕も気持ちを落ち着ける。


「ええっと、他のシャワーはあったかな…」


 手の甲で陽を遮りつつ辺りを見回していると。



 ―――べたり、背後の足元に何かが落ちた音がする。



「っ!?」


 僕は反射的に振り返った。

 そこには僕より一回り大きい体躯の怪物がひとつ、前かがみになって僕を覗き込んでいた。


「セルリアン」


 キュウビが倒し損ねた分か。

 少し大きいけど、コイツ一体だけなら大した問題じゃない。


 そう考えて懐を探ろうとした手は空を摺り抜けた。


「……そういえば、全部向こうに置いてきたんだった」


 海で泳ぐってのに、鏡も傘も持っている訳にいかない。

 キュウビとクオがいるからと安心して、宿に全部置いてきたんだった。


 ―――どうしよう。

 こんなセルリアン相手に使わされるのは癪だしとても疲れてしまうけれど、一応言霊やりようはある。


 あるいは。

 一旦逃げて助けを求めた方がいいのかな。


「えーいっ!」


 そんな風に悩んでいる一瞬の間に、視界の外から誰かが飛んできてセルリアンをパッカーンとやっつけてしまった。


 影が海に落ち、舞う水しぶき。

 突然のことで唖然とする僕の目の前に、彼女は海の中から現れた。


「キミ、大丈夫?」

「…何ともないよ、ありがとう」


 答えを聞いてほっと安堵し、ニコっと朗らかに少女は笑う。


「わたし、バンドウイルカのドルカ。よろしくね!」




§




 その後、僕も自己紹介をして、軽く色々な話をした。


 ホッカイから旅をしてきたこと。

 クオという狐のフレンズが一緒にいること。

 ここ、ゴコクがこの旅の最後に来た場所であること。


「え~っ、ここには遊びに来たの? それってつまり、ってこと!?」

「確かにそうなるかな」


 パークの外からではないけど。

 歴とした旅の者だ。


「すご~い、こんなの久しぶり!」


 そんな事情とはお構いなく、ドルカにとっては嬉しいことなのだろう。


「ここでみんなと一緒に泳いだり、向こうのステージでショーをやったり……昔は賑やかで楽しかったのに、今は全然なんだ~…」


 ヒトが消えてからどれくらいだろう。

 きっと多くのフレンズは今の日常に慣れた。


 話を聞く限り、ドルカもきっとそうだ。


 それでも。

 仕方ないと理解していても。

 かつてを懐かしむ気持ちを消すことなど出来るはずがない。


「でもでも、同じフレンズのみんながいるからさみしくないよ!」


 その上で、受け入れている。


 そしてヒトに関する話を記録や痕跡などではなく、フレンズの中に残る思い出として耳にすることで、確かに実在したものなのだと実感した。


 恐らくはその所為か。

 あの街がより寂しく思えた。


「ねぇ」


 ドルカの声で現実に戻る。


「ソウジュさん…だっけ? これから一緒に泳ぎに行かない?」

「嬉しいお誘いだけど、ついさっき泳いできたばっかりなんだよね。だから疲れちゃって」

「そっかぁ」


 普段は使わない筋肉を使って、ある意味で新鮮な疲れを感じている。

 これを更に強くするというのは、まあ勘弁願いたい。


「じゃあまた今度、約束ね!」

「うん、わかった」


 今日は無理でも。

 まあそのうちなら。


 そんなことを考えていた僕の背中に、じっとりと熱い何かが密着する。


「ソ・ウ・ジュ?」

「ひゃっ!?」


 吐息交じりの声。

 耳をくすぐる。

 重たく鼓膜を揺らす。


「全然来ないと思ったら、ここで何してるの…?」


 今更、詳しく言うまい。

 クオはとにかく機嫌が悪い。


「あ、この子がクオちゃん?」


 お構いなしのドルカ、こちらに近づいてくる。


「誰、この―――」

「はじめましてっ!」


 クオの手を握る。

 予想外の行動に目を丸くする。

 ドルカは続ける、爛漫に。


「わたし、バンドウイルカのドルカ。そこのソウジュさんからあなたのこと聞いたよ。お話の通り、すっごくかわいいね!」

「そ、ソウジュがそう言ってたの…?」


 手だけではない。

 完全にペースを握った。

 もう僕を問い詰める場合ではない。


 あとはクオについての話が盛り上がり始め、こんな風に接されてしまっては最初の悪感情も潮風に乗って彼方へ。


「あ、これ水着? すごく似合ってるね!」

「えへへ、ありがと」


 にこやかなやり取り。

 平和に終わってよかった。


 一時はまたどうなることかと思ったが、ドルカの裏表のない性格に助けられる形となった。


 天真爛漫といえばクオと似ている。

 ただクオは、機嫌の上下が激しいからね。


 正確に言い表すなら、ホッカイにいた頃のクオと似ている、と言うべきか。もちろんその時のクオの性格も、まだ付き合いが浅くて僕が理解しきれていなかっただけかもしれない。


 だけど。

 どの瞬間のクオも可愛げに溢れていて、大好きだ。


「むぅ…」

「何かあった?」

「ううん、大したことじゃないんだけど。ソウジュさんの顔、なんか見覚えがあるんだよね」

「そうなんだ、でも気の所為だと思うよ」


 僕とドルカは間違いなく初対面だからね。

 大方、昔のお客さんに顔が似ている人がいたとかじゃないだろうか。


「ナルカちゃんとマルカちゃんに聞けば何かわかるかなぁ…」

「その子たちもイルカのフレンズ?」

「うんっ! 二人を見つけられたらソウジュさんとクオちゃんにも紹介してあげるね!」


 イルカにも色々種類が居るんだなあ。

 どんな姿をしているのか会ってみるのが楽しみだ。



「―――おーい、誰かいないのー!?」



 と、遠くから誰かの声が聞こえた。


「あっ、あの声は…」


 その声、ドルカには聞き覚えがあったようだ。

 すぐさまその方へ駆け寄っていく。


 僕たちもそれについて行くと、一人の少女がそこに居た。


「お、ドルカじゃん」

! いったいどうしたの?」

「それがさぁ、シェラがまた勝手にどっか行っちゃって」


 ナトラと呼ばれた彼女は、赤い甲冑のようなゴツゴツした服を着こなす、これまた真っ赤な瞳をしたフレンズだった。その硬派な外見と比較して声や口調は柔らかめで、使う言葉の節々にもあまり気の強そうではない雰囲気が漂っている。


 話を聞く分には誰かを探しているような言動だが、対するドルカの態度には切羽詰まった様子がない。


 むしろ、慌てているナトラを諭そうとしているように見える。


「シェラも一人前のフレンズなんだから、信じてあげようよ」

「そうは言っても、心配だよ」


 ははあ。

 心配しがちな性分なのか。

 気持ちは分からないでもない。


 クオが何も言わずに姿を消したらと思うと、きっと探さずには居られないだろう。


 そんな思いから僕は割と同情的な視線をナトラという少女に向けていたが、とある一瞬に目が合った。


「……ん?」


 それは僕にとって何でもない一瞬で。

 だがナトラにとって、見過ごすことのできない刹那だった。


「お、お前っ、じゃんっ!?」

「えっ?」


 あなや、素っ頓狂。


 ババっと音を立てて一寸先に迫ったナトラが、まるで昔ながらの顔馴染みのように僕に話しかけてくるのだから驚いた。


 手首を掴んで、彼女は目尻に涙を浮かべた。


「今まで何処行ってたんだよ! シェラもあたしも心配してたんだぞ!」

「いや、僕はソウジュって名前で…」

「いいから、一緒にシェラを探しに行こう!」


 そのまま話も聞かずに僕を引っ張る。


「あっ、ちょっと、待って!」


 やはりフレンズ。

 想像の数倍の力に抵抗虚しく連れ去られていく。


「ソウジュっ!?」

「わたしたちも、ついて行こっか?」


 砂浜に三足の足跡。

 そして引き摺られる二本の線。


 判るのはそれだけだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る