第2話 霧と馴鹿
「へぇ、二人は森の近くに……ひゃっ!」
「気を付けてね、視界が悪いんだから」
「…うん」
跳ねる水音。
霧の中で水溜まりに足を取られたクオは、目尻を下げて俯いた。
咄嗟に僕が身体を支えて、それ以上は事なきを得たけど、濡れた靴下は歩くたびにぐしょぐしょと音を鳴らして、クオはとても不愉快そうだった。
これは放っておけないな。
「『乾け』……よしっ」
「ソウジュ、ありがとう~!」
こっそり言霊を使って、乾かしてあげる。
思わず僕に抱きつくくらい喜んでいたクオだけど、使った妖力はクオのものだから少し後ろめたい。
でもまあ、別にいいか。
だって、もっと心配な子が目の前にいるから。
「ブラックバックは平気なの?
さっきから、前も確かめずにどんどん進んでるけど」
前方に待ち受けているであろう障害物を全くと言っていいほど気にしていないのは勿論、足を進めるスピードも速い。このまま行くと、近いうちに惨事が起きる予感がする。
そう思ってした忠告も、彼女は一笑に付して払いのけた。
「案ずることはない。未来とは常に見えぬもの。この五里霧中の空間こそ我らが暗黒の夜を正しく表している。我は決して臆せぬ、我らの今進むこの道こそが天駆ける凱旋のふぐぉっ!?」
「あ、木にぶつかった」
……まあ、不用意に進んでりゃそうなるよね。
「うわ、大丈夫かっ!?」
「ふっ…気にするな。我は強い」
「ふらついてるじゃん…」
タスマニアデビルに支えられながら歩くブラックバックに合わせて、牛歩で森の中を進んでいく。先程と比べれば断然と安全になったものの、根本的に視界は悪いままだ。
これでは、さっきのようなことが再び起きる危険もあるし、セルリアンが近づいてきても気付けない。『キメラ』とかいう怪物も、本当に居るのならば出遭わないほうがずっと安全に違いない。
勢いに飲まれて森に入らざるを得なかった側面はある。
だけど、きっと安全な迂回路を他に探すべきだった。
……ううん、まだ遅くないかも。
「オーストラリアデビル、少しいい?」
「うん、なに?」
「今からでも、道を変えて見晴らしのいい場所を通りたいんだ。何か良い方法は無いかな」
「たぶん、あると思う…」
オーストラリアデビルは自信なさげに微笑んで、この森について話し始めた。
「この森はね、みんな霧に覆われてるわけじゃないの。外から入って森を抜けられる、大きな明るい道があるんだ。だから最初、わたし達はそっちに案内するつもりだったんだけど……」
そこまで言って、押し黙る。
ブラックバックに押し通られて、それは出来なかったと。
「…申し訳ないね」
「ううん、大丈夫…!」
予想通り、安全な道はしっかりあったんだね。
どうして彼女たちが僕らの動向を掴めたのかという疑問は残るけど、ただの偶然な可能性も十分に考えられる。
詳しい事情は後にして、今はこの霧を抜ける事を考えよう。
「で、方法って?」
「わたし達の住んでるおうちが、多分その道を越えた先にあるの。とがった山のてっぺんが向きの目印だから、木に登ってその方向に行けば途中でその道に出られると思うよ」
ゆらっと伸びた彼女の指先へと目をやる。
実際には適当な方角なのだろう。
しかし僕には本当に、その方に明るい道があるように思えた。
「それは良い案だな」
そして前方から、ようやく覚束ない足取りを捨て去ったブラックバックが確かな歩調を踏んで戻って来た。
「我のせいで申し訳ない。霧の誘惑に抗えなかった」
「気にしなくてもいいんだぜっ!」
そう言って励ますタスマニアデビル。
この様子なら、後に溝が残るようなこともなさそうだね。
「そしたら、僕が登って確かめてくるよ」
「待て」
幹に手を掛けた僕だけど、ブラックバックに服を引かれる。
何事かと思って振り返れば、彼女は木々の向こう、暗闇の中でも一段と暗い影に手を伸ばしながら言った。
「道を探す前に、招かれざる客人を追い返さねばならぬようだ」
「……セルリアン?」
「恐らくな」
しばらく身動きを止めて、相手の出方を窺う。
警戒するこちら側とは対照的に、向こうは悠々と歩みを進め、無警戒にハッキリとシルエットが見える距離まで接近してきた。
三人からは見えないよう木陰に浮かべた狐火で姿を照らして、顔面に浮かんだ一つ目でセルリアンだと僕は確信した。
「トナカイみたいな見た目だね」
「く、来るぞっ!?」
タスマニアデビルが反射的に叫んだ、刹那。
疾駆する風。
僕とクオの間を黒が摺り抜けた。
歩みとの緩急に口を開く。
その場にいた全員が、攻撃から離れるように身を躱して、ブラックバックが杖を地面に突き立てて言った。
「視界が悪いが相手は普通のセルリアンだ。全員で協力してかかれば、苦戦するような相手ではない」
彼女の食えない性格も、この時ばかりは頼もしい。
握る杖は支柱にも見えた。
「だといいけど……ん?」
立ち上がるために手を突いた僕は、妙な冷たさに首を傾げた。
「草が、凍ってる…?」
一部の草だけに、不自然に霜が降っている。
探ってみると、凍った草が帯のように広がっていることが分かった。
踏むとシャリっと鳴り響く。
こんな音も感触も、ついさっきまでは一切なかった。
セルリアンの仕業である可能性が高い。
(この霜の帯は、セルリアンの通った跡に出来ているのか。思ったよりも厄介な相手になりそうだ……)
ただのセルリアンかと思えば、なんと氷の使い手だったとは。となると僕も、氷に対して有利な属性を駆使しながら戦う必要があるだろう。
(火を放つなら、鳳凰座かな…?)
いや、それだと間違いなく山火事になる。
僕らごとセルリアンを巻き添えにして、みんなまとめて一巻の終わりだ。
森で使うのは、もっと安全なものがいい。
唐傘を介して放った妖術なら、火力を調節できるだろう。
唐傘を使う前に、こぎつね座と『同調』しておこう。普段よりも、キツネの姿の方が妖術の扱いに長けているからね。僕はクオに目配せをして、身を屈めて近づきながら腕を伸ばした。
「クオ、いつもの」
「えへへ、待ってた♪」
パチンとハイタッチ。
僕の身体を光が包む。
「『
キツネになって、傘を携え。
「む、その姿は…?」
「まあ見ててよ、セルリアンは僕たちで倒すから」
「良かろう、任せたぞ」
そう言って、後ろに下がったブラックバック。
「だ、大丈夫かなぁ…?」
「心配しすぎだ、信じてやろうぜっ!」
「う、うん…っ」
タスマニアデビルとオーストラリアデビルも、同時に頷いて木陰に隠れる。
「ソウジュ、やっちゃってっ!」
唯一クオだけが、僕の隣に立って応援をしてくれた。ちょっと危ないような気もするけど……まあ、クオなら平気か。それを気にするなら、危ない目に遭う前に倒しちゃわないとね。
凍てつく雑草を踏み抜いて、セルリアンと正面から向き合った。
唐傘を真横に振り抜き、術式の回路に妖力を流す。
「―――吹き荒れろ」
風が吹き、枝から見放された葉っぱが空中を舞う。無数の緑に囲まれて、トナカイのセルリアンは戸惑うように足踏みを打つ。僕は別の回路にも妖力を流して、やがて傘は先端から炎を纏い始めた。
いつでも足を踏み出せるよう、腰を落として機を狙う。
向こうも僕の存在を目に付け、ガサガサと後ろ脚で地面を蹴りながら角を天に振り上げた。
速さで追いつけない。
即ち先手必勝。
「……切り裂けッ!」
風に乗り、遊ぶ一閃。
氷霜を裂いて炎が走る。
然程深い手応えではなかったが、確かに胴体の真ん中を捉えた。
青い狐火にセルリアンの身は灼けて、激しい錯乱に地団駄を踏み踊って、ギロリと色の無い一つ目がこちらを睨みつける。
「あはは、夢中だね」
この一撃で、セルリアンの意識は僕に首ったけ。
背後でチャンスを待っているクオのことなんてもう意識の外。
(それとも、見るまでもなく分かるのか……)
正味、可能性は低そうだ。もし見えなくても分かるなら、僕がさっき使った葉っぱの目くらましも通用しなかった筈。
不意打ちはきっと上手くいく。
僕の傘が奴を仕留めきれなかった時、その時はクオの愛刀がセルリアンの首を討ち取ることになるだろう。
(でも、その必要がないようにしなきゃ)
もっと高い火力を、もっと確かな決定力を。
とうとう傘を開いて、複数の回路に同時に妖力を流す。
幾つもの妖術を、一緒に傘の上で転がして、カラフルな一つの妖術に姿を変える。
火、水、氷、雷、風、岩、草……と諸々。
混ぜこぜにして、絡み合わせて、くるりと舞踏と神樂の音頭。そこに込められるだけ、ぎゅうっと僕の妖力を注ぎ込んで生み出された宝珠は、すぐにでも壊れてしまいそうな不安定な輝きを放っていた。
というか多分、砕けるね。
ま、いいや。
「その前に、キミに叩き込んでやればいい」
クルクル~っと傘を回して、攻勢開始だ。
まずは地面から現れた蔦がセルリアンの脚を束縛する。続けて雨雲を頭上に喚びだし、雨と雷で感電させる。ビリビリと痺れながら藻掻くセルリアンだけど、強固に巻き付いた蔦から逃れることは出来ない。
…さて、前準備はこの程度に。
「まだまだ行くよっ!」
次は岩。
足下から勢いよく、高く突き上げる。
当てると同時に蔦を解くことで、セルリアンは空高く打ち上げられた。
あと少し。
そのまま落してしまわぬように、更に高く、風で黒い身体を巻き上げる。
「これで終わりだ」
とどめに炎と氷を添えて。
巨大な火球と氷塊が、隕石のように振ってくる。
螺旋を描くように距離を詰めながら、じりじりと終わりの時を待つ。
3、2、1。
「どっかーんっ!」
クオの元気な掛け声と一緒に、温度差に触れて大爆発。過負荷の炎が辺りを燃やし、草熱れで溶解した氷が風で吹き上げられて、さっきよりも冷たい雨が森の中を降り頻る。
僕は開いた傘を身体に被せて、布に当たる雨の音を狐の耳で聴き耽っていた。
「ソウジュ、入れて~っ!」
「あぁ、ごめんね。雨降らせちゃった」
そっと身を寄せて相合傘。
今度は濡れた髪の毛を、暖かい風で乾かしてあげる。
さらさらと、ずっと触れていたい心地。
「……あ、石板もあるね」
爆心地の真下に落ちていた石板。
あらぬ方向に飛ばされたりしてなくてよかった。
拾い上げて、いつものように眺めていると、普段との差異が目に残った。
(これ、割れてる。普通の石板とは違うのかな?
触っていると、なんだか妙な感じがするし)
この違和感の理由は、一体……?
「ま、いっか」
いつも通り、分からないことは後回し。
雲の棚引く山脈を見つけ、早くこんな薄暗い森を抜けてしまおう。
そして、『同調』を解こうとしたらクオに怖い眼差しで止められて、終日キツネの姿でいる約束を無理やり結ばされながら、しっかりと目印の方角は目に焼き付けることが出来たのだった。
霧を抜けるため、歩き続く。
その間ずっと、自分の尻尾に巻き付いたクオの尻尾の毛並みを感じながら。
§
「視界が悪くて窮屈だった! こゃぁ~!」
霧の中から出るなり、クオが叫んだ。
立ち上がった耳と、素早く回転する尻尾。秋の紅葉のようにほんのりと色づいた頬の温もりが、彼女の喜びを表している。
僕は傘を閉じ、滴る雨を草で拭う。
「これで、リクホクは抜けられそうだね」
「うむ、最後は良い方に転じたのだな」
くつくつと喉を鳴らしたブラックバック。
また調子の良いことばっかりと思いつつ、結果オーライとしておこうかな。
空を見ると、太陽は峠を越えて傾き始めている。
あと数時間としないうちに、今は青い空も紅く色づいてしまうことだろう。
どうしようかと悩んでいると、オーストラリアデビルがそっと手を挙げて、彼女たちについて来ないかと提案した。
「あの…せっかくだから、わたしたちのお家に寄っていかない? みんな疲れてると思うから、休んでから出発した方が良いと思うの」
「だなっ! オレも歓迎するぜっ!」
リクホクを通った回り道をすると決めた時点で、今日の内にナカベまで足を進められるとは思っていなかった。半ば、少し前のように野宿をする算段でもあった。
だから、もしも夜を明かす場所を貸してくれるというのなら、僕たちにとってそれ以上に有難いことは無いだろう。
旅って言うのは本当に、何が起こるか分からないものだね。
「…じゃあ、お世話になろうかな」
そうして彼女たちの住処を訪れた僕は、改めて思い知らされることになる。
―――”旅の予想外”とは正しく俄か雨の如く、幾重にも容赦なく降りかかってくるものであるということを。
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