第百三十一節 山羊は獅子と語らう
明朝、太陽と共に起床して。
昼餐、得も言われぬ気分で胃に押し込んで。
黄昏、いざ目の前にある億劫をひしひしと感じて。
「……そろそろ、行くとするか」
ほぼ一日、強火でも煮え切らぬ葛藤を抱えて時を過ごしていたデネボラは、とうとう夕日すら落ち切ってしまうような時刻になって漸く、まるで漬物石のように重くなっていた腰を上げたのであった。
だが何もデネボラは、ずっと迷い続けて怠惰に時間を過ごしていた訳ではない。そこには決して軽視できぬ大きな問題が有ったのだ。
丸一日を費やし、ついにその問題を解くことが出来た故に、デネボラは今こうして、アルシャトの元へと向かおうとしている。
―――では、それは果たして何なのか?
「…本当に良かった、思い出せて」
難しく考える必要はあまりない。
デネボラはごく単純に思い出せなかったのだ。
「流石に、全部の湖を回るのは無理だからな…」
アルシャトとの最初の出会い、そして『最初の湖』の在り処を。
「大体なんだ、『最初の湖』って。
オレらはそんな間柄じゃないだろうに…」
忘れたことも、さもありなん。デネボラにとってのアルシャトの印象は、盗みを働いている時の姿ですっかり固まってしまっている。
何を隠そう、ついに湖の場所を思い出すことが出来たのも、かつてアルシャトがその湖で泥棒をしていた記憶を、脳の奥底から掘り起こすことに成功したからに他ならないのだ。
アルシャトがこの事実を知ったらどう思うだろうか。
一瞬そんな考えがデネボラの頭を過ったが、『全て自業自得』と、かなり冷淡に切り捨てられた。
「けど、まだ待ってっかなぁ…?」
アルシャトは、湖に来るようにしか言わなかった。
もちろん待ち合わる時刻の約束などしている筈がない。
だから、湖に赴いた二人が出会えるかどうかは、全てアルシャトの忍耐強さに掛かっていると言えるだろう。
向こうが勝手に呼んだのだ、この程度は覚悟してもらわねば。
「さて、ぼちぼち行くかぁ」
デネボラは玄関の扉を開け放つ。その瞬間、堰を切ったように部屋に飛び込んでいった空気の流れは、デネボラが歩き出せばいつの間に追い風に変わって、彼女の背中を強く押してくれた。
さあ、これから会いに行こう。
そんなデネボラの決意を無残にも踏み躙る何者かが、ドタドタと慌ただしい足音を立てて急接近している。
さあ、間もなく出会うだろう。
彼女は現れて開口一番、デネボラへの文句を大声で叫んだ。
「もう、デネボラ遅いよっ!」
「あ、アルシャト…!?」
驚き給え。
あの角の少女は、アルシャトではないか。とても黒くて太い角の、カーブを描く綺麗に捻じれた曲がり具合が、彼女の真っ当ではない生き方を象徴している。
因みにそれを裏付けるように、昔のアルシャトは角が真っ直ぐだったとか、別にそうでもなかったとか……。
いや、そんなことはどうでもいい。
彼女は今、湖にいるのではなかったか。
そこに呼びだしたのは他でも無い彼女自身である。
どういうつもりかと、デネボラは尋ねた。
するとアルシャトは可愛らしく頭に手を当て、舌を唇からちょびっとだけはみ出させて、とてもお道化た調子で答えを返した。
「…来ちゃった♪」
「やめろ」
デネボラはつい、真顔でそう言ってしまった。
§
数分に渡った押し問答の末に、デネボラとアルシャトは本来の待ち合わせ場所であった『最初の湖』へ向かうことにした。少なくともアルシャトにとって、話をする場所は其処でなくてはならなかった。
ついに事実を知る緊張と、ひた隠しにしていた真実を口にする葛藤。
お互いに普段の調子は鳴りを潜め、アルシャトが憎まれ口を叩くことも、デネボラがそれを咎めることも無く、道中はこれ以上なく静かな徒歩だった。
天蓋は暗く、進む方向に三日月の弧が光る。
満ちる夜はまだ遠いだろう、円満な終わりも難しいだろう。
―――果たしてこれは、時間によって解決され得るのだろうか?
「ささ、到着だよ」
「……ああ」
空より色濃い水面を、デネボラは未だかつて見たことが無かった。アルシャトに促されて湖畔に腰を下ろしたが、瞳は驚きに見開かれていた。
”吸い込まれる”とはこういうことか。
この暗澹は、自分とは比べ物にならない程を飲み込むだろう。
恐ろしくも美しい情景にデネボラは唾を飲み込む。
しばらくの時間、また違った静寂が二人の空間を覆っていた。
「……ねっ、そろそろイイ?」
「あぁ、すまないな…」
デネボラのそんな顔を、アルシャトは初めて見た。
得意の盗みで驚かせた時も、ここまで茫然とはしなかった。
心に少し、不得意な感情が沸き上がってくる。
そんなことも有ってアルシャトは、意識をこちらに向けるようにと指で何度も突っつくことでデネボラに催促した。
「で、お前はどんな釈明をするんだ?」
「わわっ、急に物騒になった…!」
「最初に出会った場所だのなんだの、そんな関係でもなかっただろ」
ド直球な指摘を受けて言葉に詰まるアルシャト。
実は彼女も、無理のある口実だと感じていたのだ。
「それ、なんだけどね…」
胸に抱えた後ろめたさで若干はにかみながら、彼女は白状してしまう。
「アレ、嘘なんだ。最初に出会った場所っていうの」
「……は?」
「というか、シャトーもそんなの覚えてないし」
どんどん躊躇いを失くしていくこの様もまた、堰を切ったよう。思い切って口にするともはや吹っ切れてしまい、話し切った後にはケラケラと笑っていた。
「なら、どうして…」
「ここに呼んだかって?」
やっとだ。
デネボラが本題に興味を示したことで、目を細めて喜ぶ。
「見せたい子がいるの」
「誰だよそれ」
「シャトーがこっそり飼ってるペット」
「……ソイツをオレに見せたいってことか?」
合点がいかず、デネボラは当惑する。
それも知らず、アルシャトは我儘に続ける。
「でも、一つだけ約束して欲しいの」
「ああ、なんだ?」
「あの子を見ても、襲ったりしないで」
「……は?」
いよいよ、理解不能だ。
自分はそんなに凶暴な存在だと思われていたのだろうか。
デネボラの心に小さく切り傷が刻まれた。
だが、些細なことである。
ここまで来ればもはや、全て聞いていくしかないだろう。
「言いたいことはそれだけ。
大丈夫だよ、見ればデネボラにも解るはずだから」
パチ、パチ。
少女は立ち上がって、手を叩く。
すると緩やかに、空気の温度が変わっていく。
『何かが来る』と、デネボラは直感した。
「おいで、ミラ」
アルシャトが名前を呼ぶ。
すると湖面がせり上がって、大きな影が姿を見せた。
ゆっくりと、その姿が月光に照らされていく。
「…湖に、クジラ?」
「よく見て、ただのクジラじゃないよ」
「あぁ、もう解ってる…」
クジラが淡水の中に棲む訳がない。
あんな風に生きていられるのには相応の理由が存在する。
「―――セルリアンじゃないか、コイツ」
目を瞠るほどに大きい怪物が、静かに水面に佇んでいた。
「おいアルシャト。
お前まさか、こんなのを…?」
デネボラは驚愕し、指先を震わせながら尋ねる。彼女の手が攻撃のために振るわれないのは、ついさっきに交わしたアルシャトとの約束があるからだ。
「でもほら、襲ってこないよ」
「それはそうだが、とんでもない図体だぞ…!」
凄まじく緊張するデネボラとは対極に、アルシャトは落ち着き払っていた。
「この子がシャトーのペット。
『ミラ』って名前を付けてあげたの!」
それこそ、彼女が一番にあのセルリアンを知っているから。
「いつもは湖の奥深くで大人しくしてるんだけど、シャトーがミラを呼んだ時だけ出てきてくれるんだよ。それで、シャトーはあの子に餌をあげるの」
嬉々として語る姿に危機を感じながら、奇々怪々な現状をどうにか噛み砕いて理解しようとするデネボラ。忌憚のない意見では今すぐにでもセルリアンを殴り倒したいところだが、それは禁忌。
まだ静観を保つのである。
「餌は普通の食べ物と、あとは盗んだ物」
「おい、まさかアイツに食べさせてたのか!?」
自身の特殊能力でペットボトルすら食べることが出来るデネボラも、これには驚きを隠せなかった。
「心配しないで、すぐに返してくれるから!」
「いや、そりゃ『食べた』って言わないんじゃないか…?」
「でも、食べ物は普通に無くなっちゃうし…」
いや、今更道理を語られたところで。
最早常識の周回軌道に戻れるはずもない。
「……それに、食べ物だけじゃ満足してくれないらしいから」
(よし、これは流すか…)
会話の中で成長している。この期に至ってデネボラは、理解できない事柄への判断を一旦保留にしておく思考術を習得した。
「最初はシャトーのをあげてたんだけど、ミラが一回食べた物はもうダメみたいなんだよね。だから、みんなのモノを盗まなくちゃいけなかったの」
一度食べた味を受け付けないとは。
ふむ、セルリアンも存外グルメなのであろうか。
「要は、ペットの餌を集めてたってことだな…」
一言で簡潔に、事情は要約された。
「お前の事情は分かった。
それでも泥棒は悪い事だ」
だが、話を聞くだけでは何も解決しない。
ここからはデネボラのターンだ。
彼女はずっと考えていた。
アルシャトに掛けるべき言葉を。
円い終わりに向かうための、最適解を。
そして一つの答えを出した。
本当に一番いい答えかどうか、そんなこと到底判ったものではないが、デネボラはこれでいいと信念を固めている。
「オレは最後でも、いやしなくてもいい。
お前は、お前が物を盗んだフレンズ全員に謝ってこい」
断罪は必要ではない。
そう結論付けた。
「……それで十分かは分からんが、そうするべきだ」
一息にまくし立て、伝えたいことを言い終わると、急に湖が静かになった。アルシャトは目を丸くしたまま、さっきまでの軽々しい態度も忘れて、デネボラのことを見つめていた。
「…なんだと、急に黙って」
「あれれ、デネボラったら急に優しくなったね」
「はぁ?」
取って付けたような剽軽に、素っ頓狂な声が出る。
「だって今までは、『殺してやる~!』って感じで追いかけて来てたじゃん」
「……お前が逃げるからだろ!」
「ぎゃふんっ!」
ここに来てデネボラは初めて、アルシャトを引っ叩くことができた。
一瞬の冷や汗と、何故逃げなかったのかという疑問が頭を過るが、彼女は努めて平静を装いながら振舞う。
「ふん、少しは反省しやがれ」
つっけんどんな言い方になったのは、以前と違う自分をアルシャトに見せてしまった恥ずかしさの所為なのかもしれない。
「……待て、一つだけいいか?」
「ん、なぁに?」
「どうしてお前、持ち物をセルリアンの餌にしようだなんて考えたんだ?」
ひとまず、謝らせるのは明日から。
今夜の所は、もう少しあのクジラについて話してみよう。
「あ~、それ?
簡単な話だよ。
シャトーに、セルリアンの飼い方を教えてくれた人が居るの!」
ピクリ。
敏く耳が動く。
デネボラは低い声を出した。
「……おい」
「な、なに?」
アルシャトは恐れた。
何かまずいことを言ってしまったかと。
だが、そうではない。
「アイツ……ミラの様子、おかしくないか?」
デネボラの意識はクジラに向いている。
先程まで悠然と佇んでいた筈のミラは、今では落ち着きなく湖の中を泳ぎ回っている。クジラが故に遊泳速度は大したものではないが、水上を巨体が動き続ける光景は只ならぬ威圧感を纏っていた。
そしてデネボラは察知していた。
あのセルリアンの視線が、敵意と共にこちらを向いていることに。
「ほ、ホントだ…」
「襲ってくる気配を感じるぞ、大人しいんじゃなかったのか!?」
「あれれ、なんで……あ」
「分かるか…?」
何かを思いついた様子のアルシャト。
指を立てて予想を口にする。
「―――もしかして、餌をあげなかったから?」
もしも本当にそうであるなら、身も蓋も無い事この上ない。
「何かないのか?」
「……」
フルフルと、首を振るアルシャト。
その間にもクジラは水の塊を吐いて、激流が二人に襲い掛かった。
「おいおい、こりゃやべえだろ…!?」
鯨が、月に当てられて狂っている。
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