第八十八節 天秤にかけて
断続的な電子音が、電灯の尽きた部屋の中でずっと鳴り続けている。それはまるで機械に載った心音のように、情操に満ちた輝きを無機質に知らしめている。同様に、感情を思わせない瞳でそれを注視しているエルは、自らが差し止めた機械の声を爪で消し沈めていた。
ニュートンの揺り篭が時を刻み、ルーブ・ゴールドバーグが水を下から上に持ち上げる。砂時計のくびれを摺り抜けていく赤い粒は、同じくガラスの中にある天秤を左右に、不規則に傾けて再び全てが反転した。
例えば、エルが、最初から全てを予測していたとすればどうだろう。
”悪魔”と呼ばれたラプラスのように、既に決まった未来を見続けていたとしたら。
それが、彼女が通信を停止させた理由になるのではないだろうか。
決してロウエを巻き込むまいと、役不足も甚だしい雑魚セルリアンの掃討に彼女を駆り出させた真意は、今も胸の中。
人とも分からぬ待ち人は、未だ扉を叩かない。
「……これデ、よかったノ?」
「構いません。全て計算通りに進んでいます」
乾いた音を響かせる、鍵の形をした手の中のパズル。
あと数手の状態を保ったまま、それを回し続ける。
「ロウエたちの力を借りれバ、安全性は大幅に上昇するヨ…?」
「必要なデータは全て開示されるべきです。安全性が上がるのは、全員に危険を分散するからでしょう?」
ラッキービーストの提案を、冷たい反駁で押し殺す。
ぐうの音も出ない真実に、彼は二の句を継げなかった。
その様子を一瞥し、また鍵を回す。
「貴方は賢いですが、やはり詰めが甘い。思考パターンに変わりがありませんね」
「……やっぱリ、分かル?」
「分かりますよ。もう100年も経つのです」
さらりと言い流すエルに、普通と同じ時間の感覚はない。彼女にとって、時とはそれ即ち無限にわたり存在し続ける物で、彼女が時に関して何か憂うようなことは、不定期に発生する
ラッキービーストも、エルとの長い相対を重ねて思考の深みを手に入れてきた。だが100年という長い時間のサンプルは、彼の成長を帳消しにするくらいの重みを以て彼を確実に理解していた。
天秤座の輝きを映す黄色い瞳が、冷たい機械の中身を見透かしているのだ。
「それでも、まだ理解不能なことがあります」
だが今日もエルは、ラッキービーストを見ていた。
内側の機構ではなく、表面を彩る彼の外面に目を向けていた。
不思議そうに、尚も興味深そうに。
「どうして貴方が、今のように、完全な自我を持って行動できるようになったのか」
「ボクたちハ、人工知能を搭載しテ、お客さんの要望に柔軟に答えられるように創られているからネ」
彼の返答にエルは首を振る。
「やはり、答えを教えてはくれないのですね」
およそ10年――彼が自我を手に入れてからずっと――二人の間で幾度となく交わされてきた会話の再現である。繰り返し処理の条件は1のまま、変える手立てもずっと無いまま。
また、ひっくり返って問答はリピートされる。
「構いません。いつかは理解できることです」
「それまデ、どれくらいかナ?」
「貴方が教えてくれれば、今すぐですよ」
無表情で冗談を呟いて、エルは鍵を回す。
この返答はある日、何気なく読んだ本の中にあったセリフの一つだ。
真意を理解してから、彼女はこれを甚く気に入って、似たような言い回しを本から掻き集めて会話の節々で使おうと努力している。
……もしエルの口調に皮肉めいたものを感じたとしたら、きっと原因はそれだ。
エルはまた鍵、パズルを回して、ついに解いた。
机にコトンと放置して、窓から下の廊下を見つめた。
「…そろそろですね」
「来タ?」
「”揺り篭”に力を与える時間です。『力学的エネルギー保存の法則』といっても、現実的には様々な要因で力が失われていきますから」
ラッキービーストが転げた。
エルは構わず、ニュートンの揺り篭を1から動かし始める。
カチッ、カチッ。
心なしか元気になった金属音。
即ち、元気が失われていくことを意味している。
「……悪魔がいれば、永遠に揺れ続ける機構を作ることも可能でしたが」
確かな未来を見つめる悪魔のように、時を逆行するような悪魔もまた、想像の世界には存在していた。今ではもう否定されて跡形もないが、或いはそうではないかもしれない。何故ならエルが未来を観ているから。
未来は部屋の外にあった。
ヒトの音を察したイヌのように、エルは扉を凝視していた。
間もなくノブが捻られて、待ち人はついに現れた。
ぱちくり、瞬きをして、視線を上げる。
「待たせたな」
「…ええ、時間通りです」
現れた彼もしくは”彼女”、ここでは”彼女”としておこう。
”彼女”はエルの意味深な言い回しに眉を顰めた。
しばし過去を振り返り、待ち合わせの時間を決めた覚えが無い事を確かめた後に。
「お前と約束をした覚えはないが」
「お気になさらず、ただの演算結果ですから」
「…フン、気味の悪い生き物だ」
”彼女”はそう言って……ふと何かに気づいたように、口を歪めてとても意地の悪い笑みを浮かべた。顔が見えないほど深く被ったフードの下で、真っ赤な瞳が愉悦に細くなる。
横にあったソファに乱暴に腰を掛け、心底馬鹿にしたような口調で、”彼女”は隙あらばと言わんばかりの口撃をエルに向け始めたのである。
「いや、お前たちは生き物ですらない。フレンズと呼んでいいかどうかも甚だ怪しい、我々と同様、他の輝きに依存しなければ生きることのできない不完全な存在だ。そうだろう?」
―――突然のことに、エルは目を丸くした。
「……それは、質問ですか?」
「答える必要はない。絶対不変の結論には、何も」
”ついさっき思いついたような絶対不変とは何なのか”―――エルはつい、そう尋ねようかと逡巡したが、決して良い結果にはならないだろうと言葉を仕舞った。
好き勝手な口撃のせいで時機を逃したものの、気を取り直してエルは”彼女”に対し、ここに押し入って来た目的を話させることにした。
「では、本題をどうぞ」
「どうせ知っている癖に、やけに非効率的だな?」
「言うことが無いなら、お帰りください」
「分かった分かった、堅い奴め」
『堅い』と言われて、エルは自分の二の腕をつまんだ。
そして”彼女”の認識が間違っていることに気づいた。
エルはとても柔らかい。
実は体幹も結構できる方である。
まあ、閑話休題。
”彼女”はエルの要請に応え……ようとする素振りを見せた。
「私はお前と違って効率的だから、シンプルに言ってやろう」
「前置きが長いです、単刀直入にどうぞ」
「……チッ」
エルの言葉に舌を打ち、”彼女”は望み通り率直に要求を突き付けた。
「なら言わせてもらう。ラッキービーストの制御権を明け渡せ」
「―――どうぞ。そのままお帰りください」
さらりと理不尽な要求を流し、自然な動きで外へと案内しようとするエルの手を振り払って、”彼女”は尚も高圧的な態度で迫る。
「ほう、断るのか」
「当然のことを言っただけです」
「まさか、これを取引か何かだと思っていないだろうな?」
乱暴にエルを突き飛ばし、更に踏み寄る。
空に鋭い刃を形作り、峰を頸に押し当てて脅した。
「もう繰り返しはしない、ラッキービーストを渡せ。さもなくばお前を含め、カントーにいる全てのフレンズがセルリアンの海へと沈むことになるだろう」
エルは、何も言わない。
「さあ、どうした? 得意の演算は? まさかこの程度の単純な問題で
刃を握る手に力を込める。
深く食い込み、跡が残り、血が滲んでも、まだ口を開かない。
ついぞエルは反応を見せず、歯痒さに限界を迎えた”彼女”はとうとう刃を投げ捨て、首を掴み、エルの身体を持ち上げて最後通牒を突きつける。
「実感が湧かないのなら、身を以て教えてやっても構わないが…」
「―――あと十秒」
「…は?」
やっと口にしたエルの言葉は、”彼女”を拍子抜けさせた。
怪訝な顔をする”彼女”にも一切構いはしない。
そして一度たりとも、まともに相対することは無かった。
「難儀なものですね。遠ざけようとしても、叶わないなんて」
諦めの籠った安堵の声。
そう錯覚させる、抑揚のない声。
「―――エルちゃん、無事かっ!?」
吹き飛ばすように開けられた扉の騒音に、その言葉は掻き消されてしまったのだった。
「あっ…!」
「お前は…」
そしてロウエと”彼女”がついに出遭う。
互いの鋭い眼光が相手を貫く。
「アンタ、フレンズじゃないね…?」
「面倒だな、ここで邪魔が入るとは」
「エルちゃん、ウチの後ろに隠れといてな」
素早く部屋を横断し、エルを庇うように間に立って武器を構えたロウエ。
「エルちゃんは、ウチが守る…ッ!」
「徒労だな。そのように、何時かは潰える輝きを守ろうなどと」
”彼女”の冷たい嘲笑をロウエは笑い飛ばし、逆に啖呵を切ってみせる。
「それが何や、その程度のことでウチの気持ちは変わらんで?」
「愚かな。我々が、お前たちを永遠にしてやろうというのに」
「貴女が永遠を手にすることなど、在り得ません」
引き下がらぬ強弁を、エルが冷たく斬り捨てる。
もはや問答は無用と悟ったか。
壁に刺さった刃を抜き去り、軋むほど強く握って二人に告げる。
「……来い。捻り潰してやる」
月光を吸い込む天井の窓が割れ、破片が開戦の音色を奏でるのだった。
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