第百三十八節 僅かでも、運命が違えば
部屋に戻ると、先にスピカが待っていた。
入って来た僕を見るなり微笑んで、言葉少なに尋ねてくる。
「おかえりなさい、お庭はどうでした?」
「居心地の良い場所だね、僕は好きだよ」
「ふふ、それは何よりです」
庭のことは、素直な感想を口にした。
残念なことにほぼ間違いなく、僕にとってはあの空間がここら一帯の中で最も居心地の良い場所だ。だって他には無機質な廊下と、寝室という名のただの檻しか無いものだからね。
そうなってしまうのも仕方のない事。
だから、スピカが喜ばしそうにしているのはちょっぴり変だ。
檻の居心地が悪い事を気にするべきではないのだろうか。
「好きな人に楽しんで貰えて、どうして喜んじゃいけないんですか?」
「あ、そんな感じなんだ…」
反応の如何は兎も角、返ってくる言葉はまともな言い分であるだけに、僕も上手いこと継ぐ句が思い付かない。こちらに向けられる視線にも、少なくとも今は淀んだ空気が感じられない。
どれだけ強引な手段を取ろうとも、根は純粋ということだろうか。
であれば、尚更タチが悪いという他ないのだが。
「それで、どうでした?」
「あれ、他にも何かあったっけ?」
「ですから―――お庭から逃げられそうでしたか、ってことです」
「なっ…!?」
なんてこった。
質問に容赦がなさすぎる。
というか、逃げようとしてると思ってるんだね。
いや、まあ……実際逃げるつもりではあるけど…。
それでもこんな歯に衣着せぬ物言いで、直接に問い詰めて来るなんて夢にも思わなくて、恐らく僕は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしていただろう。
「…どうです?」
「正直、あそこからは難しいと思ったよ」
誘拐なんてする位だ、僕の気持ちなんて一切理解してないと思ってたけど。
――実際は逆だったね。
きっと現状を良く分かって、尋常な手段じゃ勝ち目がないと悟ってしまったからこそ、こんな強硬なやり口に手を染めてしまったんだ。
果たして良いのか悪いのか。
確実に分かるのは、少なくともマイナス方面であることだけ。
もういっそ、殺されないだけ良しとすべきか。
「よかった、頑張った甲斐がありました」
この『絶対に逃がさない』というスピカの意志は、あの庭の隔壁よりもずっと高く、脱出の道筋に立ち塞がることだろう。
視界はまだ晴れる兆しがない。
§
「私に聞きたいこと、他にはありませんか?
今ならなんでも答えてあげますよ」
ホウキとチリトリを両手に部屋中を歩き回りながら、スピカは暇を持て余していた僕に対してそんなことを言った。
僕は驚いて、ぼちぼちと考え始める。
だけど、やっぱりアレかなぁ…。
「じゃあ、前から思ってたことを一つ」
「はい」
「なんでそんなに大人しいの?」
「…え?」
繰り返しになるから、疑問に思った理由は省略。
ただ改まって質問を求められると、前々から考え込んでいた事しか頭に浮かばないので仕方ない。
そして思考の埒外の問いだっただろうか。
スピカが目を丸くして固まっていた。
若しくは鏡で自分の姿を省みたことが無いのか。
どちらにせよ、答えが聞きたい。
軽口を叩くようにして、僕はスピカに返事を迫った。
「あんな強引に誘拐してきたくせに、今じゃ随分と礼儀正しくなったじゃん」
「そ、それが何か…?」
スピカはあからさまに戸惑っていた。
これはやはり、自分の所業に無自覚なきらいが見て取れる。
「別に。だけど、もし怖気付いてるのなら、早いうちに僕を逃がしてくれた方が良いと思うよ」
だとしても気付いているだろう。
彼女にとって、とても分が悪い戦いであること。
風向きではなく潮流で、生半可なことでは変わりようがないこと。
無理筋と一筋、頬を落ちる涙。
殆ど嗚咽に呑み込まれたように掠れる声。
「……時間が掛かることは知っています」
コトリ、床に物を落とす音。
捨てそびれた埃が、僅かに顔を覗かせる。
「クオさんが羨ましいです。私よりずっと早くソウジュくんと出逢って、たくさん時間を掛けて仲良くなることが出来たなんて」
巡り合わせ、スピカにはどうしようも無かったものだ。
「心底、運命が憎らしい…」
恨みがましい、なんて安っぽい表現だ。粘っこい執着に絡め捕られたスピカの言葉は、蜘蛛の巣に隠れるようにして僕の耳を捉え、毒針のような危うさが刺さって、そして繋累となる。
落とした掃除道具を拾い上げて、ゴミはゴミ箱に葬って。
「同じくらい長い時間が必要なら、私もこれ以上は焦りません。ゆっくりじっくり、仲を深めていきましょうね」
同時に他の感情を捨ててしまったのか。
僕への暖かさしかない一言一句に肝が冷える。
「100年くらい経てば、きっとすっかり忘れちゃえますから」
冗談、だよね。
「うふふ♪」
冗談、なんだよね…?
「……」
「ご飯の時間ですね。ここで待っててください」
直接尋ねて確かめるには、あまりにも恐ろしかった。
そしてキッチンに向かったかと思うと、扉の影からひょっこりと顔を出して一言。
「―――逃げてもいいですけど、すぐ捕まえにいきますからね?」
「逃げないよ」
今はまだ。
「そうですか」
心の声を聞いたか否か、スピカは笑って向こうに行った。
「さて、本でも読んで待ってようかな」
§
ここは真夜中、森の中。
暗君と逸れ者はこの暖かい死地で夜を明かす。
誰も彼らを迎えに来る者など居やしないから。
時に彼女はゴツゴツした岩の玉座に腰掛けて、目の前に跪く下僕共を見やる。
その内が一体、黒い鳥のセルリアンが声にならない声を発する。
ソレの叫生声が終わると、彼女は徐に頷いた。
次に、九羽の鳥のセルリアンが揃って鳴き声を上げ始める。
フレンズが見れば唯の雑音の大合唱。
しかし、彼女なら真意を理解できる。
『―――なるほど、状況は把握した』
彼の鳥たちの役割は斥候。
フレンズの生活に潜り込み、情報を集める諜報員。
こうして彼らの飼い主に、僅かな兆候も送り届ける。
石ころの落ちる音さえも。
『ご苦労、引き続き偵察を行うように』
きっと彼女の耳に届いてしまうのだろう。
『計画に変更は必要ない、手筈通りにしてやるとするか』
ここはアンインちほー。
鳥たちはクオの動向を確かめていた。
二人が直に発つことを、彼女は知ったのだ。
であれば、何の為に?
彼女がその気になれば、何時だって輝きを奪いに攻め込むことが出来たというのに、何を待っているのだろう。
『ああ、今のうちに楽しんでおくといい。
その為にこそ、貴様に偽物の王権を渡したのだからな』
彼女は戯れを実に好む。
鳥に枝を取らせ、自分でそれをへし折った。
まるで杖を真っ二つにしてしまうかのように。
杖と言えば、そう。
スピカが、彼女から王笏を貰い受けていた。
……まあ、考えすぎかもしれないが。
『後は、奴らが対峙する瞬間を待つのみ』
そのような憶測とは全く関わりなく、彼女の謀は進んでいく。
クオがリウキウに辿り着くとき、事態は大きく動き始める。
『その時こそ……終わりだ』
だが、もう少しだけ。
ソウジュとスピカ、そしてレヴァティの話を、最後まで続ける必要がある。
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