第百四十節 断線


 額に浮かぶ冷や汗を拭って、僅かに濡れた指を服の布に押し付ける。


「……」


 手を机に載せ、湿気に滲んだ指で本の頁をめくれば、活字の上を視線が辷って全く頭に入って来ない。結局、僕は本を棚に仕舞うことにした。


 こうなったのは、果たして何故か。

 形容できるとすればそれは、唯の不運。

 畢竟、避けようの無かったことだったのだ。


 だのに、焦燥の気は未だ身体を離れようとしない。


 道端で転んだ後に杖を立てようとして、上手く立ち上がれないことを憂いて何になるというのか。『頭では分かっている』と言うが、それすら本当なのか怪しい。


 とにかく、僕にできることはない。

 怪我をしたレヴァティは今、スピカが治療している。


 ……そうするより他に仕方がなかった。


 少し前、この部屋の机につまずいて膝を打ってしまったとき、スピカに手当てをして貰った。案外中々に手際がよく、そうして大事には至らなかったのだが、僕にはあんな風にレヴァティの世話を看てやることは出来なかった。


 抑々そういった技量に関係なく、あんな状態の彼女を庭の中に置いたまま、スピカの目から匿ってやることも不可能だ。


 逆に、無理に隠して妙な疑いを受けても仕方ない。


 彼女と出会った経緯と、庭で何度か逢引をしていた事だけは内緒にして、僕はレヴァティのことをスピカに頼むことに決めたのである。


 正直に言って、断られる可能性も視野には有った。

 だがスピカは快く頷いて、文句の一つも言わなかった。


 無論、表向きだけ快諾しておきつつ、裏で残虐な行為に手を染めているとも限らないのだが……。


「…やめよう」


 そんなことを考える方が可笑しい。

 幾ら誘拐犯とはいえ、妙な印象を抱いているのではなかろうか。

 此処に来てからは穏便な様子だし、レヴァティも普通にしてくれるだろう。


 ―――さあ、心機一転。


 僕がこれから心配すべきなのは、外に出る方法だ。


 レヴァティに頼んで外の人物に助けを求めるという方策は、突如として庭を過ぎ去った不運が跡形もなく吹き飛ばしてしまった。


 庭から出て行く暇もなかったし、万が一も無い。

 するとやはり、前々から考えていた通り、自力での脱出を目標にしなくてはならない。


 昔から白紙のまま同じ、この脱出計画に手を付けないと。


(さて、今なら情報を集められるかもしれない…)


 スピカ、今はレヴァティの治療に専念している筈。


 そして運よく、彼女が部屋の鍵を閉め忘れている。

 焦った僕が捲し立てるように手当てを頼んだからだ。


 ……まあ、結果オーライと考えて。


 せめて鏡か石板、若しくは隠し場所のヒントを手に入れたい。


「…急がないと」


 迷っていたら彼女が来るかも。

 さっさと行動して、怪しまれない間に戻ろう。


「よし、行こう」


 僕は部屋を出て、スピカの自室に移動する。


 そして、ついに初めて入った彼女の部屋の様相は、僕の抱いていた印象とは大きく懸け離れたものであった。


「―――思ったより、本が多いな」


 何処を見ても窓の無い、真っ暗な部屋。

 テーブルランプを灯すと見える内側の景色。

 本で埋め尽くされた棚が壁を隠して、普通ではない閉塞感を放っている。


 小さい椅子と机、ピンクの布団を被ったベッド、可憐な色がガラス窓から覗いているクローゼット、本が落ちている一人用のソファ。


 随所にスピカの気配を滲ませてはいるものの、この空間の印象を大きく覆すようなことはない。


「もっと可愛らしい部屋だと思ってたんだけど…」


 だが、仕方のない面もある。

 そもそもの話、この建物自体の用途が不明だ。

 この部屋も、自室にすることを想定して造られてはいないのかも。


 だからこうやって、ごく僅かにでも”スピカらしさ”を滲ませていられるだけ、彼女の努力が功を奏していると言えるのかもしれない。


 ……別にどうでもいいことだが。


(まあ、早いとこ探そうか)


 ひとまず目に付いた本を抱えて、部屋を見回してみる。


「―――よしっ!」


 頬を叩いて気合を入れる。

 そして息つく暇もなく、物探しに取り掛かるのだった。



§




 それから十数分。


「これは違う。これも、違う…」


 早々に鍵の掛かった引き出しを見つけていた僕は、その中に石板と鏡が入っていると踏んで、開くための鍵を探していた。


 言霊で無理やり開錠しても良かったけど、その道は採らない。内部構造の分からない錠前を弄るのは疲労が半端じゃないのと、今すぐ開けても即脱出とまではいかないから、そんなことをしても労力の無駄になるのだ。


 準備は万全に。

 まだその時ではない。


「…ん」


 鍵の掛かっていない全ての引き出しを見終わって、目ぼしい物は何も無いことを理解した。どうやら、大切な引き出しの鍵をすぐ近くに置いておくほどスピカも間抜けではないらしい。


 しかし、これは折角の機会だ。


 隠し場所の目星をつけられたことは嬉しいが、それ以上の収穫を得たくなってしまうのが欲張りな性。


 ここは少し、無理をしてみよう。


『――見つけろ』


 対象の具体的な形を知らないが為に心労は重くなるが、僕は言霊で引き出しの鍵の在り処を捜索してみることにした。


「うっ…」


 しばしの間、視界が暗転したかのような錯覚を覚えて、頭の中にぼんやりと蛍光のような標が浮かび上がる。


 きっと、あれが鍵に間違いない。


 だけれど、この光は何処から―――。


「何してるんですか?」

「っ!?」


 刹那、聞く呼び声。

 頬を冷や汗が伝った。


「ソウジュくん、どうしてここに居るんですか?」

「……これだよ」

「うん…?」


 焦る心臓の動きを噛み殺して、僕は予め抱えていた本をスピカに向かって差し出す。


 それは僕が前から読んでいた本の続編。

 最初からコレが目的だったと言い張ってしまおう。

 念の為に取っておくつもりだったが、思わぬところで役に立った。


「もしかして、これが読みたくて…」

「絶対に忙しいだろうから、邪魔するのも悪いかなって。それに偶然、部屋の鍵が開きっぱなしだったからさ」


 怪我人の手当てを放り出せはしない筈。

 恐らくは、非の打ち所のない申し開きであろう。


「そっか」


 スピカは色なく呟いた。

 胸中の心情は察せそうにない。

 沈黙を重苦しく感じて、僕は別の話題を切り出した。


「ところで、手当ては終わったんだ?」

「はい、あとは時間の問題だと思います」

「よかった」


 レヴァティのことは純粋に心配だったけど。無事に治りそうなら何よりだ。


「それで、レヴァティちゃんでしたっけ」

「…僕に訊かれても知らないけど」


 だけど、あくまで白を切る。

 僕とあの子は初対面という設定だから。


「とぼけなくても、沢山教えてもらいましたよ」

「えっと、何を?」

「ソウジュと、色々お喋りしたこと」


 ――まあ、子供だからね。


 僕もあの子に口止めを頼むようなことはしなかったし、大体そんな悠長にしている暇は無かったし、なるべくしてなったと言えばその通りだ。レヴァティを恨むなど筋違いも甚だしい。


 だけど、かなり知られてはマズいことがある。


「……あと、”人探しも頼まれた”って」


 当然、バレているが。


「あっ、安心してください。

 ソウジュくんが恐れてるようなことは起きませんから」


 焦る僕を宥めるように、スピカは猫撫で声で囁く。


「レヴァティちゃんも、ここで優しくお世話してあげますよ」


 ニコニコと、むしろ恐ろしい顔で言い放つ。

 そうする意図も、僕には分かりかねる。


「…どうして」

「言ったでしょう? 私は、待つことにしたんです」


 まさか、本気で100年も待つ気なのか。


「助けを呼ぼうとしたことも、今回は未遂だったので不問にします」


 そうでないなら、何故ここまで穏やかに振舞えるのか。

 猫を被っていてくれやしないか。


「約束は、しなくていいです。

 だから、これは唯のお願いです」


 そして、蛍火が見えた。


「……どうか、逃げないでください」


 引き出しの鍵は、スピカが肌身離さず持っている。


「今日からは、レヴァティちゃんも一緒です。きっと賑やかになりますよ」


 当たり前と言えば、そうか。

 かなり、望みは薄くなった。


「それじゃあ私は、ご飯を作って来ますね」


 ”お好きにどうぞ”と、意図したか否かの言葉。


 部屋の外へと繋がる扉を、スピカは閉めてしまった。

 ランプが寂しく灯っていると、外の様子は見通せない。

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