第10話 決壊
灼けた森の中で、怪物と少女が相対していた。
生き物の気配一つしないこの惨状は、この怪物が引き起こしたものだ。
怪物の体躯は重厚で、少女の姿はとても華奢。
丸太のように太い脚を怪物が振るえば、一瞬にも満たない時間で少女は潰されてしまうだろう。
強者も弱者も、自明の理。
だが、とても奇妙なことに。
上手に立ち、鷹揚と振舞っているのは少女の方で。
怪物は少女を目前にして、酷く怯えていた。
『怖がる必要はない。わらわはお主の味方じゃよ』
『さぞ傷ついたであろう。さあ、遠慮せずわらわの胸に飛び込んで来るのじゃ』
『こと癒す技能にかけて、わらわの右に出る者はおらんぞ?』
宣言通り、腕を大きく広げたまま動かない少女。
怪物は躊躇うように身動ぎ、しばらく一進一退を繰り返していたが……やがて意を決して、少女の胸に恐る恐る身体を預けた。
『くふふ。愛いやつめ』
少女が怪物の耳を撫でると、嬉しそうに目を細める。
惨憺たる災の中心で、まるで台風の目のように、二人の間には穏やかな時間が流れようとしていた。
『辛いことなど忘れてしまえ。忘却は全ての痛みを消し去る特効薬。わらわの力があれば、お主の痛みも過去のもの』
はらり、はらり。
指が毛並みを梳く度に。
尻尾の輪郭をなぞる度に。
掌から仄かに漏れた緑の光が、怪物の身体に沁み込んでいく。
少女の口が、耳元で動く。
『お主の居場所も。
お主の帰る家も。
わらわが、何もかも用意してやろう』
慈しむ天使のように。
或いは堕落へ誘う悪魔のように。
少女の語り口は甘く、そして優しかった。
『明日も来てやろう。お主にピッタリな名前を、星に尋ねておいてやるからの』
少女が手を離すと、怪物は一歩前に出た。
まるで帰らせまいとするように。
ついさっきまで、この怪物は目の前の少女を排すために力を振るい、生命溢れる緑の森を紅い死で染め上げていたというのに。
『……そう不安な目をするでない。蛇に唆されたと思って、安心して待っておればよいのじゃ』
そう言われ、怪物はとても素直に地面の上に座り込む。
まるで手懐けられたペットのようだ。
落ち着きなく揺れた蛇の尻尾を撫でて、少女は微笑む。
『わらわは決して、見捨てたりなどせぬよ』
白衣の少女は、―――であった。
§
「……ルティ!」
霧の森を抜けて、廃屋の広場まで僕はやって来た。
彼の名前を呼んでみたものの、返事はない。
しかし僕は、すぐにその理由を悟ることになる。
「あ、寝てる」
夜の間に『言霊』の妖力が切れたのだろう―――再び崩れた廃屋の中で、ルティはすやすやと寝息を立てていた。
僕は思わず口を押さえて……数秒の沈黙。
どうやら、起こしてしまってはいないようだ。
辛うじて安眠の邪魔には至らなかったようで、僕は胸を撫で下ろした。
(……何か食べないと)
まあ、ジャパリまんしか無いけどね。
しかし、”収納用虚空間”と繋げなければそれすら手元になかったのだから、やはりこの妖術には幾度となく助けられている。
起き抜けに走って余計に消耗してしまった分、今朝は多めに二つほど食べることにした。「空腹は最高の調味料」とはよく言ったもので、普段よりも多い食事を半分にも満たない時間で平らげてしまえた。
胃袋の容量を考えればもう少し入りそうな気もするが、何やら良い予感がしないのでやめておく。
かつて食欲に逆らえず、食べ過ぎによって痛い目に遭う経験が密かにあったのだが……まあ、詳しく語る話でもない。
敢えて言い訳をしよう。
美味しすぎるクオの料理が悪かったのだ。
「クオも、まだ寝てるのかな…」
早いところラッキービーストを取り戻して、クオが寝ているうちに帰りたいね。あの子が目を覚ました時に僕が居なかったら……ちょっと面倒なことになるかもしれないから。
例によって過去に経験アリ。
機会があったら詳しく振り返ろう。
それはさておき。
僕はルティの周囲にある筈の、ラッキービーストを探すことにした。そして、捜索はさほど
「げっ、随分と大事そうに抱えてるじゃん…」
絶対に渡すまいと言わんばかりの体勢。
この状態の彼から機体を奪い取るのはきっと難しい。
……仕方ない。
ルティが起きてから、返してもらえるようにお願いしてみよう。
―――さて。
なんか、眠くなってきちゃったな。
それも当然か、今朝は似合わない早起きをした。
埋め合わせはちゃんとしておかないと。
「添い寝しても、許してくれるかな…?」
前々から気になっていたけど、ルティの身体って結構寝心地が良さそうだよね。
特に鳥の翼の部分とか、羽根がふさふさで絶対気持ちいい。
この状況、かなりのチャンスじゃないかな?
眠っているルティの身体に、僕はそっと体重を乗せる。
しばらくかけて、ゆっくり身体を沈めて、目を覚ます様子はない。
大丈夫そうだね。
僕はルティの身体を枕に、二度寝をすることにした。
「おやすみ、ルティ」
掛けた声に、低く唸る声。
返事をしてくれたのかな。
まあ、唯の寝息か。
§
「そろそろ、教えてくれてもいいんじゃないか?」
「む? 何のことじゃ?」
「ルティのことだよ」
ソウジュがルティを追い、家を飛び出してから少し後。
しっかりとした朝食を終えたコウとアスは、軒先で他愛のない話をしていた。
その途中に、コウがこの話を持ち出したのである。
肩を竦め、アスは力なく首を振って答えた。
「昨日も言ったが、わらわとて全てを知っているわけではないぞ。むしろわらわの方こそ、知りたいことが沢山あるのじゃ」
彼が納得できる答えを用意することは出来ない、とアスは言った。
「それでも」
「それでも?」
「……俺よりは、何かを知ってるはずだ」
しかし、コウは引き下がらなかった。
彼がさっき口にした通り、「そろそろ」という思いが募っていたのだろう。
その様子に、もう誤魔化せないことを感じ取る。
「ふう…」
溜め息をついて、アスは腹を括った。
「お主には、何を教えておったのかのう」
「ルティの好き嫌い、お気に入りの場所や遊び、扉の能力、そして……俺をこの世界に連れてきたこと」
羅列された話の中身は、どれも核心には迫らない。もちろん、重要な話もあるにはあるが、”ルティの生い立ち”という点に関してだけ言えば、大きい比重を占めるような事実はなかった。
「ほうほう、そうじゃったか」
割と話しておるではないか、と軽口を叩く。
「行こう」
柵を飛び越し、コウを手招く。
「ルティのところに行きながら、ゆっくりと喋ろうぞ」
一番の真実は、今もそこにあるのだから―――
「最初に出会ったとき、ルティは暴れていた。まるでこの世の全てを憎んでいるかのように、辺り一面を焼き尽くしていた。あの廃屋の周りがキレイなのは、ルティがそうしたからなのじゃ」
話すアスの脳裏に、巨大な炎が過る。
「じゃが、ルティは矮小であった」
それは巨大だが、虚仮威しだった。
マッチの先に灯る小さな炎の方が確かで、強い。
ルティの炎は、怯えていた。
「あやつはそれほど強大な力を持ってはいなかった。もしそうでなければ、今頃パークの地図から『リクホク』の字は消えていたかもしれぬな」
それでも、憎悪だけは本物だった。
怯え、弱者として立っているが故に、一片の容赦すらない。
少しでも運命が違えば、或いは……。
「……いや、そうはならぬか。
もうこのパークに、地図を作り直す者などおらぬからの」
からから、笑う。
「話を戻そう。わらわはルティを癒し、居場所を与えることにした。すぐにあやつは元気を取り戻し、今のような天真爛漫な性格になった。無論、危うい精神状態に変わりはないのじゃが」
心の支柱を失えば、またいつ出会った当初のような状態になるか分からない。
そんな不安定な重しを、アスは支え続けていた。
「その頃のルティに、今のような力はなかった」
にもかかわらず、ルティは変わり続けていた。
「いつじゃったかのう。ある日を境に、普通ではない姿をしたユニークなセルリアンが現れるようになった。ちょうどその辺りの時期に、ルティは扉を生み出し、世界を自由自在に行き来する力を手に入れた」
扉を通じ、空間を、世界の壁すらも乗り越える。
「そしてお主を誘拐してきた」
その結果、別世界の住人を引き込んでしまうことになる。
「自分と似通った存在に、心を惹かれてしまったのじゃろうな」
キメラのルティが連れてきたのは、同じくキメラのコウだった。
「……あの子が暴れていた原因は?」
「分からぬ。皆目見当もつかぬ」
「世界を憎んでいるようだった、って言ったよね」
「飽くまで主観じゃがの。あの時のわらわの目には、そう見えたのじゃ」
瞼を閉じて、イメージすれば、今すぐにでもアスには視える。
何度もそうすることで、彼女はルティを理解しようとした。
それでも、何がルティをあそこまで絶望させたのか、今日この日まで知ることは出来なかったが。
「これから分かるやも知れぬ。あのラッキービーストのお陰で」
そうして初めて、前に進める。
アスはそう確信していた。
「うん……ん?」
ドーン…!
遠くから、何かの爆ぜる音が響く。
得も言えぬ冷や汗が、コウの額を伝った。
「…爆発?」
「目的地からじゃ。まさか…」
「急ごう」
少し脚に力を込めて走り出す。
単に『少し』と言っても、それは彼の基準。
ヒトからしたらかなり速い。
(…なのに)
息一つ乱さず、アスはその速さについて来ていた。
だが、今はそれよりも状況の確認だ。
彼らはすぐに、爆心地であろう広場に着いた。
そこは、燃えていた。
「……っ!?
この状況は……あ、ソウジュくん!」
木の根元でソウジュが倒れていた。
服は土まみれ、手足には擦りむいた跡。
何かに吹き飛ばされて、木の幹にぶつかって止まったのだろう。
意識はあるようで、痛みに呻き声を発していた。
「ぐ、うぅ…」
「ソウジュくん、何があったの?」
「僕がアレを……止め、られてたら…!」
「”アレ”…?」
要領を得ない。
それほどの、緊急事態…?
「コウよ、見よ」
アスの声がして、コウは正面を向く。
指差す向こうに、怪物が居た。
「ル、ルティ…」
炎?
いいや、紫の瘴気。
中心でルティは何をしている?
コウは目を凝らした。
「……ッ!」
そして見てしまった。
「…壊しておるのか」
一心不乱に。
毒を纏って。
腕を打ち込む。
…もう、壊れているのに。
ルティは、ラッキービーストを滅多打ちにしていた。
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