第百四十八節 もう逃げられない
「はっ…はっ……!」
夜だというのに周囲に憚らず、息を荒げて走る少女。喧しい草葉の音も、頬を傷つける枝先すらも気にしない。
それは背後に命の危機が迫っているからだ。立ち止まればたちどころに死んでしまうと思えば誰でも、どれほど疲れていたとしても気力の続く限り逃げ続けようとすることだろう。
クオとゴーレムセルの死闘を余所に、巧妙に隙を突いて死地から脱出したスピカ。
彼女の目的地――ソウジュを閉じ込めている家――までの道のりがおよそ残り半分程度の場所で、いよいよ体力に果てを迎えて休憩せざるを得なくなった。
近くの適当な木の幹に背中を預け、滑り落ちるように座り込む。
「ここまで来れば、少しくらいは大丈夫かな…?」
その呟きは推測より、むしろ願望の色が強い。
あの怪人の力はあまりにも強大だ。
再び奴の視界に捉えられれば、力を失った今の彼女では逃げおおせることさえ叶わないこと、わざわざ熟考するまでもない。
―――そして、これが最も重要なのだが。
スピカは鏡と石板を持っている。
今も手元にあり、クオとの戦いの為に持ち出してきた。
これが疫病神だ。
持ち主に圧倒的な力を齎すこれらの宝物こそ、怪人がスピカに一時の力を与えてまで手中に収めようとした目標であり、ここで起きている全ての騒乱の遠因たる存在なのである。
これを抱えて逃げ出したスピカを、怪人は決して逃さない。
そのような厄介な物品を今の彼女は全く活用することができず、かといってそこらに捨てるような真似も出来た物ではない。
彼女の脳裏には今、普段以上に強く、一人の姿が浮かび上がっている。
「ソウジュくん…」
元々は彼が持っていたものだった。
あの残忍な化物の手に渡るくらいなら、あるべき場所に返すべきだろう。
それで許されるとは思っていない。
ただ最早、状況はスピカのコントロール下にはない。
「……」
一瞬、躊躇が生じた。
これを渡せば、次のターゲットは彼になってしまう。
なら、他にもっと良い可能性があるのか。
スピカはそれを考えようとして直ぐにやめた。
自分の手によって潰えてしまった『もしも』を追想することほど、辛い行いは今ここに存在していないのだから。
§
途中から、遠方より聞こえる音が変わった。
絶え間なく響き続ける輝かしい攻撃音はいつの間にか消え失せ、散発的な爆発音が戦場を支配している。とても鈍重に身体の芯を揺らすように響き、気持ちにも暗い影を落とす。
いつの間にか月明かりも霞んでいる。
理性の上で、その変化に何か意味があるようには思えない。
だが、何か直感が嫌な気配を感じていた。
戦場へと近づく足は鈍りきっている。
途中からレヴァティが怯え始めてそれを宥めていたから、というのが理由なのだが、本当は僕も恐れていた。
それこそ、形のない虫の知らせに対して。
「お、お兄ちゃん…」
「平気だよ、心配ない」
これまでの言動からして危うい印象を受けていたから、見た目の年相応に怖がっているレヴァティに対しては、かなり安堵の念を覚えている。
少し前に聞いた言葉が虚勢で良かったとも思う。
「うん…」
彼女も、何か本能の部分で嫌な予感を感じ取っているのかも。
「ゆっくり進もう、セルリアンに……ん?」
「どうか、した?」
足を進めようと周囲を警戒し、異状を知る。
それこそ予想外、想定していた悪い状況と真逆の状態。
セルリアンがいない、一体たりとも。
少し前までは遠巻きからでもまばらに姿を確認できていたのに、今は影も形も確かめられない。
手掛かりとなるはやはり戦場から聞こえてくる音の変化、戦況が一転してそうせざるを得なかった可能性がある。例えばスピカが劣勢になって、持ちこたえる為にセルリアンを招集した……とか。
もちろん都合のいい想定だが。
(大きく、動いてもいいかな……?)
往くべきか否か。
真に吉兆足るか。
乗換の利かぬ判断。
僕が結論を下す前に、声が聞こえた。
その声が、根本から覆してしまった。
「見つけた、ソウジュくん…!」
「スピカ…っ!?」
どうしてここに。
クオと戦っている筈なのに。
「あ、おねえちゃん!」
重苦しい空気に朗らかなレヴァティの声が響く。
「よかった、無事で」
「…今のところは、ね」
明らかに余裕がない。
レヴァティの声にも応えず、足を引きずる様にこちらに向かってくる。
どうして彼女がここに?
その理由は明らかでないが、彼女が何をしようとしているかは、目の前の実存が最も雄弁に語ってくれる。
「どうしたの、そんなにボロボロで」
「恥ずかしながら、負けちゃいまして」
「……クオは強いからね」
そう答えると、スピカは苦笑いを浮かべた。
どうやら本当にクオに打ち負かされたのだと思われる。
弱った振りをする罠かとも考えたが、彼女がクオに勝ったのならこんな芝居を演じて僕の不意を突こうとする理由が存在し得ない。
そして、逆に―――
「クオは、今も戦ってる?」
「…はい、多分」
クオがスピカを見逃す理由も考えられない。
何かイレギュラーが起きて彼女に構っていられなくなる以外。
今すぐにでも助力に行きたい。
ただ。
その前に。
「……僕を探してたみたいだね」
「家が空っぽだったので、お外かなあって」
「捕まえに来たなら、やめておいた方がいいよ」
彼女を観察している内に、件の冠も王笏も身に着けていないことに気が付いた。負けて取られたのかもしれないが、それらの星座の力がないスピカなら手持ちの石板の力でも十分に制圧できる。
レヴァティを庇うように戦いの姿勢を取る。
するとスピカは首を振って、ある予想外の行動に出た。
「いいえ。……その、これを」
一冊の本。
それが鏡であると僕は知っている。
「…どういう風の吹き回し?」
「ごめんなさい。これは、私の手に余る物でした」
そう言って、いとも容易く彼女は鏡を手放した。
不気味極まりないが、これは確かに本物だ。
中に保存している石板も、ごく一部を除いて欠けは見られない。
負けてしおらしくなったにしては、まるで昼夜が逆転したように強烈な様変わりだったが、返して貰ったこと自体に異論はない。
「そ、それでっ!」
堰を切ったように声が飛び出して、恐怖に染まった視線がこちらを向く。
「どうか、気を付けてください。その鏡と石板を―――」
彼女が何かを言い切る前に、地面が大きく揺れた。
向こうの木々から鳥が一斉に飛び立ち、月が雲の陰に覆い隠される。
「きゃっ!?」
「わあーーっ!」
「二人とも、屈んで!」
直感が”尋常ではない”と叫んでいる。
圧し潰されるような存在感が、すぐそこまで迫っているのを感じた。
誰かの影が見える。
「……唖々、面倒だ」
その
フードの中で冷酷に光る紅眼がこちらの空間を見遣る。
「だがそうだな、まずは穏便にやろう」
軽く言い放つ声色には侮蔑の色が滲んでいる。
「人間。死にたくなければ、それを渡せ」
手の平を空に向けてこちらへ腕を伸ばす
その上には、僕たちの命が乗せられていた。
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