第百三十四節 久遠の真円


 刹那、滝すら裂くほどの勢いで放たれたデネボラの拳は、文字通り空気を切って轟音を周囲に放ちながら、目と鼻の先の目標に突き刺さる。


 そう、他でもない。


 デネボラの目の前にいるクジラのセルリアン―――ミラに。


 身体の奥深くに叩き込まれた掌底は、空間ごと怪物の腹を抉り取るように、ミラを森の中へと吹き飛ばす。


 向こうの空に昇り立つ土埃が、全てを物語っていた。



「よっしゃ、決まったぜ…ッ!」



 喜び勇んで湖の方に、デネボラは渾身のガッツポーズを向ける。すると、湖の真ん中にぷくぷくと泡が立って、直後に水面から飛び出すように顔を見せたアルシャトが、デネボラに大きく腕を振り返した。


 ここまでくれば、彼女たちがやったことは解るだろう。


 アルシャトに殴り掛かって態と危機に陥らせ、ミラを『身代わり』の対象にして能力を発動し、まんまと湖から引きずり出すことに成功したのだ。


 もはや妨害できる筈も無い、空恐ろしい戦略であった。



「あー、ぐしょぐしょになっちゃったぁ…」

「助かったぜアルシャト。お陰で光が見えた」

「ふふん、トーゼンだって♪」



 ミラと入れ替わるように湖に飛び込んで、ずぶ濡れになってしまったアルシャトの衣服。皮膚に張り付く肌着を引っぱって憂いながらも、デネボラに褒められた時には胸を張って喜んでいた。


 この活躍、言うまでもなく大金星。



「ここからは、オレたちの番だな」

「陸に打ち上がったお魚なんて、もう敵じゃないね」



 精々抵抗はすると思われるが、恐れる程度のものではない。あのお月様が空の天辺に昇る前には、すっかり決着が付いている頃だろう。



「だからお前は……そうだな、着替えでもして待ってろ」



 コクコクと頷いて、アルシャトは立ち去って行った。



「よし、ちょっくら行ってくるとするか」



 お掃除の総仕上げ、である。




§





「おはよ、起きた?」

「おい、友達じゃねぇんだぞ」



 森の中でぐったりと倒れ込んでいたミラ。

 クオが気さくに声を掛けると、ギロッと彼女を睨みつける。

 どうやら、随分と余裕のない様子だ。



「お前がやるか?」

「うんっ!」



 刀を振り回したくてうずうずしていたクオの胸中を察し、デネボラは戦いを譲ることにした。死の淵にいる生物ほど恐ろしいものは無いのだが、戦いたがりのクオにとっては却ってワクワクの対象である。


 先程のミラの反応から、まだ彼女が生きることを諦めていないのを感じ取って、クオの戦意も燃え始めているのだ。



 ―――それに何より。



 何処にでもいる雑魚のセルリアンを数体斬った程度では、『月の輝き』の力を発揮しきったとは到底言えない。



「だからクジラさん、ちょっと試し斬りさせてよ」



 天蓋の真円と同じように、金色に輝く刀身。



「……すぐに終わるから、ね♪」



 慈愛に満ちた狐の微笑みはまるで女神のように美しく、それと同時に、彼女の全身から漂う雰囲気は死神と見紛うほど冷徹だった。


 月の視線に凍えて、体内を循環するセルリウムの流れが鈍重になっていく。


 晴れた夜の月光が世界の何処にいても届くのと同じように、彼女の威圧感は平等に、デネボラにも恐怖を想起させるのであった。



「おいおい、とんでもねぇな…」



 それから始まったのは、一方的な蹂躙だった。


 セルリアンを、周囲の木々を、果てには月明かりさえも足場に変えて、クオは夜闇に沈んだ戦場を自由自在に跳び回る。


 まるで跳弾するスーパーボールのような動きで、デネボラの眼も一部始終を完璧に捉えることは出来ず、過ぎ去った後に残る満月の形の斬撃だけが、クオが其処に居たことを示していた。


 時間が過ぎるごとに、セルリアンの身体は消耗していく。


 ただひたすらに終わりを待つ一瞬の中、クオはふと止まって違う行動を始めた。



「もしかして、こんなこともできちゃったり…?」



 ふわっと手を開いて、月光を掌上に集め始める。クオが次の瞬間に腕を振るうと光はバラバラに砕け、残滓が追尾弾のように尾を引いて飛んでいき、セルリアンに襲いかかった。


 クオはその光景を目にすると、パチパチと手を叩いて喜んだ。



「わぁ、すごーいっ!」



 ミラは恨めし気に、漸く姿を見せた敵を凝視している。

 大きな口が漫然とした動きで開いていく。



「何か来るぞ、また水を吐くんじゃないか!?」

「大丈夫、お月様が守ってくれるよ」



 今度は前方に手を翳し、集めた光を固めて盾に。



「……ほら、ね?」



 円状の光輝が水流をすっかりと防ぎ、必死の抵抗も虚しく無に帰した。



「それっ」



 仕返し代わりに放たれた軽い斬撃はミラの身体を深く抉り取り、もはや決定的な力の差が、白月の下に明らかにされてしまったようだった。



「ま、こんなもんかな」



 クオも納得した様子で頷いて、デネボラに声を掛けた。



「デネボラ、もう終わらせちゃおうよ」

「満足したなら、別にいいが」



 ミラの最期について、深く語る必要は無いだろう。

 デネボラが渾身の攻撃を叩き込み、セルリアンが倒されただけである。



「……あっけないな。終わる時はこんなもんか」



 キラキラと、いつも通りに辺りに舞う虹色の中を歩いて、クオは地面から石板を拾い上げた。



「石板だ。やっぱり落ちたね」

「おい、これからどうする?」

「クオは、ちょっと行く場所があるんだ」

「おう、そうか。オレはアルシャトのとこに行ってくる」



 戦いも終わり、元の姿に戻って。

 森の中で一人になって、クオは月を見上げる。



「……キュウビは、どうしてるかな?」



 さっきまでの円さも元通り、光は三日月の形になっていた。





§




「……あっ、見つけた!」



 辺りを歩き回ること暫く。

 小高い丘の頂上に、キュウビの姿を発見した。



「…貴女ね。その様子だと、無事に上手く行ったのかしら」

「うん、キュウビはどうだった?」



 尋ねると、一瞬表情が硬くなって。



「逃がしたわ」



 悔しさを噛み締めるようにキュウビはそう言った。



「そっか。逃げ足の速い奴だね」

「セルリアンの群れを嗾けられたのよ。それさえなければ、今頃は…」



 その言葉を聞き、脳裏に浮かぶ人影。



(セルリアンを操ってるんだ。

 でもあの見た目、スピカちゃんとは違ったし…)



 そもそもの話、ソウジュを連れ去って彼女の目的は果たされた。

 クオの前に姿を現す理由がない。


 すると現れる当然の疑問。


 あれは誰なのだろう。



「…心当たりはないの?」

「セルリアンを操れる存在なんて、私は今のところ二人しか知らないわ」



 あっさりとしたキュウビの返答に、クオは目を丸くした。



「二人もいるんだ」

「一人は知っての通り、あの小娘」

「もう片方は?」



 一瞬、言い淀むように唇を噛んだが、結局はその名を口にした。



「……セルリアンの女王よ」

「じゃあ、きっとそれだよ!」



 クオが晴れやかな顔で即座に断言し、キュウビは対照的に渋い顔をした。もしも『女王』の存在を口にしてしまえば、とても短絡的にその結論に至ることを察していたのだろう。


 まずは嫌な匂いのする空気を噛み潰し、閉じた口の中でストレスに逃げ場を与えるように自分の肉を噛み、いつにも増して味のしない生唾を飲み込む。


 そして、細く呟いた。



「有り得ないのよ」

「ど、どうして?」



 何故なのか、ハッキリと知っている。



「キョウシュウ」



 今でも指先に、結界の術式の感覚が残っている気さえする。



「一度退けられた女王は、紆余曲折の後に復活を果たした。そして再びパークに危機を齎して、今度はキョウシュウに封印された」



 あの島の末路に自らが手を下したあの日を、忘れられる筈がない。



「あの島ごと、女王は封じられたのよ」



 今でもを隔絶し続けている結界を、越えられる筈がない。



「だからもう、現れる筈はないの」



 それは直感や感覚のような曖昧なものではない。

 厭な程までに論理的に組み立てられた結論なのである。

 七夕であろうと渡ることの出来ない天の川だ。



「新しい脅威かもしれない。これからは、アイツの調査も必要かもしれないわね」



 未来のことに目を向けて、キュウビはかつての記憶から目を逸らした。

 だけれども、過去から逃れることは出来ない。



「ところで貴女」

「ん?」



 分離した瞬間から仄かに抱いていた違和感を、クオに聞いてみる。



「……私の姿に、見覚えはない?」

「いや、ないけど…」

「そう」



 納得したような、そうでないような。

 きっとキツネだからという理由では決してない。

 瞼を擦ろうとも拭えぬ既視感に視界が曇っている。


 だが、それを解き明かすのも今ではない。



「―――そうよね」



 アンインで過ごす日々は、間もなく終わりを迎えようとしている。

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