『Cry to the Moon』
「はっ…はっ……!」
夜だというのに周囲に憚らず、息を荒げて走るボク達。喧しい草葉の音も、頬を傷つける枝先すらも気にしない。
それは背後に命の危機が迫っているからだ。立ち止まればたちどころに死んでしまうと思えば誰でも、どれほど疲れていたとしても気力の続く限り逃げ続けようとすることだろう。
「ひかり、まだ走れる?」
「は、はいっ…!」
気丈に返事をする彼女だが声はか細く、限界が近いことが伺える。
だがそれも仕方がない。
普段から滅多に運動をしない彼女がよもや十数分に渡って休みなく走り続けているのだから。むしろ未だに脚を動かせていること、これ以上ない僥倖だ。
ただそれも不幸中の幸いでしかないが。
「何処かに、隠れられる場所があれば…」
いつか、必ずその時は来る。
追手の足は速く、このまま逃げ切れる公算は極めて小さい。
一刻も早く身を潜められる建物でも見つけてひかりを休ませなければ……動けなくなった彼女を抱えながら怪物からの逃避行だなんて、無理だ。
「あっ…! 兄さま、其処に」
「…あれは、小屋?」
ひかりが向こうに建物らしき何かを見つけた。
夜闇と距離で判別はつかないが僕はすぐに答える。
「行こう」
悩んでなどいられなかった。
§
扉に閂を掛けると、隙間から差す僅かばかりの光明も輪を掛けてか細くなる。
中身は知れぬが重い木箱、脚が不安定な机、それらを引き摺って入り口を塞げば、今度こそ完全に視界が黒に染まった。
「兄さま…」
暗闇の中のひかりは、不安そうにボクの手を握る。
ボクもその手を握り返し、震えている彼女を抱き寄せた。あたかも励ましているかのように、自分の恐怖心を慰めている。
けれどこうしていれば、何方の震えか識ることはきっとできない。
そうして目を閉じて瞼の裏の世界に逃げる。
ひかりの息遣いが耳を撫で、それを掻き消す乱暴な音が外で響く。
「…っ」
視界の代わりに澄んだ感覚が精神を突き刺し、目を開けても自らの手元さえも確かめられない。
やがて外の音も気にならなくなる。
皮肉にも、抑えられなくなった心臓の鼓動が聴覚を乗っ取ってしまったから。
「わたくし達、助かりますか…?」
「きっと大丈夫、今は耐えよう」
「……はい」
音が消えるのを待つ。
待つ。
待つ。
消えない。
いつまでも、外に居る。
「―――まさか」
ふと浮かんだ嫌な予感が、意識を音に向けさせる。
耳を塞ぎたくなる喧騒の中。
どん、どん、何かを叩く音が混ざっている。
軋んでいる。
毀れている。
押し退けられようとしている。
ほんの一瞬のことだった。
気付かなければよかったのかと妄想してしまう。
何故ならばそれに勘付いた瞬間に決壊してしまったから。
「嘘…」
「ああっ!?」
轟音が鳴る。
ようやく差した光明は、単眼の怪物を連れてやって来た。
「っ!?」
更には驚く隙さえ与えられず、何とも分からないうちに身体を不明なもので捕らえられて怪物の目の前に吊り上げられる。
「兄さまっ!?」
恐怖が足の指先から頭頂まで行き渡る。
口を開け、涎を垂らした猛獣の前に置かれた餌のようだ。
「やめて、兄さまを……離してっ!」
ひかりが背中の後ろで、頑張ってボクを救い出そうとしているのが分かる。
怪物はそんな彼女の行動を意にも介さず、捕まえた腕を動かして悍ましい単眼の前にボクを浮かべた。
喰われる。そう悟った。
しかし、牙を立てて咀嚼されるようなことはない。
その代わりに不思議な感覚がボクを襲う。
「うっ…!」
身体を締め付ける何かの力が強まった。
まるで傷口から血が流れるかのように力が抜けていく。
「……」
そうして気付かぬ間に身体は動かなくなっている。
ぼとり。
それはボクを床に打ち捨てた音だった。
「あぁ…!」
怪物の興味は悲鳴を上げたひかりに向いた。
ひかりを襲わせる訳にはいかない。
残った気力を全て集めて、掠れた声を掛ける。
「に、げて…」
手を伸ばして、ひかりを行かせようとする。
その腕が届いたか届かなかったか、判らないままにボクの意識は闇に沈んだ。
だが。
眠ってしまう最後。
破壊された屋根から満月が見えていて。
「―――兄さまを置いていくなんて、できません」
安らかな声と暖かいものが、ボクを包んだような気がした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます