第百十五節 我々と契約せよ

『我々と手を組まないか?』



 暗闇から、悪魔が声を掛けてきた。


 あの祭りの夜、草木も眠れないような喧騒から逃げ出して、ナカベの中心から少し離れた森の中。骨髄まで凍えてしまいそうな暗がりの中に、まさか自分の他に人がいるなんてスピカは夢にも思わなかった。


 この声はお化け? それとも、悪戯が大好きなフレンズ?


 分からないから怖くて、ピキリと音を立てるように凍って動かなくなったスピカの手を、生暖かくて柔らかい何かが包み込んだ。


 それはほんの少し湿っていて、粘度の高い液が滴っている。


 スピカの身体を捕まえているそれが、セルリアンであるということに気が付くまで、そう長い時間はかからなかった。



(うご、けない)



 こんなに呆気なく、食べられてしまうのか。失意の中にいた彼女は輝きも朧げに、生きることを諦めて、目を閉じた。


 そうしたところで、然程変わりはなかった。


 目を開けていても、或いは閉じていても、彼女の周りには暗闇しか無かったのだから。



『怖がることはない、話をしよう』

「しゃべ、れるの…?」

『珍しいか、言葉を話すセルリアンが』



 スピカは何も言わず、ただ頷いた。



『まあ無理もない。ならばさておき、この時代ではな』



 そう呟いた声には郷愁が混じり、遠い過去を思わせる奥行きがある。声の主についてスピカは興味を持ったが、その正体について何か手掛かりを持ち得る筈も無い。故に、彼女はただ黙って話の続きを待つ他なかった。


 続けて、暗闇の中の声はこんなことを聞いてきた。



『全身が緑色のフレンズについて、聞いたことはあるか?』

「し、知らない…」

『ふむ、やはりそうか』



 質問に対して否定すると、声はただ納得する様子を見せたばかりだった。



「それが、どうかしたの…?」

『いや、何も関係はない。興味があっただけだ』



 尋ねるばかりで自らは話そうとしない姿勢にスピカは一瞬苛立つが、直後に自分の身体がセルリアンの触腕に捕まえられていることを思い出す。


 仕方なく、スピカは我慢を続けることにした。



『そんなことよりも』



 …と、ついに話題が変わる兆しが見え、スピカは内心喜んだ。



『貴様は力を必要としている。違うか?』



 だが次にやって来たのは、物語に登場する悪魔が持ち掛けてくるような恐ろしい誘い。


 スピカは思い出した。


 自分を捕まえているコイツはセルリアンで、そのうえ言葉を話す個体という、今のジャパリパークで一番得体が知れない代物だということを。それを改めて明確に意識すると、どうしようもない恐怖が再び彼女の心に影を差し始めた。



「うぅ…」

『…まだ怖いのか?』



 ―――よくもまあぬけぬけと。


 スピカはそう思う。

 幸いなことに、心の中で文句を言う程度の威勢は残っていた。



『仕方がない。昔話でも聞かせてやるとしよう』



 声はそう言って、しばらく沈黙がその場を覆う。


 滅多に聞けない『昔話』にスピカは興味を惹かれたが、それと同時に大きな疑問が彼女の頭を過った。



(このセルリアン、そんなに長生きしてるの…?)



 こんなに恐ろしい存在が、果たしていつから。

 畏怖と興奮は相関し、アンビバレントにそれぞれの感情を強め合う。

 今か今かと、スピカは声が語り始める瞬間を待ち望んだ。



『……いや、失敬。話せるような過去など無かったな。このことは忘れろ』




 ―――スピカの心情について、もはや何かを語る必要はないだろう。




『とにかくだ。貴様はあの男を、あの子狐から奪い取りたいのだろう?』

「奪い取るだなんて、そんなこと…」

『違うのならば、否定してみせろ』

「ぁ、ぅ…」



 だが突如にして声は核心を突いた。彼女の心中を完璧に言い当てて、しかも詰め寄ってくる強い語調にスピカは動揺を隠せない。


 声は続けて容赦のない口調で、ザクザクとスピカの心の殻を切り刻む。



『己の欲望を認められない理由が、”倫理”や”道徳”といった心底下らないものであるのなら、そんな枷は此処で捨て去ってしまえ。貴様の望みを貫くためには、貴様自身が力を手にしなければならない』



 だがその実、声の話はスピカにとっては間違いなく一種の救いとなっていた。声は直接的で、包み隠しもせず、あっけらかんと、彼女の罪悪感を構成するあらゆるしがらみにメスを入れる。


 情が全くない故に、情を気にする必要もない。


 完璧に論理的な声の提案はスピカの抱えるおどろおどろしい絶望の目隠しに、これ以上ない遮蔽率を以てしてスピカに望まれた。



「力がなきゃ、勝てないなんて…」

『それを否定するなら、貴様に勝利はない』



 そうでなくては、困ってしまう。



『なに、難しいことではないさ』



 背後の影が、スピカに2枚の石板を握らせる。

 ひとつは明るく、もうひとつは儚く、暖かい輝きを放っていた。



「見返りは、何ですか…?」

『あの男が持っている天理を映す鏡だ。

 そして、奴が持っている全ての石板』



 頭上にハテナマークを浮かべたスピカのために、声は説明をした。


 天理の鏡についても、石板についても、声がした説明は概ね正しく、現在の持ち主であるソウジュの認識とほぼ同一だった。スピカもその内容を十分に理解し、非常に驚嘆しながら話を聞いていた。


 どうしてこのセルリアンはこれ程までに賢いのだろうか。

 スピカが知るセルリアンは、決してこんな存在ではなかった。



『その中に、目的のものがあればよいのだが』



 いったい何を、探し求めているのだろう。



『これ以上は貴様に話しても何ともならぬ。とにかく奴から鏡と石板を奪い取れ。そうすれば、貴様があの男を手中に収められるように、我々が可能な限りの手助けをしよう』



 怖いなんて言葉じゃ、形容に足りない。

 そんな領域はとうに越え、むしろ生きていることに疑問を覚えた。

 自分たちは、まだ滅ぼされていなかったのだと感じた。



『どうだ?』

「……」



 スピカは直ぐに返事を出すことが出来なかった。



『我々にとっては大して必要なものでもない。その石板は、暫くお前に預けておく』



 全てが終わったら、自分は用済みになるのではないか。

 いや、そんなことはどうでもいい。



『答えは、行動で示せ』



 ……あの子に、勝てるのだろうか。


 スピカがそう思った時点で、彼女の答えは決まり切っていた。


 瞬きをして周囲を見回す。

 夜闇の中には暖かい星の輝きの他に、もう何もなかった。




§




「……」

『成功したようだな』



 また夜闇の中で、声と相対する。

 しかし今度は状況が違う。


 今、彼女たちは互いに向き合い、そしてぼんやりとだが、スピカは相手の輪郭を捉えた。


 あれが、そうなのか。



『待っていたぞ、この瞬間を』



 向こうが手を差し出したように見えた。

 この鏡と、石板を求めているのだろう。


 スピカはソウジュの身体を一旦地面に寝かせて、懐から鏡を出した。


 鏡は月明かりを跳ね返してスピカの顔を映し出している。


 直視できなかった。



「これを、渡せばいいんですか」



 頷いたように、見えた。



『さあ、こちらへ』



 ほんの一瞬、スピカは躊躇う。

 だが今更、他にどうしろというのか。


 そう。


 毒を食らわば……。



「今、渡します」



 スピカは鏡を手に、月明かりの下から暗闇の中に向かって歩き始めた―――


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