第百四十七節 蝕われる満月、喰らう牙

「くぅ…っ!」


 そして趨勢は一転し、クオは苦境に立たされていた。


 怪人によって齎されたゴーレムセルの強化によって、文字の通りにの戦闘力を手に入れたからである。

 月の輝きと共鳴した彼女を以てしても、身震いするような力の差が垣間見える。


 最も恐ろしいのは、腕の先に生えた不気味な口だ。

 まるで蕾が花開くように四方向にが伸びると、裏側にビッシリと生えた細かい牙が姿を見せる。

 それだけに飽き足らず、中央の真っ黒な穴には大きく鋭い牙が獲物を待ち望んで唾液に濡れていた。


 その悍ましい外見には誰もが目を逸らしたくなるだろう。

 だがそうすれば、一寸先に待つのは死。


 この口、ただの飾りではない。


 先端が捕食器に変化した腕は、戦いに多大な影響を与えていた。


(あーもう、…!)


 クオはつい先程まで、高い機動力でゴーレムセルを翻弄しながら、相手が攻撃してくるタイミングを見計らって反撃のチャンスを生み出していた。


 その時、如何していたか。


 ただ普通に攻撃を避けるのではなく。

 自身に迫る腕を蹴り飛ばし、バランスを崩してつけ入る隙を作っていた。


 それが今はどうか。


 あの腕の先端には口が、鋭い牙がある。

 そこに脚を差し出すなど、『食べてくれ』と言うようなもの。

 だから、さっきまでの戦い方が出来なくなってしまった。


 自在に戦況を操作して、攻撃の機会を引き寄せることが出来ないのである。



 これが、一つ。


 まだ、他にも理由はある。



 ゴーレムセルの身体より遥かに大きな翼。

 肩に付いた、球体の小さいセルリアンを発射する砲台。


 この2つがある意味、他の全てを凌駕する脅威になっている。


(腕だけだったら、まだ楽だったのに…)


 ほんの少しの間だけクオがやっていたことでもあった、空を飛んで遠距離からの攻撃で一方的にダメージを与え続けるという戦略。

 ゴーレムセルに対しては、奴が持つ硬い装甲故に有効な手段となり得なかったが、しかし。


 逆に、ゴーレムセルがそれを始めてしまったら。

 防御には劣るクオを対象にするのなら、これほど有効なことはない。


 ほら、また攻撃がやって来る。


 僅かに重心を落とし、砲台をクオに向ける。触手を伸ばして周囲に散らばったセルリアンのを砲塔に詰め込むと、轟音を発してそれを放った。


「わあっ!?」


 着弾、そして爆発。


 砂埃がクオの視界を塞ぎ、月明かりが見えなくなる。このほんの一瞬、クオと共鳴している月光の力が弱まってしまうのだ。


 不幸中の幸い、まだゴーレムセルに高い機動力はない。この隙を突いて勝負を決めに来ることはしないだろう。


 そうクオは思っていた。


 当然だ。


 ゆったりとした移動では途中の攻撃に対処できないのだから。


「――え」


 だがもしも。

 例えば高い防御力が故に。


 としたら、結果はどう変わるだろう?


 考えるまでもない。


 開けた視界は聳え立つ漆黒に埋め尽くされていなければならない。


 とうとうゴーレムセルが腕を振るって、大砲以外の武器を以て攻撃をした。クオも咄嗟に光を集めて反撃する。


 2つの勢いが触れた瞬間に行き場を失ったエネルギーが空間に漏れ出し、荒れ狂う風になって互いを襲う。


 あらゆる方向に対して平等な物理現象。

 ともすれば不利なのはより脆弱な方でしかない。


「うぅ…っ!」


 クオの口から呻き声が漏れる。


 黄金色のエネルギーが散逸していき、終わりがどんどん近づいてくる。恐悦に染まった牙が彼女の首筋に赤い糸を伸ばしている。クオの目には、眼前の怪物がどんどん大きくなっていくように感じられる。


 まさかこんなに呆気ないなんて。


 どうしようもない。

 瞼を下ろすまでもなく視界は塞がれる。



 ―――紅く、鮮血が舞った。




§




「フン」


 地に落ちた子狐を見下ろして彼の者は短く鼻を鳴らす。


 既に彼女への興味は消え失せ、視線はもう1人のの方へと向いた。


「…む?」


 だが、おかしい。

 周囲を見回してもスピカの姿はない。


 怪人の感覚でも、近くにいる気配はしていない。


 逃げたか。


「姑息な真似を」


 何ゆえ、元よりか細い寿命を高々数分程度延ばすことにこう全霊を注ぐのであろうか、生き物という存在は。


 焦りはない。

 あの者の行く先など知れている。


 怪人は自らを覆い隠すローブを翻し、優雅に歩み始める。


 その後ろでは役目を終えた怪物が血まみれの身体で恭しく傅いて、君主の行進を物静かに見送っていた。主人の後姿が完全に見えなくなるまでピクリとも動かず、まるで本当に石像がそこに佇むかのように。


 ずっとそこに留まっていた。


「……」


 見送りの役目を終えた召使いが次にすることは何だろう。


 それはきっと後片付けだ。


 ゴーレムセルは振り返る。

 主に仇成した愚かな存在を完全に葬り去るために。


 しかし彼はまた石像のように硬直する。


 セルリアンといえども、例外処理には時間が掛かるものなのだ。



 ―――標的クオがいない。



 確かに自らの牙をその身に突き立てられ、血塗れになって斃れ伏しているはずの奴がいない。


 その事実に気が付いた彼は辺りを見回す。


 するとどうだろうか。

 案外直ぐに見つかるではないか。


 月明かりに照らされて息も絶え絶えに立つ少女がそこに居た。


「はぁ…はぁ…」


 再び、彼の凶牙は歓喜に震えた。


 月を背に立ち、此度こその完全な死を。


 ああ憐れなり。

 そう思う資格とは、果たして何方が持つものか。


 血を滴らせながら少女は儚い声で嗤う。


「お月様……まっかっかぁ…♪」


 血に染まった顔を上げる。


 炎の如く蒼く上気した頬に食い込むように、歪に口角が吊り上がっている。

 その虚ろな目に本当に世界は映っているのだろうか。


「あっ…はは…」


 病的な声。

 今にも消え失せそうな影。

 恐れる由無し。


 であるならば、なぜ彼は動かない?


 どうしてこの五体満足の身体を晒して、怖気づいたように縮こまっていなければならないのだろうか。


 彼の背後の月、クオの言うとおりに赤かった。


 気づかぬ間に赤くなっていた。

 一体誰が染めてしまった。


 かつて、空に浮かぶ月を少女は満たした。



 ならば―――



「……」


 ゴーレムセルは気づかない。


 背中にあるから見えなかったのだ。

 それとも、初めから色は見えるのだろうか?


 クオが腕を上げる。

 

 その手の指の隙間から、三本の線が空に伸びる。


 それは爪であり牙だ。

 他ならぬ殺意の発露だ。

 静謐な終わりだ。


「っ…!」


 振り下ろした腕と共に弧を描く。


 理解できない代物だったが、ゴーレムセルは避けずに受け止めることを選んだ。


 彼は覚えていた。

 強くなった自分は強い。

 クオの攻撃は一度たりとも新しい彼の身体に傷を与えなかった。


 この攻撃も予想通り、彼の表面で勢いを止める。


 例えどれほどの鋭さがあっても、この何よりも堅い装甲を突き破ることなどできやしないのだ。


「…ふふ」


 嘲る。


 無知を。

 傲慢を。

 こんな相手に一度敗北を喫した自分を。


「……?」


 異変が起こった。

 ミシミシと音を立てて刃が体に食い込み始めたのだ。


 もう完全に勢いを殺したはずのそれが、また進み始めているのだ。


 彼は刃に目をやる。

 もし彼に高い知能があれば気付いただろう。

 その刃が液体で出来上がっていることを。


 ―――ああ、なんということ!


 それは今、入り込もうとしているのだ!


 セルリアンの細胞の僅かな隙間を縫って浸み込み、内側から押しのけるように彼の身体を2つに引き裂こうとしているのだ。



 そしてもう、彼にはどうすることもできない。



 するりと、腕が下りた。

 まるで豆腐に包丁を入れた時のように、その頑丈な身体はあっさりと切り裂かれた。


 ゴーレムセルは残骸と化し、今ここに勝者はひっくり返った。


「あはは……ふふ…!」


 少女は微笑む。


 血が抜けて何も分からなくなっている頭で。


 ただ、何かをして体力を取り戻さないといけないことは本能が理解していて、必然的に彼女の手はゴーレムセルの死体へと伸びた。


 手を翳すと血の塊が触手のように伸びて、セルリアンの細胞を貪り吸いつくす。


 敗者の姿が小さくなっていくほどに、彼女の傷は癒えていく。



 ―――そして、全てが終わった後。



「ソウ、ジュ……」


 少女は最後に愛しき人の名を呼び、意識を失う。


 月は、優しい黄金色を取り戻した。

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